3-10 秘記

 火の勢いが弱い壁際に避難したはずが、その壁が崩れ出したので亜瑚は行き場を失っていた。

 傍らに倒れ込んだ時子の身体は、触れるとひどく熱かった。熱いはずなのに全身をがくがくと震わせている。汗で額に髪が張り付いて、目を泳がせ、爪で喉を掻きむしりぜぇぜぇと苦しげに喘いでいる。もしかしたら、さっき時子は鬼妃の怨霊に抗って、念力を使ったのかもしれない。その副作用が時子を苦しめている。亜瑚にはそう見えた。

 ふたりを監視するかのように、部屋の隅、火の中に黒い影が立っていた。いまのところ動きはないが、こちらも油断はできない状況だ。


「なにしてんだ、早くそこから出ろ」

 壁の向こうから砂本の尖った声を受ける。どうやらほんとうに部屋があるらしい。砂本はどうやってそこへたどり着いたのだろうか。いろいろ疑問だが尋ねている暇はなかった。

「出られないんです!」

 亜瑚は息苦しさに耐えながら、必死に叫んで状況を伝えた。

「扉が開かなくて! それに火が、もう迫ってて」


 崩壊は徐々に進んでいたが、ふたつの部屋を行き来できるほどの穴にはなかなかならなかった。崩れるのを待っていたら、先に炎に巻かれてしまうだろう。

「壁壊せるものなんかあるか」

 砂本が聞いてくる。

 あまり期待はできなかったが、いそいで部屋を探した。錆びついた農具が、床に散乱していることに気づいた。

「……くわとかなら」

 こちらはいたって真剣なのだが、砂本が短くため息をついて嘆いたのがわかった。とはいえなにもないよりはましでは。かれもそう思ったのだろう。

「通れるまで広げろ」

 と指示してきた。

「こっちに一応、出口がある。ただ……」

 砂本がちらりと背後を振り返るのを見て、亜瑚は察した。

んですね」

「ああ」

「こっちにもいます」

 どうやら鬼妃は複数存在するようだ。こちらの部屋に佇む鬼妃にも注意を向けながら、亜瑚は手近な鍬を拾い上げる。ものは試しだ。振り上げると、うっと壁の裂け目に突き刺してみる。しかしその一撃では、せいぜいひび割れの近くにすこし傷がつく程度だった。なんとかもうすこし崩れてくれないものだろうか。

 足元で時子がうめく。呼吸が苦しそうだ。

「おばさん、しっかり」

 自分も咳き込みながら励ます。

「だれかいるのか」

 砂本が棘のある聞き方をした。

「時子さんが」

「……置いてこい」

「嫌です!」

 冷徹な忠告に、強く反発しながら壁に鍬を突き立てる。ぽろぽろと、数粒漆喰のかけらが畳にこぼれる。目が痛い。肺も痛い。息が上がってくる。身体が重い。酸素が足りない。

「ぁああ……時子……時子ぉ……」

 ふと足元の時子が、恨めしげな声で自分の名前を呼んでいるのが聞こえた。

「? ……おばさん……?」

 亜瑚が困惑した顔で彼女の顔を覗き込むと、突然がっと腕を掴まれた。

「ぅうぅぅぅ……」

 低い唸り声が聞こえる。

 完全に白目を剥き、口の両端から泡を吹きながら、時子は血に濡れた真っ赤な顔で、鬼の形相で亜瑚を睨みつけてくる。

「おばさん! どうしたの!? しっかりして!」


 呼びかけはまったく聞こえていないようだ。

 呼吸がままならず朦朧とする頭で、必死に考えた。


 部屋を見渡して、影がいなくなっているのを確認する。

 目の前の時子は、自分の意志を持たず、なにかに突き動かされているように見える。

 さっきは自分時子自身の名前を呼んでいた。

 時子の身に、鬼妃が乗り移っている――有り得そうだ。


「やめてください!」

 亜瑚は必死にの名を叫んだ。

「操さん!」

 崩壊に耐えかねたのか、壁が一気に崩れてきた。

 亜瑚と時子は同時に畳に投げ出された。ばらばらと降りかかってくる破片が、顔を打つのを庇いながら、亜瑚はなんとかすぐに立ち上がろうとする。ところがそこへ、時子が覆いかぶさってきた。

