第7話

夏休みに入った。

定時制に宿題は無かったから、僕は仕事に集中し、夜は整備士二級免許の取得に向けて勉強した。

いや、集中したというのは強がりかも知れない。

僕は度々、上の空になったし、頻繁に心は乱れ、小さなミスを何度かした。

車の整備は、人の命に関わる仕事だ。

ほんの些細な故障や見落としだって、それが間接的に事故に繋がることもある。

僕は気持ちを引き締めた。

彼女のことは常に頭にあったけど、強引に作業に没頭した。


八月に入って五日目の夕方、僕は学校に向かった。

夏休み中に登校日なんてものは無かったけど、誰もいない、あの夕凪みたいな空気に触れたくなった。

あわよくば、もしかして、なんてことを期待していたかも知れない。


ひとけの無い静かな校舎を歩く。

遠くから吹奏楽が聞こえてくる。

僕の知る限り、彼女が部活をしている様子は無かったが、どんな部活が似合うだろうと考えたりする。

活発に運動していても似合いそうだ。

楽器を弾く姿も様になると思う。

物静か、ではないけれど、姿勢が良くて品がある。

美術部なんかも似合うかも知れない。

机の上の落書きには、消すのが勿体無いような上手い絵もあった。

でも、知らないことだらけだ。

誰もいない廊下を歩きながら、僕は見たことも無い、彼女が廊下を歩く姿を思い描いた。


静まり返った教室に入る。

あの日みたいに、廊下を走る足音が聞こえてきそうに思えて耳を澄ます。

自分の席に向かいながら、そこにも彼女の姿を置いてみる。

途端に教室が華やいだ。

終業式の日、彼女は机に『夏休みだー』と書いていた。

僕はそれに、『じゃあまた二学期に』と返した。

全日制は夏休み中に登校日があるから、そのメッセージを二学期になってから見る、ということは無いだろうと思ったし、他に気の利いた言葉も思い浮かばなかった。

今になってみれば、しくじったなぁ、と思う。

夏休みは思った以上に長くて、彼女との関わりが途絶えた日々は、想像以上に色褪せて見えたからだ。

──え?

自分の席に座ろうとした僕は、机を見て固まってしまう。

色褪せていた風景が、そこだけ切り取ったように鮮やかになる。

『しくじった。日々のやり取りが無いとつまんなーい!』

大きな文字だ。

その大きさに比例するみたいに、僕の心も大きくる躍る。

更にその下には、小さな文字が続いていた。

『なお、このメッセージには時限装置が付いています。八月十日迄に返事が無いと自動的に爆発、はしないけど消去されます』

思わず、クスッと笑った。

たった一人の教室、澱んで熱を帯びた空気、静寂の向こうから聞こえてくる、部活動に励む人の声、音、そして、僕の心の中に響く潮騒みたいなざわめき。

僕は机の隅に、『あいたい』と書いた。

書いた?

違う。

書いていたんだ。

思慮も何も無く、ただただ感情を吐露するように、気付けば僕は、書いていた。

書いてから、逃げ出すように教室を飛び出した。

何度も引き返して消そうかと思った。

けれど僕は引き返さずに、学校を背にして走り出していた。

僕は二十歳だ。

二十歳になって、初めて恋をしたんだ。

走りながら僕は、叫び出したいような気分になった。

右も左も判らない子供みたいに、溢れ出す感情を持て余して、ただがむしゃらに走った。

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