第3話
「おい、そろそろ時間だぞ」
緒方さんにそう言われて、薄暗い工場の柱に掛かる時計を見た。
時刻はまだ四時前で、学校が始まるまで一時間以上ある。
「まだ大丈夫です」
ここから学校まで、着替えの時間を入れても三十分あれば間に合うし、作業は中途半端な状態だった。
「ばーか、シャワーを浴びなきゃ、汗臭いと女の子に嫌われるぞ」
最近、かなり暑くなってきた。
確か去年の夏も、その前の年も、似たようなやり取りをした気がする。
僕には特に親しい女の子もいないし、せいぜい挨拶を交わすくらいだから余計な心配だと思うけれど、ふと、あの子のことが頭に浮かんだ。
「ほら、後はやっとくから」
背中をポンと叩かれる。
「頑張ってこいよ」
「お疲れー」
僕の働く職場は、随分と恵まれた環境だと思う。
町の小さな自動車整備工場。
社長の他は、僕を含めて五人の男性社員と、事務を担当するおばちゃんが一人いるだけだ。
僕はまだ戦力として未熟だけど、それでも五人のうち一人が抜ける影響は大きい。
なのにみんな、快く送り出してくれる。
中学を卒業してすぐにここで雇ってもらった。
車に多少の興味がある、家から近い、それだけの理由で知識も技術も無い。
今でも、どうして社長が雇ってくれたのか判らないけれど、とにかく僕は猛勉強して、二年目には三級整備士免許を取得した。
それは決してゴールではなく過程の一つに違いなかったけれど、取り敢えず僕は一段落つけた気になっていた。
そんなときに社長は、高校へ行け、と言ってきた。
「その歳から機械ばっかり弄ってたらダメだ。色んな人間と接しろ」
僕は、人付き合いが苦手だ。
顧客の対応も下手くそだ。
そういった点の改善を、社長は要求しているのかも知れない。
「それに、こんな野郎ばっかりの職場じゃ緒方みたいになっちまうぞ」
社長がそう言った時には、どっと工場に笑い声が満ちた。
緒方さんは五十代の独身だ。
気さくでいい人だけど、ひたすら機械を弄っているのが好きな人でもある。
「緒方は手先が器用なんだから、あっちの方も器用だと思うんだがなぁ」
社長がぼやくように呟いて、また工場が笑いに包まれた。
その頃の僕には意味がよく判らなかったけれど、みんなと一緒になって笑った。
そして笑いながら、高校で学ぶことで何かここの人達に恩返しが出来るなら、なんてことを考えたりした。
そんな予想外の展開から、今度は受験勉強をすることになったのだけど、思いの外、入試は簡単だった。
そして、もっと思いの外だったのは、高校進学を祖母が泣くほど喜んでくれたことだった。
祖母に育てられた僕は、祖母のために早く働くことが孝行だと思っていたけど、それは独り善がりな考えだったらしい。
でも、とにかく遠回りしながらでも、僕はちゃんと前に進めているようだった。
高校に進学してから二年と少しが経った。
特に人付き合いが上手くなったとは思えないし、友人も少ないままだ。
けれど、僕と同じように働くクラスメートとの会話から、共感を覚えることは沢山ある。
彼らと時間を共有しながら僕は、多くのことを学ぶのだ。
先日、いつも車検やオイル交換を任せてくれるお客さんから、「大人になったねぇ」と言われた。
それは単に身体の成長のことだけではなく、話の受け答えや表情、雰囲気について言っているようだった。
どうにかこうにか、僕は社長が望んだような方向に進めているらしい。
そしてそれは、あの、ちょっとヘンで、でもびっくりするくらい綺麗な女の子との出会いも含まれるのかも知れない。
同じ学年で同じ教室。
座席まで同じなのに、決して交差することの無い平行線のような関係。
たまたま接点が生まれたけれど、この先、何も無い可能性の方が高いだろう。
でも僕はその日、机の上に落書きがあることに気付いた。
彼女らしく綺麗で強い筆跡、でも、どこか遠慮がちに机の隅に書かれた小さな文字。
たった一言だけど、それでもそれは、僕の心を躍らせるに充分だった。
『あなたの名前は?』
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