「時子さん! 目を覚まして! しっかりして!」

 ばんばんと肩を叩いて呼びかけたが、届くことはなかった。完全に取り憑かれている。

「ぬぁあああああああああああああ」

 怨恨のこもった叫びを上げながら、時子は手のひらで亜瑚の顔面を掴んできた。片手でありえないほどの指圧だ。


 ――潰される。


 ばき、ぐしゃり。


 頭蓋骨が砕け、液体が滲み流れ出す嫌な音に、思わず顔を背ける。

 見なくてもわかる。


 潰れていた。


 目の前で時子の身体はぐらりと傾き、どさりと力なく倒れた。

 なにが起こったのかわからない。

 混乱が襲い、しばらく呼吸を忘れていた亜瑚だったが、

「早く来い!」

 砂本の声に我に返ると、死にものぐるいで壁の残骸を乗り超えた。


 じきに火の手が来るだろうが、空気の流れがここはまだましだった。

 亜瑚は激しく咳き込みながら、できる限り酸素を脳に取り込んだ。


 顔を上げると、あれほど偉そうに指示してきたくせに砂本が足を投げ出して座り込んでいるのが目に入る。亜瑚は訝しげに目を細めた。

「なにやってるんですか砂本さん、早く逃げましょう」

「俺は動けん。ひとりで行け」

「……っ」

 砂本の四肢が機能していないことは、よく見ればすぐにわかった。さすがのかれも、鬼妃の力の前にはなすすべもなかったらしい。亜瑚は顔を歪め、拳に力を入れた。

「かならず助けを呼んできます」

「構うな、やめとけ」

「鬼妃はどこです?」

 砂本は背後を顎でしゃくった。

「突然勝手に苦しみ出した」

 亜瑚が目を向けたさきには、黒い影がうずくまって苦痛から逃れたいように身を捩って、悶えていた。

 圧倒的な超常現象で人間を蹂躙してきた鬼妃にも、なにか弱点があるのだろうか。


 もしくはなにかが――だれかが私たちを守ろうとしている?

 さきほど寸手のところで時子の顔を潰し、息の根を止めたものといい。

 ――知景が。

 ふと考えがよぎり、周囲を見渡す。

 知景もここにいるのではないだろうかと。

 助けてくれたのではないだろうかと……。

「おいなにぼーっとしてんだ。いまのうちに早く」

 砂本の怒鳴り声で、亜瑚は気を取り直す。優先すべきは脱出だ。

「隅に畳一ヶ所剥がしてる場所がある。そこが出口だ」

 意を決してうなずくと、鬼妃の様子をうかがいながら、壁伝いにそっと移動しはじめた。

 だが鬼妃は、すぐに気づいた。

 同時に、耳鳴りに襲われる。

 その小柄な黒い影は苦しみのたうちまわりながら、飛びかかってきて亜瑚を押し倒した。

「やだっ離して……!」

 恐怖に目を見開き思わず叫ぶ。鬼妃の黒々とした鉛玉のような目が亜瑚を捉え、いままでと比較にならない強烈な耳鳴りがぎぃんと鳴り響く。脳が弾け飛びそうな激痛が走る。頭蓋が割れる――そう思った瞬間、亜瑚の頭のなかに、怒涛の映像がなだれ込んできた。


