3-2 ふたたび帰郷
「なー、砂本さんがいまから亜瑚ちゃんの実家行くゆうてはるけど、亜瑚ちゃんはどないするー?」
亜瑚は鼻歌交じりにコードをいじっていた手を止めた。
だれ? しずかにしてよ。
頭が殴られているかのように痛い。玄関のドアが叩かれているのだ。時折ガチャガチャとドアノブを回す音も混じる。
「ほら、祟りを鎮めるには現地に行かないとあかんのちゃうかなーと思って。知らんけど」
どんどんどんどん
あーあーもう、うるさいなぁ。もうすぐで準備できそうなのに。
一気に気分が萎えて、玄関のほうへ虚ろな目を向ける。
一瞬の間があったあと、またうわついた甲高い声が響いてきた。
「先輩、舘座鬼さんちにもお邪魔する言うてはるで! せっかくやし、いっしょに行かへん?」
舘座鬼の名前を耳にして、亜瑚はぴくりと反応した。
虚無を映していた瞳が、怒りの火を宿す。
あいつ、あの家にまだなにかするつもりなの……?
さらに。
「――ほら。やっぱりいないですよ」
困ったような、あきれたような声が高西を諭すのが聞こえてきて、亜瑚は慄然とした。風花だ。久しぶりに聞く友人の声。だがどうして高西なんかといっしょにいるのだろう。
まさか、脅されて連れて来られた?
「馬鹿にしないで」
裸足のまま玄関におり、すこし開けたドアの隙間から、亜瑚は暗くつぶやいた。
「私の友だちまで利用して、いったいどういうつもりなんですか」
「うそっ、あーこ!?」最初に聞こえてきたのは、大いにうろたえる風花の声だった。
「なんでいるの!? てか、え、大丈夫? ……じゃあないよね……?」
部屋を覗き込むように扉の目前に立つ風花と高西から、一歩引くようにして砂本がこちらを見下ろしている。亜瑚はドアをもうわずかに押し開けると、その長身をにらみ据えて吐き捨てた。
「愚弄されるのはもう懲り懲りです。消えてください。私の前から……!」
しかし鬼の心にはなにも響かなかったらしい。亜瑚の持つ充電用のコードを一瞥すると、砂本は鼻先であざ笑う。
「死にぞこないの癖に威勢がいいな」
「……殺してやる」
剥き出しの殺意が言葉になって零れた。コードを手にしたままの拳は、強く握りすぎて、伸びた爪が皮膚に食い込んでいく。
「それは別にかまわないが、早くしないとアンタの姪っ子が危ないぞ」
亜瑚は頬を
「星麗南が……なんですか?」
「兄貴の話聞いてなかったのかよ」
砂本は露骨にあきれたため息をついた。
一春が病院でしていた話のことを言っているのだろうか。正直、一春がなにを語っていたか、はっきりと思い出せる部分とそうでもない部分がある。一春が豹変した時点でひどく混乱させられたし、そのあとの出来事によるショックで、記憶はだいぶ混濁している。
そんなこちらの苦痛は歯牙にもかけず、見下してくる砂本の態度には、また怒りがこみ上げるが、星麗南を引き合いに出されては俄然そちらのほうが気がかりだ。
「教えてください」
屈辱を飲み込んで説明を乞う。しかし、
「くわしいことはあとで話す」
砂本は言い捨てて亜瑚の部屋の前から立ち去ってしまった。亜瑚は思わずそれを追い、裸足で廊下まで飛び出した。
「ちょっと!」
ただならぬ騒ぎを聞きつけたとなりの住人が、玄関のドアを開けて、怪訝な顔を覗かせている。
高西がそれを察して、早口に耳打ちしてきた。
「なぁ亜瑚ちゃん、最悪あとで砂本さん殺してもええから、最後に姪っ子ちゃんだけ助けたらへん?」
「だから星麗南になにが……」
「ほら、お兄さんゆうてたやろ、舘座鬼知景さんの四十九日までには、次の鬼妃を決めないとあかんって」
