3-9 解放と呪縛

 語り終えると、時子は深いため息をついて、しばらくそのまま動かずにいた。小柄で脆弱なその丸い背中を見下ろして、亜瑚は呆然と立ち尽くしていた。


 時子は壮絶な秘密を抱えていた。

 舘座鬼操という女性が存在したことすら、亜瑚は初耳だった。

 怨霊供養の部屋で繰り返されていた鬼妃との邂逅は、常識では度し難い恐怖だ。逃げ出したくなるのも無理はないと思う。

 だが時子のお役目放棄は、それ以上に許されざるものだった。

 四十九日の惨劇。

 自分が生まれる前にすでに亡くなっている親戚の大半は、もしかしたらこのとき犠牲になったのかもしれないと亜瑚は思った。

 恐ろしい過ちを犯した時子に対し、操はそれを責めもせず、役目を代わると申し出た。彼女の力は時子よりずっと貧弱なものだったのに。

 そんな操の精神と姉妹愛は一見、女神のように気高く美しくも思える。

 だがそのとき約束させた取り決めこそが、知景の人生を狂わせた元凶だった。

 操が知景を生まれながらの鬼妃にした張本人とも言える。

 さまざまな想いが、頭の中を巡った。

 やがて、


「ちぃちゃんは、あなたたちの呪いの道具にされたんですね」


 口をついて出た言葉は、しずかな怒りに震えていた。

 時子は知景を溺愛してなどいなかった。

 ただずっと恐れていたのだ。失うことを。だからあんなに過保護に世話をしていた。大切にするように見せかけて。その実ずっと村の生贄として消費し続けていたのだ。


 時子は積年の疲労の滲んだ目で、亜瑚の顔をふり仰いだ。


「道具やなんて、とんでもない」


 その瞳は、いまなお四十九日の惨劇に囚われている少女のものだった。


「亜瑚ちゃんら若いひとには、鬼妃は生贄に見えるかもしれへんけど……」


 狂気を孕んだ笑みを浮かべて、時子がふたたび話し出す。


「私も実際そう思っとった。苦しかったし、嫌やったよ。でも、でも操ちゃんが……私に気づかせてくれたんよ。鬼妃は大切に育てれば、私たちを守ってくれる神さまみたいな存在なんやって。操ちゃんも、知景もそう。ふたりはほんものの女神さまなんよ。村の者皆に愛されて……」

「でも知景は死んじゃった!」

 自己弁護のようにも思える時子の主張を、亜瑚の声が切り裂いた。

「行きたい場所へも行けなくて。好きな人にも会えないまま。仲良しだった友達に殺されて。こんなの……全部が全部、呪いの連鎖なんですよ。おばさん自身も気づいてるはずです。因習に染まって生きてるって、自分で言ってたじゃないですか。あなたの思想は操さんに歪められてしまってます。はっきり言って馬鹿げてます。鬼妃を大切にするとか、その考えがすでに間違ってます。縛り付けて、監視して、それのどこが大切にしてるんですか。怖がってるだけじゃないですか! ちぃちゃんは神さまになんてなりたくなかったですよ!」


 鬼気迫るその叫びに、時子ははっとした表情を見せる。

 亜瑚は上から、時子の頭をにらみつけて、断言した。


「星麗南には絶対に、鬼妃を継がせません」


「話聞いとったやろ? 鬼妃がおらんと私たちは生きていくすべがないの。四十九日に、あんたも、あんたの家族も祟られて死ぬかもしれんのよ」


 蚊の鳴くような声が返ってきた。胸の奥をするどい震えが走ったが、無視して冷徹に言い放つ。


「姪っ子ひとりが犠牲になるよりマシです」


 半分やけくそだった。正直、自分にも呪いが降りかかってくるかもしれないと思うと怖くてたまらない。もうやめにしたい。この場はだれかにまかせて、いますぐ東京に戻りたい。こんな時代遅れの故郷いなかのことなんてもう忘れて、明日からちゃんと現実を生きたい。

 風花に心配かけてごめんねって謝り倒して、スタバで全部愚痴って、これで過去は清算だね、変な夢だったなぁって笑って終わりにしたい。


 ——だけどできない。


 思い浮かべた風花の笑顔が、夢の中で微笑む知景に変わる。

 過去は清算なんてできない。ここで起きたことは全部、変な夢なんかじゃない。そんなことをしたら、彼女の生きた日々を否定することになる。自分のとなりで笑っていた裏で、知景はずっと因習に縛られていた。友だちなのに、なにもできなかった自分が悔しい。

