第8話
この年の夏は、例年より暑い夏だった。
工場から外を見れば、日差しのせいで白トビしたような風景が、アスファルトから立ち上る陽炎に揺らいでいた。
汗が目に入る。
僕は薄暗い車の下で作業しながら、油まみれの顔を伝う汗を拭い、時折そんな外の様子を眺めたりした。
「翔太」
緒方さんが僕を呼ぶ。
いつもの穏やかな口調とは違って、何か気掛かりなことでもあるような声色だ。
「どうしました?」
ちょうど扇風機の風を浴びようと思っていた僕は、車の下から這い出て緒方さんを見上げた。
「あれ、お前のお客さんじゃねえか?」
僕の……客?
僕を贔屓にしてくれるお客さんはいるけど、わざわざ誰かを指名して作業を頼む人はいない。
僕は立ち上がって、緒方さんが見ている外へ向かおうとした。
「翔太、ちょっと待った」
「?」
「顔を洗ってから行った方がいい」
よっぽど顔が油だらけなのだろうか。
それとも、よっぽど身なりのいいお客さんなのか。
「いや、やっぱりそのまま行け」
何なのだろう?
訝しく思いながら外へ出る。
夜から昼へと飛び出すような明暗差。
眩しい光と蝉の声が一気に降り注いできて、軽く目眩を覚えそうだ。
──え?
光も、蝉の声も遠退く。
道路の向こうに彼女がいた。
白昼夢でも見てるのではないかと思った。
原付バイクに凭れて立っていた彼女は、僕に気付くと初めて出会った時みたいにペコリと頭を下げる。
でも、あの時と違って笑顔で、あの時とは違って駆け寄ってくる。
「押忍!」
「どうしたの!?」
「どうしたってことは無いでしょう? 机にあれだけ情熱的なメッセージを──」
「わあ! わー!」
工場の人達の視線を背中に感じて、僕は慌てて彼女の言葉を遮る。
夏らしいラフな格好に、白くて長い手足が眩しい。
「仕事の依頼よ」
「え?」
彼女は得意げに、腰に手をやって胸を張った。
何を言っているのだろう?
そもそも、何で僕の働き先を知っているのか。
そもそも、どうして来てくれたのか。
「オイル交換一丁」
彼女はテンションが高かった。
マンガで見かけるような、左手は腰に、右手は突き出して人差し指を立てるという仕草をする。
それは僕の疑問など、別にどうでもよくなるくらい可愛らしいものだったけれど、新たな疑問が生じてしまう。
「……車は?」
それ以前に、彼女は免許を持っているのか?
「え? あれなんだけど……」
彼女は道路の向こうの原付を指差した。
なるほど……車やバイクに興味が無いとそんなものかも知れない。
いや、そんな人、聞いたことないけど。
「あれだったらバイクショップに──え?」
緒方さんが僕の肩を叩いた。
「やってあげたらいいじゃないか」
「でも」
原付のオイル交換は簡単だし、すぐに終わる。
ただ、正規の仕事じゃないし、今は勤務時間だ。
後で怒ったり、その分の給料を引いてくれるならそれでいいけど、ここの人達はたぶんそうじゃない。
そうじゃなくて──
「翔太、冷たいぞ」
「オイル代は天引きだからな」
こんな風に、優しくヤジを飛ばしてくるから困る。
照れ臭くて、嬉しくて、そして目の前には君がいる。
僕は顔を隠すようにして道路を渡り、原付を工場に運び込んだ。
……何故か拍手が沸き上がった。
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