3-6 血の因果
時子の部屋に入るのははじめてだった。
舘座鬼家の建物のなかでも、渡り廊下を渡ったさきにある離れの最奥部に位置する。民宿を利用する客にはまず縁のない場所だ。
「時子おばさん、……失礼します」
襖を開けると、そこは客室の半分ほどの広さ、六畳の座敷だった。
時子は布団から起き上がった姿勢で、亜瑚を見上げると、
「……戻ってきはったんね」
筋の張った喉を鳴らして、ひどく枯れた声でつぶやいた。
通夜のときからさらに二十年ぶんほど老け込んだように見えた。気品に満ちていた目元は髑髏のように落窪んで、腫れぼったいまぶたの奥からせわしなく動く怯えた瞳が覗く。唇は生気を削ぎ落とされたように色を失い、乾ききっていた。
「はい。あの、時子おばさんにお話しなければいけないことがあって」
亜瑚が傍らに膝を正して座ると、時子は避けるように身を引いた。亜瑚を、というよりも、ひとが近づくこと自体を過剰に避けているような、反射的な身の引き方だった。
そんな見るからに不安定な彼女の様子を前にして、亜瑚はすこしたじろいだが、それでもこちらから、思い切って口を開いた。
「おばさん、最初にわかっていただきたいんですけど、ちぃちゃんの死は、鬼のせいでも、私のせいでもありません」
時子の表情が、虚ろなままで時を止めた。沈黙は予想していたが、やはり重苦しい空気に気圧されて、続けようとした言葉がうまく出てこない。亜瑚もうつむいてしまう。
すると、
「……そうやろね。あの鬼の言い伝えに、そんな忌み話の力なんかありはしないもの」
やがて低くつぶやく声が、聞こえてきた。
「だけど知景は死んでしまった。あんなに、あんなに大切に……」
思い出したように、両目が潤む。最後のほうは、言葉にならなかった。
通夜のときはそうでもなかったが、いまこうして目の当たりにする時子は、ただ愛娘を失って悲しみに暮れる母というよりは、もっと漠然とした恐怖と絶望に蝕まれているようにみえた。
「おばさんは知ってたんですか? ちぃちゃんの事故の理由」
亜瑚は聞いた。
「そんなのいまさら知ったところで。もう、あの子は祟る側なんやから」
時子の声が震える。知景の行く末をずっと前から承知していたかのような発言には、胸を締め付けられると同時に、なにか得体の知れない気持ちの悪さをおぼえた。やはり鬼妃の怨霊の祟りの存在が、彼女を縛っている。
「時子おばさん」
ふらっと虚空に視線をやる時子の意識を、こちらに向けようと、亜瑚は真剣な目でまっすぐに見据えた。
「星麗南を鬼妃にするのはやめてください」
しかしやはりそれだけでは、彼女の心を動かすことはできなかった。
「もう間に合わへんのよ」
感情を無にした声で、意外にきっぱりとそれだけ言うと、時子は布団を剥ぎ、ゆっくりと立ち上がった。
「ついていらっしゃい」
老婆のように一歩ずつ、重たい足取りではあったが、たしかな目的を持っているようだった。しばしその様子を見守っていた亜瑚だが、我に返って立ち上がると、あとを追う。すぐに追いついて、時子の狭い歩幅に合わせて廊下を進んだ。
やがてどこへ向かっているのかがすぐにわかって、亜瑚ははっと立ち止まった。
渡り廊下を渡り、角を曲がると、横手に狭く、急な階段があらわれた。階上は闇に吸い込まれていくように暗い。
「亜瑚ちゃんは一度入ったことがあったかねぇ」
時子は肩越しにそう言うと、一段ずつ上りはじめる。床板は、ミシミシと音を立てた。
亜瑚は急激な怖気に襲われて、身動きを忘れていたが、意を決して、時子のすぐ後ろから、彼女を支えるようにして続いた。
以前にここを上ったときは、こんなに足元が暗かっただろうか。
知景に手を引かれて、ワクワクしながら探検みたいに進んだこの二階は。こんなに澱んだ重たい空気だっただろうか。
時子が襖を開けると、むせ返るような熱さに息が詰まった。
顔を上げると目の前に広がっていたのは、ぼんやりとオレンジ色の光に包まれた部屋だった。
家具やテレビは、配置もほとんど記憶のままだったが、そこが自分が泊まったときと、同じ場所だとはとても思えなかった。
雨戸を閉め切って、さらにダンボールで目張りをしている。
完全に陽の光が入らないようになっていた。
だが異様な空気に満ちている理由はそれだけではない。
おびただしい数の真鍮の燭台とグラスが、壁際を取り囲むようにして並べられていた。グラスには半分ほど水が注がれ、燭台のろうそくは煌々と灯をたたえている。