 だからもう目を背けられない。


 知景の顔が星麗南に重なる。

 最初から最後まで、一途に私を信じてくれたあの子の未来は奪わせない。きっと知景も、因習の遵守より自由と解放を望んでくれるはず。


「私が星麗南を連れていきます。もうこの村には帰りません」


 決意を自分自身でたしかめるように、亜瑚は言い切ると、顔を出口に向ける。

 話は終わりだ。

 この部屋にもう、用はない。


「そんなことをしようもんなら……どうなるか」


 背後で、暗澹たる声が聞こえた。

 どうなるだろうか。

 砂本を殺そうとした一春のように、穏やかだった人間たちが次々と裏の顔を見せ、亜瑚と星麗南を追ってくるのだろうか。

 根拠のない成美の狂言になびいて、知景の死を、亜瑚のせいだと罵った村人たちを思うとまったく否定できない。むしろ想像しやすいぐらいだった。

 そうなったとき、母や父が味方になってくれるかどうかを考えると、さらに気が沈んだ。

 一春の車の事故のあと、病院でみせた彼らの忌避的な態度を思うと、家族の絆にも特に期待は持てなかった。

 

 ――村八分どころの騒ぎじゃないな。


 自嘲が胸を刺す。

 やはり無謀なのだろうか。だがもう振り返らないと決めていた。

 舘座鬼家は滅びるかもしれない。砂本が言っていたように、いまがそのときなのかもしれない。


 ぉぉ……


 かすかな唸りを亜瑚は耳にした。

 次いで、喉を締め付けられるような悲鳴があがる。

 尋常ならない気配を感じ取り、思わず振り返って息を呑む。


 そこに、なにかいた。


 ぉお……おおお……


「操……ちゃん」


 目の前のそれを凝視したまま、芯まで恐怖に染まった声で、時子がつぶやく。


「時子おばさん……?」

 亜瑚の呼びかけは、聞こえていないようだった。時子は混乱していた。目の前のそれを拒みたいのか、受け入れたいのか、自分でもよくわかっていないようだった。ただ、

「操ちゃん、ごめんね」

 許しを乞うかのように手を伸ばす。

「私、私ちゃんと、大切にしとったんよ……私たちの、知景のこと……でも……でも、しかたなくて……、知景が死んでしまったのは、しかたなくて……」

 時子の唇がわなわなと震える。口調も、しかられる幼子のように拙い。

「ごめ……なさぃ」


 かすかなつぶやきを合図に、きぃんとひどい耳鳴りがした。

 時子が悲鳴を上げる。


「操ちゃああああああいやぁああああああこないでぇええええ」


 ポルターガイストのような現象が周囲で多発した。

御神水が次々に蒸発し、ばたばたばたと御神灯がドミノのように倒れ、畳に火がつく。


 突然訪れた、現実的な死の危険だった。

 目の前の光景に、亜瑚の恐怖心と防衛本能は一気に覚醒した。


「時子おばさん、逃げて!」


 魂を抜かれたようになっている時子の腰を抱え、引きずるようにしてそのまま襖のほうまで逃れた。

 勢いよく戸を引こうとしたが、取手にかけた手がぐっと詰まる。

「えっ!?」

 開かない。

 どんなに力ずくで引いても、最初から壁であったかのように微動だにしない。

 焦りと熱さで、汗が吹き出す。


 やがて襖にも炎が燃え移る。

 閉じ込められた。と思った。

 壁が崩れ出すそのときまでは。


 *


 正面から突き刺さる視線と、きんと激しい耳鳴りがして、目の前がふらつく。

 突如として空気が重くなり、足元からどす黒い怖気が立ち上る。

 この比類なき恐怖感を、いずくは知っていた。

 知景の部屋を訪れたとき、鬼妃の怨霊にはじめて遭遇したときの感覚だ。


 やがて。


 ……ぉ……ぉお……


 地底の奥から這い上ってくる音が聞こえた。

 鬼妃の声だ。


 薄暗い闇の淵から、より濃い漆黒が立ち上がる。その輪郭はゆらゆらと拡散し、霧のように闇に溶けている。だがかろうじて人間の胴体と頭部の形は見て取れた。なにかがいるのか、それとも空間に黒い穴が空いているのか、どちらとも判別つかなかったが、それがじりじりとこちらに向かって近づいてきたのを悟って、安は後ずさる。

 しだいに、壁際に追いやられてしまう。唯一の脱出口へと続く床下がすこし遠ざかってしまったのが悔やまれた。

「……すまないが、そこを通してもらえないか」

 意思疎通が図れるとも思わなかったが、こうもはっきりと怪異が現れてしまったからには、少々間抜けだが説得するぐらいしかできることは思いつかない。どうにか隙を見つけなければ。鬼妃の念の殺傷能力を思えば、無闇に逃走を試みるのはリスクが高かった。それにいまは、自分ひとりではない。

「こいつは連れて行く」

 あえて宣言することで落ち着きを保った。骨壷を脇に抱え持ち、しっかりと蓋を押さえる。この身はどうなろうとも、知景だけでもここから出してやらなければいけない。なんとかその手段を見出そうと、目の前のものと対峙しながら必死に思考をめぐらせていた。


