第11話

その年の夏休みは、僕にとって特別な夏休みになった。

それは人に話したなら、拍子抜けされてしまうくらいのささやかな特別かも知れない。

でも僕にとっては、強い日差しも、焼けるアスファルト匂いも、蝉の鳴き声でさえも、子供の頃に見上げた夏空みたいに特別なものに思えた。

いや、あの夕凪みたいな教室で彼女に出会った瞬間から、僕の毎日は特別だったのだろう。


夏休み中、彼女は何度か僕の職場に来た。

最初こそ仕事中に訪ねてきたけれど、以後はいつも僕の終業時間に合わせて遠慮がちに顔を出した。

「おい翔太」

「はい」

「よ……嫁が来てるぞ」

「違います」

緒方さんは毎回、嫁という言葉を辛そうに発音した。

……わざとらしく手で胸を掻き毟りながら。

彼女はいつも、どこかに隠れて様子を窺っていたのではないかと思えるタイミングで現れた。

みんなが作業を終え、ふっと力を抜くような瞬間に顔を出す。

手にはレジ袋、中身は人数分の缶コーヒー。

「お、お疲れ様です」

やや緊張した面持ちでそう言ってコーヒーを差し出し、そして必ず付け加える言葉がある。

「近くを通りかかったので」

みんながニヤニヤする。

強気で向こう見ず、見ようによっては強引にも思える彼女は、実は繊細で、ちょっと臆病で、そして優しい女の子だ。


僕らはいつも、あの公園に行った。

僕の終業時間は六時で、時には残業もある。

彼女の門限は八時で、話せる時間はいつも一時間程度だ。

夏の六時台はまだ昼の余韻があって、蝉が名残惜しげに鳴いて、走り回っている子供がいて、やがて夕暮れの気配に移り変っていく。

彼女の表情も、その暮れゆく空みたいに多彩だ。

蝉の声に耳を傾け、その鳴き声が詰まった時にはクスッと笑い、駆ける子供が躓いた時にはベンチから身を乗り出し、そして時々、窺うように僕を見た。

「あのね」

「うん」

ベンチに座る二人の距離は、以前より少しだけ近かった。

「私達にはスマホという文明の利器がありまして」

ちょうど空が焼けて、彼女の頬も朱を差したみたいに赤く見えた。

僕もポケットからスマホを取り出した。

「えっと、連絡先、交換しようか」

画面に目を向けたまま、たったこれだけのことを言うのに、どうしてこんなにドキドキするのだろう。

でも、彼女が笑顔で「うん!」と答えると、そのドキドキとは違った動きで僕の心臓は暴れ出す。

意のままにならない鼓動と、意表を突くほど魅力的な彼女の表情に、いつだって僕は翻弄される。

「い、し、が、み、しょ、う、た」

声に出して彼女は僕の名前を登録した。

「電話、かけてみるね」

僕のスマホが振動して、画面に水瀬志保と表示される。

その無機質なデジタルの文字ですら、僕の胸は躍る。

「ちょっと、出てくれないの?」

不服そうな表情と、催促するように僕の肩をつつく指。

通話アイコンに触れ、電話を耳に当てる。

「……繋がった」

彼女が小さく呟いて、僕はその言葉に陶酔した。

「こら、何か言いなさいよ!」

耳元と隣からの二重奏。

ベンチの下から蝉が「ジジッ」と鳴いて飛び立ち、僕は驚いて跳ね上がる。

彼女が笑う。

僕も笑った。

その後は、ちゃんとメッセージが届くか確かめて、その後は、二人で空を眺めて話した。

夜が訪れる前に瞬き出した星が、まるで初めて見る輝きみたいに綺麗だった。

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