第28話
例えば、机の上のメッセージが昨日のままだったり、或いは三日前のままだったり。
図書室の本の匂いがちょっと懐かしくなったり、だから一人で本に囲まれてみたり。
そんな風に、卒業式が近付くにつれ、学校の中にある彼女の気配というか、彼女と一緒にいた空気みたいなものが薄れていく。
彼女と疎遠になったわけではないけれど、僕より一足先に彼女は学校から巣立っていく。
そのことに、一抹の寂しさを感じるのは確かだ。
卒業式の三日前に、その予行演習が行われた。
といっても、全体での演習は既に済ませているらしく、その日はクラス委員や運営に関わる生徒だけの点検作業みたいなものだった。
式次第や立ち位置などを確認したり、イスの配置や数をチェックする。
僕は体育館を見渡した。
当日、僕はここで、定時制代表として送辞を述べる。
勿論、合同文化祭と同じく、我が校始まって以来のことだ。
「何だか不思議」
いつの間にか、彼女が隣に立っていた。
予行演習も、もう終わりそうだ。
壇上では宮ちゃんがマイクの最終確認をしていた。
「入学式も、授業も、学校生活のどこにもあなたはいなかったのに、あなたに見送ってもらえることが嬉しくて寂しい」
広い体育館を、彼女は愛おしむように見て言う。
僕も同じことを考えていた。
昼と夜とは繋がってはいても、重なることは無い。
だから僕は、授業を受けている君は知らないし、昼休みに弁当を食べる姿も見たことが無い。
それでも、君を見送れることが嬉しくて寂しい。
「もうあの席も、死守しなくていいね……」
四年生になれば、席どころか教室も変わる。
いや、同じ教室、同じ席であったとしても、机に僕宛の文字が書かれることは無いし、君は学校からいなくなる。
昼と夜とを繋ぐ、たった一つの小さな窓は、もう役目を終えるのだ。
「水瀬、そろそろ」
宮ちゃんが彼女に声をかける。
まだ何か作業が残っているのかと思ったが、これから二人で自主的に中庭の掃除をするらしい。
掃除するのも最後、と思えば、感慨深いものだろうけど、どこまでも真面目な二人に笑みが
手伝いを拒否されたので、中庭のベンチに座って二人を眺める。
桜が咲くにはまだ暫くかかりそうだが、春めいてきた陽射しに頬が綻ぶ。
「もう、信じられない!」
彼女が憤っているのは意外とポイ捨てが多いからのようで、正義感の強い彼女らしくもあり、ぷんすか怒る姿は可愛らしくもある。
「汚した人に腹を立てるより、綺麗にした自分を褒めるといいよ」
緒方さんからの受け売りだ。
朝一番に工場前の道路を掃除するのは僕の仕事だけど、毎朝のように吸殻やペットボトルが落ちている。
自分で自分を褒めるのはバカらしいことのようでいて、案外と刺々しい感情は消えていくものだ。
「目から鱗です」
箒を持つ手を止めて、宮ちゃんが大袈裟なことを言う。
「今まで、虫けらのすることに腹を立てても仕方ないと思っていました」
宮ちゃんにとって、その辺にゴミを捨てる人は虫けらだったらしい。
「捨てた人の罪は許さないけど、まあその方が気分はいいかな」
彼女は彼女で、なかなかに頑固だ。
でも、表情は柔らかくなっている。
「ねえ」
「うん?」
「そういう素敵なこと、これからも教えてね」
「いや、ただの受け売りだし」
「知識の殆どは誰かからの受け売りでしょ?」
「それはそうだけど……」
「色んな知識を吸収して、その中から取捨選択して人に伝えるとき、その人のひととなりも伝わると思う」
ちょっと向こう見ずで頑固なところはあるけれど、きっと何があっても、君は道を違えず真っ直ぐに進んでいくのだろう。
僕のひととなりなんか関係無く。
「卒業はしないわ」
「は?」
いったい何を言い出すのか。
「学校は卒業しても、翔太くんからは卒業しないから」
……思えば、僕はどれだけ沢山のことを君から教わってきただろう。
知識や教訓みたいな受け売りなんかじゃなくて、生きる喜びや、人を愛する気持ちや、今まで自分自身のどこを探しても見つからなかった熱い想いは、全部、君が教えてくれた。
「水瀬のお守は大変ですよ?」
え?
「ちょっと、ミヤ!」
「我儘で頑固ですし、意外と甘えたのくせに意地っ張りですし、喜怒哀楽が激しくて振り回され──」
「ミヤ! いい加減にして!」
彼女がいくら声を荒らげようが、宮ちゃんは全く動じない。
安心して怒ること、安心して怒らせることの出来る関係は、付き合いの長さや信頼の深さが窺えた。
それに、彼女を見るその目には、どこか寂しげな色も滲んでいる。
「私は遠くの大学への進学が決まっています」
そのことは、彼女から聞いて知っていた。
宮ちゃんは、この春から遠くの街で一人暮らしを始める。
「このじゃじゃ馬を御するのは、石上さんに……お任せするとして……」
不意に声が潤んで言葉に詰まる。
でも、真っ直ぐに僕を見て、いつものよく通る声で言った。
「……水瀬を泣かせたら承知しないわ」
宮ちゃんは、最後は彼女の口癖を真似て笑った。
僕は強く頷き、彼女は……まるで卒業式で流すぶんの涙をいま使いきるかのように、宮ちゃんをポカポカと叩きながらいつまでも泣きじゃくっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます