第9話
「ごめんなさい」
さっきまでのテンションが嘘みたいに、彼女はおとなしくなった。
扇風機前の特等席。
緒方さんが運んできたパイプ椅子に座る彼女は、まるで借りてきた猫みたいだ。
僕は事務所の冷蔵庫からスポーツドリンクを持ってきて、遠慮している彼女の手に持たせた。
「私、勘違いしちゃってた」
俯き加減に言う。
きっと彼女の中では、車を扱うのだからバイクもいけるだろう、なんて何となく思ってしまったんだろう。
意外とオッチョコチョイなところも、それはそれで可愛らしく思えるし、実際にバイクのことでもある程度の対応はできる。
従業員の中にはバイク乗りもいるから、二輪用のオイルも置いてある。
って、あれ?
原付に乗ってるのに、そんな勘違いするだろうか?
「えっと、原付の免許は」
「持ってない……です」
借りてきた猫が、更におとなしくなる。
「どうやって来たの!?」
「……押して」
「どこから!?」
「家から……姉のバイクを黙って拝借しちゃった」
いや、そんな悪戯が見つかった子供みたいな顔されても……。
「ていうか、わざわざ何でバイクを?」
「えっと、あなたの家は知らないけど職場は知ってたから」
「?」
「ほら、あの、遊びで来ちゃいけないでしょう? だから……仕事の依頼ならいいかなって」
それだけのために、この炎天下にバイクを押して来たのか。
……ダメだ。
昨日まで彼女に会えないことが苦しかったのに、会うと余計に苦しくなってきた。
「なのに、却って迷惑かけちゃった」
勝ち気で奔放な彼女が悄気返る。
僕は『あいたい』じゃなくて、電話番号を書くべきだった。
「ごめん」
「え? どうしてあなたが謝るの?」
「僕が、あいたいなんて書かなきゃ……」
「嬉しかったけど?」
「でも」
「だから頑張って来たの」
「どうせなら、逆が良かった」
「私が会いたいって言うの?」
「うん」
「それであなたは、山越え谷越え会いに来てくれるの?」
「うん」
「じゃあ、それはいつかのために取っておくね」
「うん」
「もう、うんばっかり。でも、こういう構図が本来の形よ?」
どういう意味だろう。
「私があなたに会いに来るの」
決定事項みたいに言う。
「そこの道、中学の時の通学路だったの」
中学は近いし、下校中の生徒をよく見る。
その生徒達の中に、彼女もいたんだ。
「中学二年のとき、初めてあなたをここで見たわ」
まだ僕が十五歳で、働き始めたばかりの頃だ。
「学校からの帰り道で見かけるあなたは、いつも油まみれになってた。今みたいに」
そう言われて、僕は顔に油がいっぱい付いているであろうことを思い出した。
あーもう、緒方さんはさっき、どうして洗わなくていいなんて言ったんだろう。
「ちょっと顔を洗ってくる」
考えてみれば、油だけじゃなくて全身汗まみれだし、お風呂に入って服も着替えたいくらいだ。
でも、立ち上がりかけた僕の腕を彼女は意外と強い力で掴んだ。
作業服も油だらけなのに、厭う様子は全く無かった。
「だから言ったよね? 勲章だって」
僕は手のひらを見た。
指紋や皺にこびり付いた油汚れがある。
顔は、自分では見えないけど間抜けな様相だろう。
「私も汗まみれだけど?」
彼女は特等席から立ち上がり、僕の隣の地べたに腰を下ろした。
そりゃあ、あの炎天下、バイクを押して来たんだ。
そして、緒方さんが気付くまで、店の前に立っていたんだ。
僕を覗き込む顔には、汗で髪が貼り付いている。
「私だって、綺麗におめかししたところを見てもらいたいとは思うけど、でも、あなたはこんな私を、汚いって思うの?」
普段から物怖じはしないタイプ。
今だって、口調は堂々としている。
でも、微かな怯えがその目にはあった。
「き、綺麗だとしか思わないし、いい匂いしかしない」
「ちょ、匂いとか嗅がないでよっ! 息は止めて!」
「そんな無茶な!?」
「翔太」
緒方さん!
「は、はい!」
今は仕事中だ。
みんなが働いている場所で僕は何を?
「お前、今日は早退しろ」
怒っている……様子は無い。
寧ろ穏やかな表情だ。
回りを見渡す。
みんながこっちを見ている。
「そうだ帰れー」
え?
「目の毒だぞ」
「爆発しろ!」
「備品にゴムはねぇなぁ」
「機械用の潤滑油ならここに!」
彼女が顔を真っ赤にしている。
僕は油で誤魔化せているかも知れないが、それでも顔が熱い。
「おい、お前らそのくらいにしとけ」
緒方さんが助け船を出してくれ──
「一番ツライのは俺なんだ」
みんなが押し黙って僕らを見る。
ちょ、僕のせい!?
いや、独り身なのは緒方さんしかいないけど、別にイチャイチャしてたわけじゃ……。
「ぷっ」
一人が我慢しきれないかのように吹き出した。
それが伝播するかのように笑いが溢れて、緒方さんも笑い出した。
僕と彼女の二人だけが、どうすればいいのか判らず戸惑っていたけれど、その笑いの中、僕らは優しく追い出された。
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