ないしょ
ないしょ
『まもなく、5番線に、普通——』
A.M.6:14。
昨夜もよく寝た。
何をしても続かない、うまくいかない私が、唯一続けてきた習慣。
この歳で、22時には電気を消して目を閉じるなんて、珍しいんじゃないかな。
『—黄色い線の内側に、下がってお待ちください』
この時間、上りのホームの乗車位置から伸びる人の川は、瞬く間に急成長を遂げる。
でも、私は5番線。
本流から外れた下りのホームまでは、言うなれば小川のせせらぎなのだ。
ベンチから立ち上がり、スタスタと乗車位置の目印へ向かう。
ふわっと風が吹いて、電車が速度を緩めながらホームに入ってきた。
今日も時間ぴったり。
ごくろうさまです。
スカートを手で軽くおさえる。
—プシュー—
ドアが年季の入った重厚な音とともに開く。
先頭車両から2両目、3つあるドアの、1番前。
乗車していた大人たちが、みんなして慌ただしく降りてきて、我先にと階段を駆け降りていく。
そんな激流を横から眺めたあと、私は落ち着いてゆっくりと乗車して、右奥の壁際に腰を落ち着けた。
ここが私の定位置だ。
電車はゆっくりとドアを閉め、そろりそろりと動き始めた。
見た目からは想像がつかない、この滑るように静かな走り出しは、この電車の魅力の1つだと思う。
きっと、4両しかないからできるんだろう。
静かに揺られながら、窓の外を流れていく住宅街を眺める。
急にこもった音になり、景色が遮断された。
日光が邪魔をしない、今がチャンスだ。
ポケットからスマホを取り出して、暗いままの画面を見ながら前髪を整える。
イヤホンを耳につけ、曲は何もかけずに、ノイズの除去はオフに設定する。
そしてついに暗闇を抜けた時、景色は以前から一変している。
どこまでも続くかのように広がる均等に並んだイネ。
薄くかかった霞が、景観をより深いものにしている。
細い川の上を通過する。
川というより、用水路?
朝日が水面に反射して、ちらちらと輝く。
車内の天井に映る波の影が、不思議な空間を演出する。
走行音が低く鈍いものに戻って、再びあお色の海をかき分けていく。
段々と民家が増えていき、すっかり住宅街になった。ニュータウンってやつだろう。
『間もなくー』
車内アナウンスが聞こえた。
ポケットからスマホを取り出して、時間を確認、A.M.6:21。
いよいよだ。
目を閉じる。
電車が減速していくにつれて、私の鼓動は速くなっていく。
電車が、ピタリと止まった。
—プシュー—
私の右で、ドアが開く音が鳴った。
すぐには誰も入ってこない。
不安になるけど、目を開くわけにはいかない。
黙って、少し手を握り締めた。
コツン—コツン—
ようやく、革製の軽い足音がすぐ右から聞こえた。
朝起きた時から、あるいは昨夜寝る前から、ずっと待ち望んでいた音。
その音は1度ドアの前で止まり、少しして、奥へと進んでいった。
動き出した電車につられて、気になって、気になって、我慢が効かなくて、少しだけ目を開いた。
あなたはリュックと、いつも持っている、それと同じくらい大きな黒い手提げバッグを足元に置いているところだった。
そのバッグに何が入っているのだろう。バッグについた2つの黒いクリップバサミは、一体何に使われるんだろう。
物憂げな表情でさらりと重めのマッシュを揺らし上体を起こしたあなたは、手を伸ばして吊革、ではなくさらにその上の手すりを掴んだ。
何度見ても息を呑むほど背が高い。
こちらを見た気がする。じっと見つめすぎただろうか。頬が熱くなるのを感じながら、慌てて目を閉じた。
しばらくは我慢の時間。でも、揺れる車体に身を任せ、あなたの表情を、声を妄想しているうちに、電車はあっという間に9回目の停車を迎えた。
ドアが開くとともに、たくさんの足音が入ってくる。
この駅が1番好きだ。
電車が動き出して、目を開けば、目の前には大きな黒い手提げバッグがある。
そのまま見上げるとそこには、あなたの大きな手が。
骨と血管がうっすら浮き出ているその手が、とても好きだ。
背が高いから、吊り革を通り越して棒のほうを掴んでいる。
ここにいる間、あなたはずっと窓の外の何かを眺めている。
その綺麗な瞳の先に、何を映しているの?
気になるけれど、それにばかり時間は割けない。
だって、今だけは自由にあなたを観察できる。
広い肩に、長い首、ワイシャツの外れた第1ボタンの間から見える鎖骨…
そこまで見て、ハッと我に返って、自分があまりに見惚れていたことに気づいた。カクン、と項垂れて、火照った顔を、手でパタパタと扇ぐ。
彼の右手が、ポケットからスマホを取り出したのがわかって、動きを止める。
『間もなく、終点ー』
車内のアナウンスが、夢の終わりを告げる。
電車が減速を始めた。
彼の指先が、ジェンガを抜く時のように優しく私の肩に触れる。
車体が完全に止まって、ドアが開いた。
ふわりと爽やかな香りが鼻をくすぐる。
「駅、着いたよ」
優しくて、低くて、静かな声で、あなたは私にそう言った。
急速に頬が熱を持ったのを感じて、つい口元が緩む。
「おはよう」
挨拶をしてみる。
腕で隠されたその顔には、どんな表情が浮かんでるのだろう。
寝たフリだってことは、たぶん、これからも、ないしょ。
一口物語 夜之 呟 @yanoken3
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