3-8 パンドラの匣
時子が家出を決行したのはちょうど、先代鬼妃の四十九日法要前日、朝のことだった。
警察と、村じゅうの人間をあつめての大捜索がおこなわれた。集落内はもちろん、付近の山中全域と、となりの市にまで捜索隊が派遣された。にもかかわらず、日暮れまでに時子は見つからなかった。十六、七の少女の脚で、そう遠くまでは行けないはずだ。しかしどれだけ血眼になって、しらみつぶしに草木の根をかきわけて探しても、だれも彼女を見つけることができず、そのまま夜を迎えることとなった。
時子が発見されたのは一週間後のことだった。飲まず食わずで衰弱した状態のところを警察に保護され、すぐに病院に送られた。彼女が身を潜めていた場所は、自宅からたった一キロ離れた民家の納屋だった。
家出を決行した……と言ってもそれは、綿密な計画をもってしておこなわれたわけではなかった。すこしのあいだでもいい。あの部屋から逃れたい。その一心での、衝動的な行動だった。だから時子自身、もっと早く見つかってしまうだろうと思っていた。だが悪天候も邪魔した結果、発見に至るまでには六日かかった。
ながらく見つけられなかったことそれ自体を、いわゆる『神隠し』に似た、鬼妃のしわざだと噂するひともいた。
半月ぶりに戻った舘座鬼家の佇まいはひっそりとしており、表向きにはまるでなにごともなかったかのように見えた。
玄関口で時子を迎えたのは、家紋付きの喪服着物を纏った操ただひとりだった。漆黒の着物が小柄さを際立たせていた。
「おかえり、時子」
声はおだやかな笑みを含んでいるように聞こえた。
「ただいま……操ちゃん」
時子は唇を震わせる。合わせることができない目線が、自然と廊下の奥へ逃れる。
家の中は静寂につつまれていた。
栄養失調で入院しているあいだ、だれも見舞いには来なかった。そのことからも、お役目を放棄した自分がお咎めなしというわけがないことぐらい、わかっていた。あたかかく出迎えてもらえるわけがないことは、覚悟していた。
しかし自分が想像していたよりも、ずっと深刻な――というか、異質な空気が漂っている。ここはほんとうに、自分の
不安を煽られ、どくどくと脈打ち出す頭で考えて、ふと思い出す。
あの部屋だ。
あの二階の供養部屋で感じたのと同じ異界の念が、玄関まで溢れ出ているのだ。
そのとたん時子は、凍りついたようにその場から一歩も動けなくなった。
家に生きた人間の気配がない。
代わりに、錆びた鉄のような変な臭いがした。
操は黙って踵を返した。たまりかねて、時子は浅く呼吸をしながら聞いた。
「なぁ、みんなは?」
杞憂であってほしかった。
なにごともなくあってほしかった。
操はゆっくりと振り返った。
光を失った目は、なにも映していなかった。その目を見ただけで、時子はぞっとした。時子すらも見えていないような胡乱な眼差しで、操はどこか遠くへ話しかけるように。
「おばあさまと母さん、父さんも、叔母さんも……もうここにはおらへん。叔父さんも……いまは病院におるけど、なんも聞こえてへん。じき連れて行かれてしまうわ」
色のない唇から、抑揚のない澄んだ声が流れ出た。
……意味を理解できない。
からからになった喉を鳴らして、時子は唾を飲み込んだ。
耳鳴りがしてくる。
頭が痛い。
操がふらりと奥へ下がるのを追って、時子はあわてて履き物を脱ぎ捨てた。
操は、大広間へと向かっていた。
そこは先日、葬儀と法要がおこなわれた場所でもある。
「四十九日」
大広間の襖の前で、操は低くそうつぶやくと、逡巡するかのごとく目を閉じた。
「それを過ぎるともう、鬼妃にこちらの声は聞こえへん。ただひたすらに、舘座鬼家を祟る存在になるんやって……最期におばあさまは教えてくれた」
「最期……って……?」
時子の泣きそうな声は、操には届いていないようだった。かっと目を見開くと同時に、固く閉ざされていたその戸を一気にこじ開ける。
用意のできていない目に飛び込んできたその光景を、認識するまでにたっぷり一分はかかった。
時子のまぶたは極限まで見開かれ、網膜に地獄を焼き付けた。
赤黒い塊が、四方の壁に、襖に、柱に梁に、べっとりと塗りたくられたような跡があった。天井も、床も、もとの色がわからなくなるほど赤黒く汚れていた。
