第4話
その翌日、僕が石上翔太と書いたところには水瀬志保の名前があった。
志を保つ。
それは、とても彼女に似合うように思えて、だから僕はその文字を消す気になれなくて、授業中もぼんやりとそれを眺めたりした。
ただの文字を見て、ただの名前を知ること。
たったそれだけのことが、何か特別なものに思えるのが自分でも不思議だった。
でも、次の日にはその名前も消えていて、代わりの文字が記されていた。
『あなたも何か書きなさいよ!』
字体を見るだけで怒っているのが伝わってきそうな、そんな文字が可笑しかった。
そこから、本当に他愛の無いやり取りが始まった。
授業は楽しい? だとか、宿題忘れた! だとか、どうでもいいようなことをお互いに書く。
返事は一日後。
土日を挟めば三日後。
極めて情報量の少ないやり取りなのに、何故か待ち遠しい。
登校すれば、まずは机を見て文字を読む。
ほぼ一言の返事を考えるのに、授業終了までかかったりする。
そわそわしたり、もどかしかったり、物足りなかったり。
瞬時に膨大な量の情報をやり取り出来る時代にあって、それはまるで、片言の交換日記みたいだった。
不便で、不自由で、子供の戯れにも等しいけれど、昼と夜とを繋ぐ、たった一つの小さな窓に思えた。
僕らは、会おうと思えばいつでも会える筈だった。
でも、じめじめした長い梅雨が明けて気分が開放的になっても、どちらも机に『会おう』とは書かなかった。
それは、照れだったかも知れないし、怯えだったかも知れないし、或いはもしかしたら、頑なに偶然を大切にしたかったのかも知れない。
偶然は意外と早く訪れた。
随分と暑い日のことで、夕方とはいえ、まだ蝉が盛んに鳴いていた。
汗を拭きながら校門をくぐったところで、僕はふと、木陰にある自転車置場の方に目をやった。
ちょうどそこに向かって歩く彼女の後ろ姿が見えて、それだけで自分の胸が高鳴ることに些か驚いた。
大袈裟に言えば、新たな自分を発見した気分だ。
そのことに戸惑いながらも彼女を目で追う。
彼女の進む先には自転車に乗ろうとする男子生徒がいて、近付いてくる彼女に気付くと屈託の無い様子で手を振った。
高鳴っていた胸が、きゅっと縮んだように思えたのは気のせいだろうか。
僕は二十歳で、でも高校生で、そのくせ実は異性に関しては中学生みたいに幼いのかも知れない。
何故か苦笑が出た。
それが大人ぶった強がりの苦笑であることにも気付く。
彼女は綺麗で、真っ直ぐで、一部からは反発を買いそうだけど、でも、男子からは人気の女の子だろう。
彼女に仲のいい男子がいたところで何を今更、そう考えるのが普通だ。
でも、胸が高鳴るのも、胸が苦しくなるのも、僕には如何ともし難い。
だから僕は、何も見なかったかのように、そのまま昇降口に向かおうとした。
「待ちなさいよ!」
彼女の声が響いた。
ひどく憤っているように聞こえた。
それでも品のいい、そしてよく通る強い声だ。
僕は足を止め、再び自転車置場に目を向けた。
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