3-7 血の絆

「そのお水を、湯呑みに触れずに外へ出してみてはくれへんやろか」

 目の前に置かれた漆盆に、グラスが乗っていた。覗き込むと、透明な水が半分ほど注がれている。

「触れずに……?」

 時子は、眉をひそめて祖母の顔を見た。妙なことを言い出す。

「それはなぞなぞですか? おばあさま」

 姉のみさおが、愛想よくにこにこしながらたずねた。

 普段から冗談など、ほとんど言わない祖母のことだ。無意味な戯れではあるまい。なにか理由があるにちがいない。そう思いながらも、時子も操もてんで見当がつかなかった。

 でもこうして祖母が厳粛な表情で背筋を正しているときは、言われた通りにちゃんとやらなければいけない。


 目の前の水に向き直る。

 時子の願ったことはひとつ。姉と祖母をびっくりさせてやりたいという、ただそれだけだった。

 最初は、それほど本気ではなかった。

 だがもし、あの水をほんとうに動かすことができたら? 自分に期待していないであろう祖母は、きっと腰を抜かしておどろくだろう。想像したら、心が浮き立ってきた。

 今年十九になる操は、優しい自慢の姉だった。器量も学も、すべてにおいてかなわないと、時子はつねづね思っていた。嫉妬はなく、むしろほこらしかった。ただ一度だけでも姉に手放しに褒めてもらえたら、それだけで気分が良いだろうと思った。それはとても、幸せな瞬間にちがいない。

 頭の中が一瞬、あたたかな希望で満たされる。

 夢のようなこの感覚を、手離したくなくて、思わず拳に力が入る。

 同時に身体が熱くなり、見開いた目の奥にどろりとした液体が流れ込むような感覚があった。グラスのなかの水の、一点だけをじっと食い入るように見つめていたら、自分の意識の高揚に合わせるように、水面が跳ね上がった。それは小さな噴水のごとくごぽりと縁から溢れ、グラスの置かれた漆盆と、周りの畳を濡らして、滲みていった。


 わけもわからず、息を荒くつきながら、時子はただその様子を、まばたきを忘れて見入っていた。


「……時子、それどうやったん?」

 となりでは、操が驚愕に目を見開いている。

「わからん。ただ、こう動いてほしいって、いっぱい思ったんよ」

 我に返った時子自身も、呆然としてしまっていた。身振り手振りでなんとか説明を試みるも、自分でもまるでわからない。

 なんだか自分が自分でないようで、怖くなってきた。

 しかし、

「時子」

 祖母が聞いたことのないような優しい声で自分の名を呼ぶ。はっとして顔を上げると、彼女は目を赤くして、泣いていた。

「ようやったねぇ」

 そう言われて、それが嬉し涙だとわかった。

 なんだかわからないが、つられて自分も泣きそうになってしまった。

 その後何度か練習したが、結果的に、操は水をちょろっと跳ねさせることができただけで終わった。それは縁の外へ出るまでにも至らなかった。時子は操にもできたことを心から喜んだが、祖母は硬い表情のままで、時子のときのように褒めてはくれなかった。

「あんまり、できんかったな」

 操はこちらが心配してしまうほど真っ赤な顔で息を切らしていて、残念そうに声を落とした。

「調子の悪いときもあるわ」

 と時子は笑顔で慰めた。

「でもびっくりした……時子はえらいなぁ、すごいなぁ」

 いつもと逆だ。いつもは姉が、出来の悪い私を慰めてくれるほうだから。


 操には悪いけれど、時子はすこし幸せな気持ちだった。

 自分に特別な力があると知った時子は、もう姉に劣等感を抱く必要はないと思えた。

 これからの人生は、きっと明るいものになる。そんな予感と期待に胸が膨らんだ。


 姉はその日から、片耳が聞こえにくいと言うようになった。

「たぶんたくさん集中したから、疲れたんやろ」

 と、すこし恥ずかしそうに笑っていた。


 それからしばらく経ったある日、祖母は時子だけを二階へ呼んだ。

「先代の鬼妃である私の妹が亡くなりました」

「きひ……?」

 暗くて狭くて急な階段を上りながら、時子は聞き慣れない言葉を口の中で繰り返す。

おにきさきと書いて、鬼妃です。この家では代々、村を守る役目の女の子をそう呼ぶんよ」

 祖母は階段を上りきっただけで疲れているようだった。

「あのひと、おばあちゃんの妹やったん」

 労わるように祖母の腰をさすりながら、時子はつぶやいた。

 実はつい先日、家で知らない女性の葬儀があったのだ。

 すでに納棺されていて、最後まで顔を見なかったから、とても若い人だと思いこんでいた。遺影に納められていたのは、それこそ時子と同じぐらいの少女だったのだ。とても綺麗な人だったのが印象に残っている。

