第21話
それからの数日間は、本当に幸せな日々だった。
まだ潮騒みたいなざわめきが残る放課後に、生徒会室で二人きりの時間。
何か特別なことをするわけでは無いけれど、二人一緒に時間が流れていく。
僕は自分で真面目な方だと思うし、寧ろそれしか取り柄が無い。
彼女の方は、あらゆる面で秀でているけれど、根は真面目なタイプだと思う。
そんな僕らが他に誰もいない空間で二人きりになると、普段よりも真面目になってしまうようで、それが何だか可笑しかった。
企画から各方面への打診と調整、意見の取り纏め。
やることは意外と多くて、けれど、対外的なことは宮永さんが引き受けてくれているらしくて、僕らはだいたい、生徒会室のホワイトボードを背にして、二人並んで作業をした。
ノートを埋めていく彼女の綺麗な文字を目で追っていると、時おり二人の視線が合ってぎこちない空気になる。
彼女が消しゴムを落とし、二人ともが拾おうとして指先が触れたとき、漫画で見た定番のシーンみたいにお互い目を逸らした。
なのに、いつしか二人の肩が触れ合っていても、僕らは気付かない振りをした。
何か特別なことをするわけでは無いけれど、とても特別な時間だった。
「そういえば、あれから宮ちゃんを見てないけど」
最初の会議以来、僕は宮永さんに会っていない。
ちゃんと謝罪とお礼を言いたいのだが、気を遣ってくれてるのか生徒会室に顔を出すことが無い。
「……宮ちゃん?」
ノートから顔を上げた彼女の目は、たぶん今までで一番鋭く、そして多分、どこか甘えを含んでいた。
「いつの間にそんな親しくなったの」
低い声と詰るような口調。
「いや、あれから一度も会ってないけど」
「翔太くんは、一回しか会ったことが無い人をちゃん付けで呼ぶんだ?」
「え、でも、そう呼んでくれって」
彼女は何か書き間違えたのか、消しゴムを乱暴にかける。
パンパンと勢い良くノートを叩くものだから、消しゴムのカスがこっちまで飛んできた。
「私は?」
「え?」
「私、まだ名前で呼ばれたことすら無いんだけど!」
特別に思う人の名前を口にするのは、僕としては結構ハードルが高い。
水瀬さん、だとよそよそしい感じがするし、水瀬ちゃんだと子供扱いしているみたいだ。
かといって志保さんや志保ちゃん、ましてや志保などと呼ぶのはかなりの勇気を要する。
「み、水瀬さん」
やはりこれが無難だろうか。
「拗ねるわよ」
自ら拗ねると宣言した人を、僕は今まで見たことが無い。
ただ、普段から物事をはっきりと言い、真っ直ぐな性格の彼女が拗ねると、僕では手に負えなくなるような気がする。
「えっと、し、志保ちゃん」
「宮ちゃんとの差を感じない」
「いや、でも、下の名前だし」
「微々たる優位性には不満を表明します」
「……し、志保」
そう呼んだ時の彼女の顔を、僕はどう表現すればいいのだろう。
喜びや恥じらいや愛しさを滲ませ、少女のような笑みでありながら、大人びた瞳で僕を見つめる。
「もう一回」
乞うような口許と、焦がれるような視線。
「志保」
今度は躊躇い無く、気持ちを込めて言った。
「よろしい」
彼女は満ち足りた顔をして、今度は僕の名を呼んだ。
それからは、用も無いのに何度も名前を呼び合った。
文化祭が終わってしまえば、次はいつ自由に会えるか判らないことを僕らは知っている。
だから僕らは、募ってしまう想いを今のうちに吐き出すみたいに名前を呼んだ。
名前を呼べるこの瞬間すら、ただただ愛おしかった。
今年最後の更新になります。
お付き合い下さった皆様、ありがとうございました。
今回のお話を書いている途中で、二十年近い付き合いになる友人から「子供が産まれました」というメッセージが届きました。
朴訥な彼は、三十二歳になっても彼女一人出来たことがなく、本人も周りも女性とは縁が無いんだろうなぁと諦めていましたが、三十三歳で初カノができ、三十四歳で父親になりました。
言い方を変えると、三十三歳まで童貞だったヤツが、一年後には父親になったわけです。
凄いなぁ、アイツがなぁ、なんて思いながら、可笑しいやら嬉しいやらで、何か幸せな気分で満たされたのです。
そして漠然とではありますが、来年は良い年になりそうだなぁ、なんて思えたのでした。
私事を長々と書いてしまいましたが、正当な幸せというのは妬むものじゃなくて伝播するものだと思います。
ですから、皆様にとっても良い年になりますように。
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