ただ、そのグラスのうちのいくつかは割れて散らばっていた。ろうそくも、何本かは火が消えて、燭台ごと倒れている。
さらに壁の端には鍬や鉈、斧といった農具が立てかけられていた。屋外でみるぶんにはどれも見慣れた道具だが、十畳の座敷においては異様な存在感を放っている。なにに使用されるのかは、想像がつかなかった。
壁際のグラスをひとつ、時子は緩慢な動作で拾い上げる。
「あのときも知景が撒いたでしょう、御神水」
あのとき、と言われて亜瑚は記憶を遡る。知景の部屋で泊まったあの夜。おそろしいことがあった翌朝、起きたときに足元に転がっていたグラス。溢れた水で、畳が濡れていた。あれは、知景が撒いたのだったか。勝手に倒れたように記憶しているが。
「御神灯には、あの子の魂が宿ると言われていてね。最後の魂のかけらが」
魂のかけらと言われて、亜瑚はどきりとする。
そういえば部屋でずっと張り付いていた、知景の霊。砂本たちが来て以来、どこかへ消えてしまっていた。知景の魂がほんとうはどこにいるのか、亜瑚にはわからない。ただ、この部屋の足元からは、なにかがまとわりつくような気配を感じる。
「これですこしのあいだ、この部屋から怨霊が出てこないようにしてます。知景が向こう側へ行ってしまったら、もう効き目もなくなるやろけど」
「そしたら私が代わりに!」
気を取り直すように、亜瑚は思わず一歩部屋へと足を踏み入れて、大きな声を出した。ろうそくの火が一斉に、揺らめいたように感じた。
「鬼妃になります。ここで、怨霊の供養をします」
しかし、
「亜瑚ちゃんにはできひんのよ」
脩と同じく、かたくなな返しだった。
「どうしてなんですか? 私にだって、舘座鬼のひいおばあさんの血が流れてます。ちぃちゃんほど霊感とか、勘は冴えてないですけど、必要なしきたりは覚えます。それにちぃちゃんも、鬼妃になるのだとしたら、私がそばにいてあげたほうがいいかもしれないじゃないですか」
半分めちゃくちゃなことを言っているのは自分でもわかっていたが、時子の情に訴えるにはこれしかない。
しかし時子はしずかに首を振るのみで、意志はまったく変わらないようだった。
亜瑚がなおも食い下がろうとしたときだった。
「むかしむかし、舘座鬼の家のご先祖さまに、それはそれは美しい女の人がおらはってね」
突如として話題を変えた時子だが、さきほどまでよりもしだいに饒舌になっていることに気づく。
「皆がそのひとに惹きつけられたそうよ。ただ美しいだけではないの。不思議な力を持っていてね、気持ちや想いの力がとてつもなく強いひとやった」
脩が言っていた、なにかに取り憑かれたように語るというのは、このことだろうか。時子は自室にいたときよりも若返ったように、声も張を取り戻している。
亜瑚は反対に、この部屋の空気のせいか、喉の渇きと痛みをおぼえていた。
「そのご先祖さまから念の力を受け継いだ子だけが、鬼妃になれるんよ」
「念の力……ですか」
乾いた声で、亜瑚は繰り返した。疑惑に曇った亜瑚の目の前に、時子はグラスを差し出した。
亜瑚は、ぼんやりと小刻みに震える時子の手を見つめていた。
その顔を見ようとしたとき。
御神水が流動した。
まるで意志を持った生き物のように、グラスの中で渦を巻くと、重力にさからって浮き上がる。蛇が鎌首をもたげるように。
「想いを込めたらものが動く」
時子は、ぱっとグラスを離す。重力にさからうのは水だけではなかった。浮いていた。
「念力と呼ぶことが多いらしいねぇ」
その瞬間、空中のグラスが、パリンと音を立てて、砕ける。
ガラスも、水も、周囲に飛び散るのを、亜瑚は呆然と口を開けていた。乾いた喉に、熱い空気が流れ込むのも気づかずに、ただ眺めていることしかできなかった。
「でもそれだけやない。人の心も、霊の心も、念はすこしずつ動かすことができるんよ。そうやって知景は、すこしずつ、鬼妃の怨霊のとてつもなく強い怨念にあらがってくれとった。普通のひとがここで過ごしたらどうなるか……」
もう説明は不要だった。
「亜瑚ちゃんに同じことできる?」
さすがに想像していなかった。
ただ、ひとつ、思い出したことがある。
ごく小さいころのことだったが、知景は「手品ごっこ」が好きだった。
しかしトランプを使っても、ボールを使っても、どれも全部、「触れずに動かす」一辺倒の、単純なものばかりだった。
あれは念の力によるものだったのかもしれない。