「家族は? 子どもとかおらんかったん?」

 しかしその問いには答えず祖母は、二階にたったひとつだけある奥の襖を開く。

 そこは一階の客間となんら変わりのない、十畳の座敷であった。

 こんな部屋がこの家の二階にあったことさえも、時子は知らなかった。


「私たち三姉妹のなかでいちばん念の力が強かったから、妹は鬼妃に選ばれました。今度はあなたがお役目をこなす番。ここがあなたの部屋です」


 水を動かした力のことか、と時子は悟る。

 あの力があるから、私は村を守る役目に選ばれたのだ。

 なんだか責任が重い。

 そしてこの部屋の空気もひどく重かった。

 部屋の前の持ち主の、想いの残滓が満ちているように思う。

 それがいわゆる「念」というものなのだろうか。


 時子が二階の部屋に引っ越したその夜のことだ。

 の怨霊が現れた。


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! あんなの、あの部屋で寝たくない! 姉さんと替えて!」

 翌朝部屋を飛び出した時子は、大声で訴えた。姉の操はびっくりした様子だったが、妹がこれほど取り乱すのは異常なことだ。とにかく落ち着かせようと抱きしめ、なだめるように背中をさする。

「なにがあったの?」

「操ちゃん……」

 姉に泣きすがりながら、時子は祖母の足音が近づいてくるのを聞いた。


「あれは鬼妃の怨霊よ。あれの供養は、念の強い時子しかできないんよ」

 祖母の声には感情がなく、それがなおさら不気味で、時子は頭を抱えた。

「そのための念の力を持っとるんやから」

「時子!」

「お願いします、時子ちゃん」

 祖母も母も親戚も、いままで期待ひとつかけていなかった者たちが、みんな手のひらを返したように平伏する。


 嫌だ、嫌だ嫌だ――あなたたちは、この苦行を知っているの?


 毎晩というわけではなかった。

 だが深夜、突如として壁の向こうから鬼妃が来る。

 焼け焦げたような黒い皮膚、痩せた四肢は伸びきって、指の関節はあらぬ方向に曲がっている。髪が長いのとその体つきから女のような気がするが、定かではない。それが低く、地鳴りのような声でうめきながら、床をじりじりと這い寄るのだ。