 ぉ……おぉ……ぉおお……


 通行の願いは聞き届けられなかったようだ。鬼妃の怨霊は低くうなりながら、容赦なく安を壁へと追い詰めていく。

 影がついに眼前に迫ったそのとき、意外と小さな体躯をしていることにはじめて気づいた。

 まさか。

「知景……なのか……?」

 恐る恐る膝を折って頭を低くすると、安は疑いに目を細めた。鬼妃の姿はわずかながら形をみせていた。すとんとした長い髪が腰まで垂れて、着物だろうか、黒衣からほそい脚がのびている。ぼんやりと浮かび上がったその背丈や体格は、知景にとてもよく似ていると思ったのだ。だが口にしたものの、しっくりこなかった。リミットは来ていない。知景はまだ、鬼妃になってしまったわけではないはずだ。これはまぎれもなく鬼妃の怨霊だ。長く垂れた髪のあいだから顔が見えた。眼窩には鉛玉のような生気のない眼球が嵌っているだけだったが、目が合った瞬間、鋭い憎悪に貫かれた感覚がした。

 許さないとでも、言いたげな。

「……っ」

 突如さきほどより強い耳鳴りがして、思わず目をつぶる。手元に激痛が走った。

 見ると壷を抱えていた右手の指が、引き剥がされるように一本、あらぬ方向にねじ曲げられていた。うろたえた拍子に骨壷が傾きそうになったが、寸前で持ち直す。だが指は一本、また一本と、枝を折るような音とともにゆっくりと、関節の可動範囲と逆側へ折り曲げられていく。

 これ以上の退避は不可能だった。ずるずると、その場にうずくまるしかなかった。

 激痛のせいで思考がまとまらない安を、さらなる破壊が襲う。

 両腕で抱え込んでいたなめらかな陶器の表面に、縦に長くひびが入ったのだ。

 それを目にすると恐れ戦くと同時に、かっと頭に血が上った。

「だれなんだ、おまえは……!」

 激しい怒りに任せて、安は毒づいた。

「なんなんだよ! おまえがこの家をそこまで憎悪する理由はいったい!」

 言い終わるか終わらないかのうちに、見えない手に四肢を掴まれたのがわかった。全身、金縛りにあったかのように寸分も身動きがとれなくなり、代わりにものすごい押圧がかかる。骨が砕け、血が吹き出した音がした。

 底無しの怪異の力の前に、奥歯を噛んで低いうめきを漏らす。

 人体をバラバラにするまで数秒もかからないだろう。

 この世のものではない超常現象に、太刀打ちできるすべはない。

 終わりだと思ったその刹那、それでも守り通していた腕のなかの壷が、粉々に砕け散った。

 ぱっと白い粉が舞い、乾いた紙粘土のような破片が、ぱらぱらと床に散らばった。


「……!」


 声も出なかった。

 胸を突く鋭い痛みに、息が止まった。


 なんとかして日の当たる場所に彼女を連れ出して埋葬したかったが、これでは……。


 愕然としていた安の耳に、苦悶のうめきが聞こえてきた。


 あ……ああ……ああぁぁぁ……あああ……あ……


 見ると鬼妃が、頭を抱えた姿勢で、後ずさりをしていた。


 ぁあ……ああああ……あああああ……ああああああああぁぁぁ


 低い唸り声だったものが、しだいに悲痛な叫びに変わっていく。


 どういうことだ?


 事態は困惑を極めたが、最悪の危機は逃れたかもしれない。

 気づけば自分の手足もつながったままだった。

 筋肉も骨も粉砕されてしまって、力は入らないが、緊縛は解けている。


 それにしても、絶対的な力で場を支配していた目の前の鬼妃が、まるでなにかに恐れを生したように――。


 ああああああああぁぁぁ!!


 安のしかけた推察は、鬼妃の発する耳をつんざく絶叫に中断された。

 それは新たな異常事態への警告だった。

 突如として部屋が火に包まれたのだ。

 同時に、漆喰の壁に小さなひびがはいって、ぼろぼろと崩れた破片がこぼれ落ちる。かと思えば、どん、と地面が陥没するかのような大きな揺れが起こり、めきめきとひびが四方へ広がった。さらにその割れ目を導火線を伝うように、炎の波が走る。


 地響きと、熱風とともに、部屋の壁が崩壊をはじめていた。

 瞬く間に、大きな破片がごろりと落ちるほどにまで崩壊が進んでいく。

 動かない手足を引きずって、身を捩り転がるようにして、壁際から逃れた。


 ――次から次へと……。

 マジでなんなんだよ。


 この鬼妃の怨念の正体を――彼女の憎悪の根源を突き止めないかぎり、呪縛は解けないのかもしれない。

 そう思いはじめた安の耳に、声が届く。


「砂本さん……!?」


 振り返ると、壁の大きな裂け目から向こう側が見えた。

 すでに火に包まれたその部屋から、恐怖の色で染め上げられた前野亜瑚の目がこちらを覗いていた。

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