亜瑚がこの部屋に泊まった夜の御神水もそうだ。知景が念を使って撒いたにちがいない。
幼いころの自分が憎くなる。世界に疑いを持たなさすぎだった、能天気な私。
はっ、と気の抜けた笑いが漏れた。
最初から、自分が身代わりになるなんて選択肢ありえなかったのだ。
だが、
「じゃあ星麗南は?」
「一春さんが試したんよ。星麗南ちゃんにはわずかにあるの。同じようにとまではいかないけれど、グラスの中の水をすこしなら、動かすことができたって。あの子の目は、一回でだいぶ悪なってしもたけど」
「――えっ?」
「念力はとても大きな感情の力。生きる力そのものなんよ。使えば使うほど、すこしずつ身体は死んでいく」
知景がだんだん足腰を弱めていたことを思い出す。
あれはずっと、使い続けた力の副作用。
多くの疑問に、いや疑問にも思っていなかったようなことにさえも、理由があったのだ。
すべてを理解するのは難しかった。
ただ、こんなに近くにいた幼なじみが、莫大な秘密を抱えていたことを知り、愕然としてしまう。
自分はあまりにも無力だった。
星麗南を救いたかったのに、それすら許されていなかった。
身体の力が抜けて、床に膝をつく。唾を飲み込んだ拍子に、乾燥した喉が刺激されひどく咳き込んだ。その痛みとともに、あまりの絶望で涙した。
「……時子さんは、鬼妃、ではないんですか?」
長いこと嗚咽したあとで、はっと気づいて、亜瑚はたずねた。時子がいま見せたものが念力だとすれば、彼女自身は鬼妃の運命を免れたのがむしろ不思議に思えてくる。
亜瑚の言葉に、時子は一瞬、肩を震わせたようにみえた。
「ちがいます。鬼妃は未婚の女性でしかありえへんのよ。先代の鬼妃は私の姉。
「操……」
亜瑚は知る限りの親族の名前に記憶をめぐらせた。しかしそんな名前は聞いたことがなかった。時子に姉がいることも初耳である。
「ただ、ほんまはね、鬼妃を継ぐのは私やったんよ」
時子は、かつて知景が使っていた古い卓の前にゆるゆると座した。
そして、目の前の壁に並んだろうそくの灯の揺らめきをぼうっと見つめながら、乾いた唇を舐めると、語り始めた。
*
「――そうですか。姉さんが麻友さんや一春さんを……」
亜瑚が時子に面会する一方で、
「俺の声が届いているかどうかはわからなかった。自我が残っているかどうかも怪しいところだ」
知景もかつて話していたが、肉体的な制約から解放された念動力は、人智を超えた威力を持つ。だからこそあそこまで残虐なやり方で人体を破壊した。ただ、それが彼女自身にコントロールできているのかどうかは不明だ。
「もしかしたら感情は残っているかもしれない」
一春を殺害した直後、姿を現した知景を思い返して、声を落とす。あのとき、髪に隠れ、潰れた顔面の奥には涙が見えた。それがなにを意味するのかはわからないが。
「きっと、亡くなってからだんだん鬼妃に近づいているんだと思います」
脩が暗い面持ちで言った。
「姉さんがそんなことするなんて、信じられない」
「完全に自我を失うタイムリミットが四十九日ゆうことかもしれませんねぇ」
高西もしれっと会話についてきている。
「砂本さんはいったいこれからどうするおつもりなんです。鬼妃の怨霊の呪いを……解こうとお考えなんですか?」
脩がおずおずとたずねた。安はそれを鼻で笑った。
「ご期待に添えず申し訳ないが、俺は鬼妃の呪いがおまえら村人をどれだけ死なせようが知らねぇ。勝手にやれと思ってる」
冷淡過ぎる安の答えに、脩は失望を通り越したようで、恐怖に目を見開いた。
「俺の目的はただ、知景を鬼妃にしないことだ。どうするかはこれから探る。そのうえで呪いを解くのが必須条件ならまあ、その方法も考えるが」
傍らの脩の反応など我関せずで、安は続けた。
「いまはこの家が呪いを受け続ける要因を考えてる。たとえば建物の構造とかな」
「構造……」
「なにか知らないか」
心当たりがあるような脩の素振りに、すかさず安は睨みをきかせた。脩は一度怯えた目で安を見てから――さからえないと踏んだのだろうか、なにか意向を固めたようにうなずくと、
「実は僕も、ついこの前知ったんですが、この家の二階にはもうひとつ部屋があります」
意外なほどにすんなりと口を割った。
「もしもそこへ、入りたいとおっしゃるのなら……案内します」
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