 *


 暗闇に堕ちていく。水の中で溺れるかのような苦しさだ。


 けれどもやがて夢のような、縁取りのぼんやりとした世界のなかにはっと目を覚ます。

 私は、浅葱色の着物から伸びて地面につく自分の足の甲を見下ろしていた。

 裸足だ。私の足じゃない。

 立っているのは、木漏れ日あふれる森の中。

 そこは明るくて、とてもしずかだった。


「はな」


 遠くで声がして、くるりと勢いよく振り返る視界に、男の姿が映る。私は微笑んで、手を振る。

 近づいてきた男は見上げるほど背が高い。逞しい腕に、私はすっぽりと抱きしめられた。

「愛してるよ、はな」

 男は私の耳元で、あたたかな、でも切ない声でささやいた。はな……知らない名前だ。

 男の髪は、たわわに実った稲穂のような黄金色をしていた。肌の色と彫りの深い顔立ちから、異国の人間であることがすぐにわかった。じっと見つめ合うと、じわりと胸が熱くなるのを感じた。瞳は珍しい宝石のようにまばゆく蒼い。そんな宝石に映る私は、見知らぬ村娘の姿をしていた。青々と輝く宝石のなかに飾られていても見劣りしないほど、彼女は美しかった。


 *


 亜瑚は悟った。

 自分はいま、目の前でもがき苦しむこの鬼妃の記憶を見ているのだ、と。


 *


 それまで清らかに満ち足りていた心が急に渇きをおぼえて昂った。人目を一瞬気にする素振りを見せてから、私たちは溜め込んだ熱をぶつけ合うような深い口付けを交わした。

 脳が掻き回されて甘く溶け出す。でもこんなにも激しく愛されながら、私は悲壮感に蝕まれていた。世界を呪いたくなるような気持ちだった。唇を離して、荒々しく息をつくままに私はつぶやいていた。

「あの家はもう無理。耐えられない」

 でもそれが変えられない運命だということはわかっていた。

 秘密の逢瀬は許されないものだった。

 私――はなは農村の名主である舘崎の家に嫁いだ身だったのだ。

 一方でこの異国の男は、この地にたどり着いた経緯もまったく不明の、記憶を失った余所者だった。

 なにせこれほど山奥の農村だ。海の外に国があることを知らない者もすくなくなかった。

 そのため、異端な見た目は【鬼】と呼ばれて忌避されていた。

 村の北端に住む、変わり者のはなの家族だけがよりどころだった。

 はなと異国の男は、ともに暮らすなかで、穏やかに惹かれ合う仲だった。


 *


 感情と一緒に、はなという少女の知識や記憶が頭に入ってくる。はな。それがこの鬼妃の、生前の名前らしい。

 早送りのように頭に入ってくる記憶の奔流を、亜瑚は目を見開いて受け続けた。


 *


 はなはただの美しい娘ではなかった。想いの力でひとを惹きつける、不思議な力を持っていた。ときに念じればものを動かすことすら可能だった。神の力だ……と村人たちはそう噂し、恐れた。

 舘崎家の長男は、そんな彼女の美貌に惚れ込んでいた。一方で超常の力を内心恐れてもいた。

 彼は権力者だ。

 はなが結婚を了承すれば、異邦人の永住と村民としての権利と身分を保証すると条件を出した。

 反対にそれは、拒めば家族も異邦人も、なにをされるかわからないということだった。

 はなは愛するかれらを守る強い意志を秘めて、舘崎の家に嫁いだ。

 権力で手に入れた異能の娘への、舘崎の仕打ちはひどいものだった。

 かれは念力を余興の道具のように扱った。徳利を操りひとりでに晩酌させるのを、芸と称して客に見せると、実際おおいに盛り上がったのだ。だが力を使うたび、はなの身体は病む。たびたび床に伏せるはなを見下ろして、だらしない嫁だ、おまえは人間ではないと罵った。