そうだったか、言っていたかもしれない。しかしそれを聞いたのは、もっとむかしな気がする。いつだっただろうか。そもそも言っていたのは兄だっただろうか。錯乱している頭では、よく思い出せない。
「もしかしたらそれが星麗南ちゃんかもしれへんのやで」
「は……? なにそれ」
「まあとにかく、あのひと待たせるとまた建物破壊してまわりそうやし、あとは道中説明するわ。すぐ用意し」
そう告げるやいなや、高西も逃げるように階下へ降りていく。
考えている暇はなかった。
亜瑚は玄関から、手に持っていたコードを部屋に向かって放り投げると、ほとんどなにも持たないままで、サンダルを足に引っかけた。
するとそのとき、いままで脇で見守っていた風花が玄関に立ちふさがった。
「ちょっとねぇ、あーこ、どうなってんのよ!」
「ふうちゃん……」
激情に突き動かされていた亜瑚だったが、久しぶりに友人を目の前にするととたんに我に返り、気まずくなってしまった。風花にはずっと、実家にいると嘘をついてきた。風花にしてみれば、いままでわけもわからず騙されてきたことになる。毎日のように心配してくれていたのに。
「あのひとたちに、脅されたりとか、しなかった?」
おずおずと、亜瑚が聞くと、風花はしずかに首を振った。
「しないよ。あーこがあぶないって言うから、ついてきたの。ねえ、あーこ。なにが起きてるの? ずっとここにいたの?」
風花の瞳には、不安と疑念の入り混じった色が浮かんでいた。それでも声には、友人を思いやる親身な気持ちがこめられていた。
ほんとうは事情をすべて話してしまいたい。いっしょに来てほしい。頼れる相手がほしい。紀日村まであいつらと行動をともにするなんて考えただけでも悪寒が止まらない。
でもだめだ。ここまで必死に巻き込むまいとしてきたのだ。たとえ嫌われてしまったとしても、風花まで危険な目に遭わせるわけにはいかない。
喉まで出かかった言葉を飲み込むと、申し訳なさでいっぱいになりながら、亜瑚は風花をそっと押しのけ、別れを告げた。
「ごめん、戻ってきてから全部話す。……ほんとごめん!」
*
「これあれですやん。着いたらもう夜中ですやん。明日絶対眠くなってしまうわぁ」
「おまえが構内でもたついてたからだろ」
運転席と助手席のあいだでは、絶えず言い合いが繰り広げられている。亜瑚は後部座席のシートの隅で感情を殺して小さくなっていたが、いい加減うんざりしはじめていた。車はすでに高速に乗っている。紀日村を目指しているのだが、東京から車で向かうのははじめてのことで、どれぐらい時間がかかるのか、見当がつかない。
「人っ子ひとり声かけられへん陰キャに文句言う資格はありません」
「黙っとけっつったのはどこのどいつだ」
「ああはいはい、まったく。僕がいなければろくに現地に移動もできないんやから――」
「あの……」
「いまのあなたはでかめのカーナビ――」
「そんな話聞いてない」
亜瑚はぴしゃりと一喝した。
ようやくおとずれた沈黙に、すかさず詰問する。
「星麗南が次の鬼妃って、どういう意味ですか」
助手席の砂本は窓にもたれて気だるそうに外を眺めている。その横顔を覗き込むようにして、亜瑚はさらに問いつめた。
「鬼妃は怨霊のことなんですよね? なのにどうして次の鬼妃を決めないといけないんですか? それじゃあまるで星麗南が……」
――星麗南が生贄になるみたいじゃないですか。
思いついてしまったその続きは、言葉にできなかった。
途方もない話だし、とうてい受け入れられないのはたしかだが、その結論に至った流れは自然だった。亜瑚は、なぜかそれを予感していたような気さえするのだ。
「アンタの想像でおおむね間違ってはないが」
と砂本がバックミラー越しに亜瑚の顔色を確認した。
そして、さらなる衝撃の事実を話し始める。