 そしてついには、寝ている布団に覆いかぶさり頭を持って揺さぶってくる。

 言葉は通じない。があーと開いた顎から、低い唸り声だけがする。

 怨霊に向かって、時子はひたすら念じるしかない。


 お願いします、鎮まりください、お帰りください、どうか……。


 それでも執着するときは、御神水を撒く。身体は捕らわれて動かない。卓上に用意されたグラスに向かって、動けと念じる。


 怨霊との対峙は、長いときで数十分続いた。最後は、名残惜しいとでもいうかのようにこちらに両腕を伸ばしたまま、ずるずると引きずられるように、壁奥へと戻っていく。


 恐怖で頭がおかしくなりそうだった。


 *


 たどり着いたさきは、雑草深い裏庭の隅の、古い井戸だった。

「うぉお、いかにもなんか出てきそうな井戸ですねぇ」

 高西がわざとらしく怯えた声を出す。

「枯れてるように見えますが、この底に道が」

「マジっすか。ここ下りるんすか」

「ええ」

 脩はうなずくと、さほどためらうこともなくその淵に足をかけた。

 なるほど覗き込むと、錆びてはいるが頑丈な鉄のはしごがかかっている。

「あの部屋の壁の向こう側に通じてます」

 はしごを下りながら、脩は言った。

 脩が底に足を付けたのを確認してから、

「おまえはここで待ってろ」

 指示して淵を跨いだ。

「ぇえーっ!」

 と案の定イラッとさせられる不服の声が返ってくるが、

「いざというとき、助けを呼べる奴がいなくなるだろうが。いつでも連絡取れるようにしとけよ」

 と言って、安はすでにはしごに手足をかけて下り始めている。こちらが折れる姿勢を見せなければ、高西はかならずしたがうことはわかっていた。

「はぁーい。わかりましたよ」

 案の定、不満そうな了解の声が返ってきた。


「お先へどうぞ」

 井戸底へ下りるやいなや、おずおずと脩にうながされた。

 井戸の壁面に穴を開け、横向きに掘られたトンネルが、大型の懐中電灯によって照らし出されていた。明かりはこれひとつあればこと足りそうだ。

「長いな」

 建物から十何メートルか離れた井戸だから当然なのだが。さらにトンネルは、長身の安が屈まずに通れるほどじゅうぶんな高さもある。

「ぬかるんでいるので、気をつけてください」

 脩が丁寧に忠告した。

「一応水も沸いてんのか」

「ほんのちょっと。でも井戸としては使えません。ここの地下水をあつめて、地元の神社で清めたものが、御神水なんだそうです」

 足元を照らしながら進む。上からの太陽光が届かない暗闇へと、一歩ずつ近づいていく。

「それにしても念動力のことまで知っているなんて、砂本さんはものしりですね。僕より鬼妃のことに詳しいんじゃないですか」

 すっかり暗闇に包まれたなかで、脩がつとめて明るく言った。

 鬼妃の秘密については当事者である知景から教えられたのだ。四年も前になるが、かなり鮮明に覚えている。しかしまだ知らないことはあるはずだ。

「さあ、どうだろうな」

 安がぶっきらぼうに答えた。

 そのときだった。

 暗がりを照らす懐中電灯の光が大きく揺らぎ、不意に消えた。

 すばやく振り返る。背後から間近に伸びてきたものがこちらへ届くより一瞬速く、安は相手の腕を力の限り掴み、ひねり上げた。

「ひぁっ……」

 脩のか細い悲鳴があがる。

 暗闇に目を凝らすと、その手に小さな刃物が握られているのが見えた。

 案内すると言って後ろをとる不自然さから、正直ずっと警戒はしていた。

 高西よりさらに小柄で細身の知景の弟は、哀れにも思えるほど非力だった。刃物は簡単に手のひらから剥がれ落ち、地面に転がる。

「そんな力でひとは殺せねーよ」

 抑えた声で、安は凄んだ。

「すみません……すみません……!」

 腕を離すと、脩は腰を抜かして尻餅をついた。後退りしながら、泣き声で何度も謝ってくる。覚悟が足りないし、殺意はもっと足りない。

 手探りで懐中電灯を奪うと、脩に灯を向けた。ごめんなさいと繰り返しながら、まぶしさに目を細めている。

 かれのことはできるだけ軽蔑したくないと思っていたのだが。安の胸に失望が広がった。

「まともな考えの奴もいるのかと思ったが、おまえも所詮はそっち側なんだな」

 傍らに打ち捨てられていた果物ナイフを拾い上げると、もうかまわず先へ進むことにした。もし次邪魔されたら容赦はしない。

 やがて背後で、脩が自力で立ち上がる気配がした。

「僕には、もうわからないんです」

 悲痛な叫び声が通路に反響した。

「母から、もしもが現れたら殺すように言われていました。……でもできない」

 安は立ち止まった。

 なるほど時子は、かつての一春と同じ監視の役目を、脩にも負わせようとしたらしい。

「あなたは、姉さんを拐おうとしたひとですよね。四年前、帰省したときに母から聞きました。おそろしい鬼が姉さんを汚したと。姉さんはたしかに、ひどく憔悴していました。だけどあなたを恨んでるわけじゃなかった。どんなことをされたのかは、僕にもだれにも絶対に話しませんでしたけど、姉さんが恋をしていたことは、僕にはなんとなくわかりました」

 息を詰まらせ、思わず安はゆっくりと振り返った。

 脩は濡れたトンネルの壁面に手をついて、声を震わせながら話し続ける。

「僕らは正直そんなに仲の良いきょうだいではありませんでした。姉さんは僕と遊んでくれるときよりも、亜瑚さんや成美さんといるときのほうがずっと楽しそうでしたし。僕にはさほど、興味はなかったと思います。でも僕は、ほんとうは姉が大好きだったんです。なんですかね。恋愛感情なのかどうかはわかりません。ただ姉さんは、たしかに僕の憧れの女性だった。そんな姉さんが愛したひとを……殺せない。それに……砂本さんは、姉さんを鬼妃にしないと言ってくれた」

 冷えきっていた胸に、泣きそうな脩のつぶやきが響く。

 そもそも正常な脳をもってして考えれば、わかることのはずなのだ。知景をこのまま鬼妃にするということが、壁の向こうのあの怨霊たちと同じ存在にするということが、どれほど鬼畜の所業なのかということぐらい。

 だが時子は鬼妃への妄執と恐怖に取り憑かれ、忘れてしまっている。娘であるはずの知景のことすらも、人間だということを忘れてしまっている。


「どうか姉さんを、人のまま死なせてあげてほしい」


 安は答える代わりに、脩の袖を乱暴に掴むと、引き摺り出すようにしてさきへ進ませた。

 後ろから左手に懐中電灯を照らし、右手に果物ナイフをちらつかせる。もうかれが反抗してこないだろうということはわかってはいたが、これぐらいの脅しは受けてしかるべきだろう。

 無言で二、三分進むと、やがてトンネルは行き止まりを迎えた。 

「この上です」

 照明を向ける。鉄の梯子が、ずっと上まで伸びているのが見て取れた。

「おまえはここまでだ。帰れ」

「でも」

 安ははしごに手をかけながら、脩の目の前にナイフを突きつけた。

 びくり、と脩の肩が震える。

「壁の向こう側はおそらく鬼妃の怨念がいちばん濃く渦巻く場所だ。そんなところに足を踏み入れたら、おまえの身体はどう考えても呪いの餌食になるぞ」


 天蓋を開けると、その蓋はそのまま二階の畳の一枚となっていた。

 ほこりまみれの畳を退けると、自身も這い上がる。


 この部屋こそが、壁の向こう側――らしい。


 天井近くに小さな窓があり、そこから太陽の光が格子状に差し込んいた。一部の壁と畳が照らされて眩しい。


 目が慣れて、あたりの様子がわかってきた。

 がらんとした広い部屋かと思っていたが、なにかある。

 どうやら壁際が一段高くなっているようだ。さらにその上になにか、箱のようなものが並ぶ影がみえてきた。数はざっと十ほど。

 箱か、もしくは壺だろうか。人の頭部よりすこし大きい。

 さらにそれらが明確な像を結ぶにつれ、安はこの部屋の異様な光景に、目を奪われることとなった。

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