 一方で表向きには、

「出来の悪い女房で」

 と、笑いの種にした。それらは異能への恐れだ。超常の力を所有し、支配したいがための、あさはかな侮蔑だった。


 はなは舘崎とのあいだに娘をひとりもうけたばかりだったが、横暴はおさまるところを知らなかった。

 娘が成長したら、もし同じような力があったら、同じような虐待を受けるかもしれない。そう思うと、はなの気持ちはさらに重く沈んだ。


 *


 はなの感情が自分のことのように感じられる。張り裂けそうな胸の痛みか、潰されそうな耳鳴りの痛みか、どちらのせいかわからない涙を浮かべて、亜瑚は声を絞り出す。

「……辛かった……ね」

 胸の上の鬼妃の黒い影が、髪を揺らし、わずかに仰け反ったように見えた。


 *


 異邦人との束の間の逢瀬。生きる希望もないはなにとって、それは唯一の心休まるひとときだった。

 かれだけは、はなの異能を恐れなかった。一途に純粋に慈しみ、愛をささやいた。

 かれの優しさに触れているときだけ、はなは人間になれた。


 はなは二人目の稚児を身籠っていた。

 その赤子が生まれたことで、かれらの運命は一変する。


 出産を終えたばかりのまどろみの意識のなかで、はなが目にしたのは、金色の髪に蒼い目をした、白い肌の赤子だった。


 舘崎の怒りは凄まじいものだった。

 娘とはすぐに引き離された。

 姦通の懲罰として、はなは怒りのままに暴力を振るわれた。ほとんど瀕死の状態で謹慎させられた。

 怪我の痛みに悶え苦しむ日々が続いたある日、あっけなく別れは訪れた。

 鬼は処刑されたと聞かされた。

 異邦人には名前がなかったから、村人は皆かれを鬼と呼んでいたのだ。

 舘様は。はなに、鬼がどうやって退治されたのかを、武勇伝のごとくつぶさに語って聞かせた。

 聞きたくないのに、鬼の死に様は一言一句耳にねじ込まれた。


「まず四肢を断ってやったよ、奴はまだ生きていたがね、それから斬首だ。残った胴体は村の北端の滝壷に捨ててきた」


 はなの家族も村を追われた。

 はなは泣くことも忘れるほど、深い絶望の底に沈んでいった。


 大災害が村を襲ったのは、それからまもなくのことだった。

 村の人々はそれを、あの異国の鬼の仕業だと恐怖した。

 鬼が、はなを求めているのだ、と。

 そうでなくとも、彼女は不貞を働いた罪人なのだし、その罪を贖うべく、いまこそ犠牲になるべきだ、と。


 彼女を生贄に。


 はなのまばゆい美しさに憧れていた、好意的だった者たちまで、手のひらを返したように主張しはじめた。

 村人の勢いに恐れをなした舘崎は、やむなく妻を【鬼】に捧げることにした。尊い犠牲だと言い聞かせながら。【鬼妃】と呼んで畏怖しながら。


 だが実際、はなは権力と身勝手な好意に弄ばれて、ただ無残に殺されただけの哀れな娘だ。

 底なしの憎悪と怨嗟がはなを化け物に変え、舘崎家を祟ることになる。


 *


 ……これがすべてのはじまりだった。

 終わりの見えない憎しみの連鎖の、いちばん根源にある話。

 あまりに悲しい恋と憎悪の秘話。


 亜瑚は震えながら鬼妃をみた。

「あなたが、最初の鬼妃だったんだ……」

 もうその涙は、彼女に向けたものに間違いなかった。

「【鬼】は、いたんだ……この村に」


 村に伝わる、あの適当な鬼の伝説のなかで唯一【鬼】が存在したことだけが、真実だった。

 鬼の姿を、優しい声を、すべてを包み込み安堵させる腕の温もりを、亜瑚ははなの記憶のなかで、自分のものとして感じた。

 だからこそはなの苦しみも怒りも悲しみも、自分のことのように理解できた。


 鬼妃の眼球から、墨汁のような黒い涙が溢れていた。


 ――どうして、守る……


 喉の奥から響くような、音にならない低い声だった。

 鬼妃が言葉を発すると思っていなかった亜瑚は、思わずぎょっとする。

 問いかけの意味も理解できなかった。

 だが恐れ慄く亜瑚の代わりに、懐かしい友だちの声が、背後からしずかに答えた。


「愛してるからよ。わかるでしょう、あなたにも」


 知景の声だった。

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