第5話
彼女の背中は、怒りで強張っていた。
呼び止められたのは自転車に乗ろうとしていた男子生徒で、彼女は自分よりずっと背の高いその男子に詰め寄り、更に強い声を放った。
「さっき、私の席に座ったでしょう!」
え?
何故か判らないけれど、胸の高鳴りと締め付けが同時に来る。
いや、でも……。
「あ? 別にいいじゃん」
「前に、私の席には絶っっ対に座らないでって言ったよね!」
──夜はあなたがここを死守してね。
「たかがイスに座ったくらいでそんな怒ることねーだろ」
そう、たかがイスだ。
死守するほどのものじゃない。
戯れ言、子供じみた冗談の範疇。
なのに僕は、固い約束を交わしたみたいにあれから席を守り続けた。
「内容の問題じゃない! 頼んだことを平気で破ることが許せないの!」
そう、内容じゃなくて、守りたいのは席なんかじゃなくて、彼女の言葉が、まるで特別なものであったかのように振る舞いたかった。
「わーったよ! んじゃな」
男子生徒が自転車を漕ぎ出し、僕の横を通り過ぎる。
不貞腐れた顔をしているけれど、明るくノリが良さそうで、たぶんクラスでも人気があるタイプだろう。
「ちょっと待ちなさいよ! ホントに判って──」
まだ言い足りないのか、彼女は彼を追おうと勢いよく歩き出し、そこで僕に気付いた。
「え?」
驚いた彼女は目を見開くと、何かに躓いたかのようにバランスを崩す。
「あぶない!」
僕は咄嗟に手を伸ばし、そして、あろうことか僕は、咄嗟に手を引っ込めてしまった。
幸い、彼女は持ちこたえて体勢を立て直す。
「良かった」
ホッと胸を撫で下ろした。
「良かった、じゃないわよ!」
「え?」
怒りの矛先は、そのまま僕に切り替わったようだ。
今度は僕が詰め寄られる。
「あなた今、手を引っ込めたわよね!?」
近い。
睫毛の一本一本が数えられそうだ。
睨み付ける瞳の中に僕が見える。
「て、手が汚れてるから」
手のひらを広げて見せる。
仕事で染み付いた油の汚れは、爪の間や指紋にこびりつき、ちょっとやそっとじゃ落ちなくなっていく。
彼女の半袖のブラウスも、そこから覗く二の腕も、白くて、綺麗で、触れることは躊躇われた。
「勲章でしょ?」
「え?」
「それとも、私に触りたくないとか?」
「まさか!」
「じゃあ触りなさいよ」
「何故!?」
「まるで汚物のような扱いを受けて私は傷付いたわ。だからそうじゃないって証明すべきでしょ?」
むちゃくちゃだ。
むちゃくちゃだけど、睨んでいた目が、少しだけ心細げなものになった。
もしかしたら、本当に傷付けてしまったのかも知れない。
僕は遠慮がちに手を伸ばし、彼女の白くて小さな手に触れた。
「え、そこ?」
「だ、ダメだった?」
彼女は笑みを浮かべながら、小さく首を振った。
「てっきりあなたのことだから、袖口にちょんと触れるだけかと思ったの」
「ご、ごめん!」
慌てて手を離す。
僕は彼女の想定以上のことをしてしまったようだ。
「意外と逞しい手をしてるのね」
「……そうかな?」
僕は自分の手を見た。
それなりに力仕事ではあるから、それに相応しいゴツゴツした手だ。
「お願いがあるのだけど」
「な、何?」
「次に私が躓いた時には死守してね」
初めて会った時と同じように、彼女の笑みが悪戯っぽいものに変わる。
僕が戸惑っていると、彼女は睨むようにして更に付け加えた。
「今度、手を引っ込めたら承知しないわ」
僕は頷いた。
あの時と同じように、心が潮騒みたいなざわめきでいっぱいになった。
でも、あの時はざわめきだけで、こんな風に苦しくは無かった。
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