第26話
初めて彼女の手を握ったのは、クリスマスイブのことだった。
その日は終業式で、全日制の生徒はとっくに帰っている筈で、なのに校門前には傘を差した彼女が立っていた。
「押忍!」
いつかみたいな挨拶をすると、彼女は傘を弾ませるように駆け寄ってきた。
グレーの地味な制服に黒いマフラー。
それでも辺りが華やぐような笑顔。
「えっと、どうして?」
終業式が終わってから、今まで学校に残っていたとは思えない。
「クリスマスイブなのにクリスマスイブなのにクリスマスイブなのに、って家で呪文のように繰り返してたら、姉が無言で車を出して何故か学校前に」
可笑しいのに、でも胸がいっぱいになる。
雪の上に残る、校門前で切り返したタイヤ痕。
優しさの形は様々で、お姉さんはお姉さんなりの優しさを、ずっと彼女に注いでいたのだろう。
「終業式って、一時間くらい?」
いつも通りなら一時間もかからない。
教室で担任の先生の話があって、それで終わりだ。
教師は全日制と定時制で別だけど、校長先生は一人で、定時制の行事に顔を出すことは滅多に無い。
終業式のためだけに登校する生徒も少なく、出席率は半分くらいだ。
「三十分くらいかな」
「じゃあ待ってる」
「え?」
「クリスマスイブなのにクリスマスイブなのにクリスマスイブなのに」
いつもどっちが年上か判らないくらい彼女はしっかりしてるけれど、今日の彼女は少し子供みたいだ。
先日、受験生にはクリスマスもお正月も無いのだ、なんて言っていたし、会えるとも思っていなかったから、プレゼントも用意していない。
ただ、何も特別なことなど無いと思っていた今日が、いつもより一緒にいられる時間が増えるなら、それは僕らにとって特別なことなのだと思えた。
ホームルームのような終業式を済ませ、彼女と二人で夜の学校を歩く。
雪は止んでいて、空には月が出ていた。
いつもは暗い筈の中庭は、月明かりに青白く浮かび上がってどこか幻想的に見えた。
雪の上に足跡を刻んで君ははしゃぐ。
「クリスマスプレゼントー!」
雪玉が飛んできた。
コントロールはいいようで、続けざまに顔面にヒットする。
はしゃいだり、盛り上がったり、騒いだり……考えてみれば、僕はいつだってそういった人達の傍観者だった。
でも、僕は君の傍観者でありたくはない。
何より、心の中は潮騒とかそんなものじゃなくて、波頭が弾けてきらきらと光が飛び散るみたいに賑やかだ。
僕は足元の雪を掬った。
あまり硬くならないように、それを手のひらで丸めていると、また一発、僕の頭に雪玉が浴びせられた。
「こっちよ」
まるで挑発するうようにそう言うと、君は背を向けて駆け出す。
夜の学校で、校舎の間を抜けて、靴底に雪の感触と、頬に心地よい冷気を感じながら走る。
彼女の髪が踊るように揺れ、僕は息も心も弾ませる。
白一色のグラウンドに出た。
ぱーっと空が広がり、月も、雪も、冬の空気も、全部が一斉に溢れ出すみたいに感じられた。
「わぁ」
彼女が声を上げたその瞬間、足を滑らせたのか体勢が崩れかけた。
「あぶない!」
僕は手を伸ばそうとして、いつかのことが頭によぎる。
──今度、手を引っ込めたら承知しないわ。
ほんの一瞬の逡巡はあったかも知れない。
けれど僕の手は、確かに君の手を掴んでいた。
「あ、ありがと」
彼女が恥ずかしそうに目を伏せる。
良かった、大丈夫だ、そう思って、いや、照れ臭さの方が大きかったけれど、僕は慌てて手を離そうと──
「手を離したら承知しないわ」
甘やかな、でも絶対に逆らえない命令が飛んできた。
「手を離したら、思いっきり転んでみせるから」
優しい脅迫も付け加えられた。
僕は掴んでいた彼女の手を、そっとなぞるように向きを変え、お互いの手のひらを重ね合わせた。
朧気に、母の手が頭に浮かぶ。
それはとても大きくて、とても温かかった。
けれど、彼女の手は、胸が痛くなりそうなほど小さくて、そして冷たかった。
ああ、僕は大きくなったのだ。
この手を包むことも出来れば、温めることも出来るのだ。
そのことが、僕には嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
油で汚れてゴツゴツした僕の手も、華奢なか細い彼女の手も、等しく大切なものだと、そう思えたことが嬉しくて仕方なかった。
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