多くのひとが集まっていたのだろう。畳の上には来客用の座布団が散乱している。いくつかは、無茶苦茶に中身の綿が飛び出していた。綿は血を吸って、肉の塊のように見えた。
いったい何人の人間が血を流せば、これほどまでに大量の赤が部屋を染め上げることができるのだろうか。
息を止めた時子の身に、断末魔の悲鳴が、肉の引き裂かれる音が、苦痛に喘ぐうめき声が、一斉に襲いかかった。頭を抱えて耳を塞いでも、脳裏にこびりついたそれらはやまない。
夢を見ているんじゃないかと思ったが、しかし呼吸を思い出したとたん、生臭さと鉄の混じったような、ひどい臭いが鼻をついて、これが現実なのだと思い知らされる。
遠くで時子の声がする。
「最初、地鳴りのような音がしてね。地面を這ってあれが来たんよ」
鬼妃だ。
これが鬼妃の祟り。
めまいがした。足元が底なしの沼に堕ちていく。
頭の中が真っ暗になった。
「――手足がね、雑巾、ひねるみたいにしてちぎれてくんよ」
すこしのあいだ気を失っていたらしい。時子にかまわず続いている姉の語りは、どこか恍惚としていた。悲しい音楽を奏でているようにも聞こえた。
おそらくいま必死に思い浮かべようとしているよりも、とてつもなく恐ろしいものが、この部屋を――というよりもこの部屋にいた人間を襲ったのだと思う。
頭が痛い。
「生き残ったひとも、具合悪い人がたくさんいてね、前野の大叔母さまも、もうダメかもしれへんて」
身体が爆発しそうだった。
恐怖と悲しみと、怒りと後悔とで。
「私の……せいで……」
時子は声を絞り出すと、その場に崩れ落ち、胃の中のものをすべて吐いた。
夜よりも暗い闇のなかに、ながいこと沈んでいた。
「ごめんな、時子」
ふわりとした優しい声がつつむ。
「操ちゃん……?」
操は、汚物塗れの時子を抱きしめて言った。
「時子ひとりを、怖い目に遭わせようとしてごめんな。きっとこれは、その罰や。あの部屋は私が代わりに住むわ。時子はもうあんな怖い思いせんで大丈夫やから。村の人にも私から言ってあげる。時子はこの家を継がなあかんから、代わりに私が鬼妃を継ぐって」
「でもそしたら、操ちゃんが」
「私は大丈夫。心配せんといて。夜だけ供養の部屋にいれば良いんやから。見たでしょう? 私も時子ほどじゃないけれど、お水を動かせたわ」
いつのまにか、姉は普段の優しく朗らかな声音に戻っていた。時子はまたなにか言おうと思って口を開きかけたが、
「これからはふたりで家を守って行こ。な、時子」
力強いささやきを耳に、優しく背中を撫でられるうちに、姉の胸に頭を預けるようにしてうなずいていた。
その瞬間、時子は未来永劫なにがあっても姉につきしたがうことを胸に誓った。
いまや彼女は、唯一無二の時子の神だった。
「あのな、時子、ひとつだけお願いがあるんよ」
「お願い……?」
時子は恐る恐る顔を上げた。操の頼みならなんだって聞く。だがこの自分に、なにができるだろう。思いつかずにいると、操の目を見る。瞳は光を取り戻していた。口元に優しげな微笑を湛え、時子をまっすぐに見つめて、操は言った。
「いつかあなたが結婚して、生まれた子がもし女の子やったら、その子は供養の部屋で預かりたいの。私に面倒をみさせて」
「どうして?」
暗闇の底にいる自分には、そんな未来の話、いまは想像もできない。だからよく考えもせぬままに、時子はたずねた。
すると、操は愛おしそうに妹を抱き寄せ、あやすように背中をとんとんと叩きながら、こう言い聞かせたのだった。
「生まれながらに鬼妃になれば、恐怖にも慣れてくれるはず。大丈夫。夜だけよ。私がずっと、いっしょにいてあげるから。もうこんな悲しくて怖いことは繰り返さんために、ふたりでいっしょに鬼妃を育てていこう。村を守るために」
やがて時子に娘・知景が生まれ、約束通りのやりかたで育てられることとなった。
昼間は時子が世話をして、夜は操が引き取り怨霊供養の間で世話をする。
最初は夜中に泣く声がしていたように思う。
でもいつしかそれも聞こえなくなって、さらにしばらくして、操が亡くなった。
ちょうど、知景が一歳になったころだった。
操の亡骸のうち遺っていたのは胴体だけだった。鬼妃に喰われたのだ。限界は突然やってきた。
遺体の横で、小さな知景はきゃっきゃと手を叩いていた。この世の幸せを全部かきあつめたような天使の顔で、笑っていた。
生まれながらに鬼妃として育てられた知景には、傍らで四肢をもがれて死んでいく人間の恐怖を感じ取ることも、できなくなっていたのだ。
身体の奥底から震えが走り、途方もない恐怖をおぼえた。
娘も、そして彼女を生み出した自分たち姉妹もすべてがただただおそろしかった。
私たちは、もうどうしたってあがなうことのできない罪のなかにいる。骨の髄まで因習に染まって生きている。
そのときはじめて悟った。
鬼妃操は私に呪いをかけたのだと。
みずから鬼妃になるよりも、ずっと長く苦しむ生き地獄の呪いを。
自分の子も、その子孫まで囚われて、死してなお苦しませる深い呪いを。
それほど姉は私を恨んでいた。
あの日からずっと、私を憎悪していた。
そりゃあそうやんね。
私のせいで、家族みんな死んでしもうたんやから。
私のせいで、人間をやめることになってしまったんやから。
*
祭壇に並べられていたのは、円柱型の白磁の壷だった。ドーム状の蓋が上からされている。その形状からしておそらく、遺骨の納められている骨壷だろう。
壷の前にはそれぞれひとつずつ位牌が置かれているようだ。文字まではよくわからない。
懐中電灯はさっき脩に押し付けてきてしまった。安はいそいで手探りでポケットからスマホを取り出すと、ライトのスイッチを入れる。
位牌のうちのひとつが強い光に照らされ、金字で戒名らしきものが刻まれているのが読み取れた。
【鬼妃操】
たった三文字だった。
光を左手に向けて動かしていくと、となりも、そのとなりも、すべてが同様だ。鬼妃の名が短く記されている。形式上、位牌のように見せかけているが、あきらかに正式なものとは異なった。
本来そこに書かれるはずの戒名というのは、故人が仏の弟子になることで、迷わずに極楽浄土へ行くために授かるものだ。だがこの位牌もどきに刻まれているのは、姓も取られ、ただ鬼の嫁としての肩書きだけを残してつけられた、呪いの名だった。
このせいで、壁の向こうのこの部屋に葬られた鬼妃たちは、極楽浄土へ導かれるどころか、舘座鬼家に囚われ続けている。
まちがいなくここが呪いの温床。これこそが呪いの元凶だった。
自分は感受性がするどいほうではない。それでも、この場所が「あってはならない因習」を隠し続けてきた源泉であることぐらいはわかった。
ライトを、右へと動かす手が、ぴたりと静止した。
――ずっと探し求めていたものと、対面する瞬間はあっさりと訪れた。
【鬼妃知景】
安は最初から、四十九日の法要まで知景の祭壇が舘座鬼家の仏間にあるのではないかと予想していた。
だが脩は、かれらを仏間へ通さなかった。その行動から、疑いにかかっていたのだ。
この律儀で姉思いの弟が、安や高西はともかく亜瑚までも、知景に線香をあげさせずにおくのは不自然だ、と。
ならば知景の遺骨は、だれにも容易に弔問できない、脩の目にも触れられない、異常な場所に保管されているのではないか、と。
その考えは、この部屋へ来るまでに、だんだん確信に近づいていた。
とはいえこうも予想通りの場所にあらわれると、むしろ騙されたような気分になる。
ほかの骨壷と同じ大きさの白磁の壷だった。
なにも見た目は変わらなかった。
空っぽだと言われれば、それも信じられてしまいそうなほど。
無機質に、無感情に、真新しいそれは鎮座していた。
「もうここにいたんだな……」
つぶやいた瞬間、力が抜けるのが自分でもわかった。
知らぬ間に指をすり抜けた端末が床へ落ち、白い光が天井を照らした。
しばらくそのまま呆然としていたが、やがて安は気を改めて、思考をはじめる。
自分の目的が果たせるとしたら、いま目の前の知景の骨を持ち出して、きちんと供養することぐらいしか思いつかない。
それぐらいで彼女の無念が晴れるかどうかはともかく。
見つけた以上は、このままこの場所に彼女を置いておくわけにはいかなかった。
しずかに祭壇に近づき、両手でそっと骨壷を持ち上げる。意外とずっしりとしていた。ちゃんと知景はここにいると、感じさせてくれる、たしかな重みだ。
恐る恐るそれを胸に抱えたとき――。
背後から視線を感じた。
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