怨霊は壁の向こう側で、舘座鬼家の者を呪い殺そうとしている『鬼妃』。
知景は壁のこちら側で、その怨霊の供養をして、呪いを食い止めてきた『鬼妃』。
こちら側に鬼妃がいなくなれば、向こう側の鬼妃が祟りをおこす。
だから舘座鬼家を存続させるには、ひいてはその血を引く多くの村人を守るためには、こちら側に鬼妃がいなくなれば、また新たな鬼妃が、代々怨霊供養をおこなっていくしかない。
要約するとそういう話になる。
「あくまでこれは可能性だ。だがもともと若年層がすくないあの集落のなかで、舘座鬼家の遠縁にあたるアンタの姪は、鬼妃になる条件に合致している。さらに時子の協力者であった一春は、もしものときに娘が鬼妃を継ぐことを了承していたかもしれない」
ひとつ思い出したことがある。
あれはたしか知景の葬儀のあと。
時子が、前野家までわざわざ来たことがあった。そのときの一春との会話を、亜瑚はこっそり階段の上から聞いていた。
亜瑚はまだ「鬼妃」の意味すらも知らなかったから、内容はまったく意味不明だったのだ。
しかし時子が「わかってますやろ?」
と念押ししたのに対して、
「ですが、うちの子にそんな力は……」
と、かれは答えたはずだ。
一春が『うちの子』と呼ぶのは星麗南のことだとして、星麗南になんの関係があるのだろうと、亜瑚はそのとき疑問を抱いたのだった。
「だれもおらんよりましよ」
と時子は言っていた。
あれはおそらく、星麗南には知景ほどの力はないが、しかたなく代わりの鬼妃を務めさせるという意味だったのだ。
時子が、四十九日までに代わりの鬼妃を立てなければと言ったのもこのときだ。
時子はすべての事情を知っていながら、知景に鬼妃の役目を負わせていた。そして次は……。
「星麗南が鬼妃を継ぐ……あの部屋で」
「それが嫌ならアンタが鬼妃の身代わりになるか」
「身代わり……ですか」
突然降って沸いた選択肢に、うまく頭が回らない。砂本がこちらをにらむのがバックミラーから見える。
「アンタも舘座鬼家の遠縁だろ」
「えっ……」
突然動悸が激しくなり始めた。どうして思い当たらなかったんだろうか。つまりは亜瑚自身も、鬼妃に選ばれる可能性があるという話だった。
あの部屋に一晩いただけでも、忘れられないぐらい怖い体験をしたのに、毎晩怨霊の供養のためにずっとあそこにこもらなければいけないなんて。
自分には学校も、叶えたい夢もある。いまの生活を犠牲にして、生贄を継ぐなんて、考えられない。
「そんなの無理。でも星麗南がその役目を負うのは……もっと耐えられない」
すがるように、亜瑚は座席から身を乗り出した。
とはいえどうしたらいいのか、ほかにまったく案は思い浮かばない。
*
ノンストップで車を飛ばしたので、ぎりぎり日付をまたぐ前に、紀日村に到着した。
前野家の建物は真っ暗だった。門灯にも灯りがなく、車庫には父の車もない。
玄関にめずらしく鍵がかけられている。家にだれかいるときは基本的に閉めないのだ。
家族の不在を確信しつつも、念のため亜瑚がさきにただいまを言いながら家の中を覗き込んだ。
見慣れた広々とした玄関と廊下に、不気味なほどの静寂が広がっている。ふと足元をスマホのライトで照らすと、靴がない。星麗南のサンダルや通学用のスニーカーも、父の農作業用の長靴も、靴箱にきちんとしまわれていた。長いあいだ、家を開けるつもりで外出したのかもしれない。
「だれもいないみたいです」
車まで戻って、亜瑚は報告した。
「時子さんとこか、となり町の、父の事務所で寝泊まりしているのかもしれません」
なんとなく両親と星麗南には村の外にいてほしい気がした。
高西が、前野家の庭に車を停めていたときだった。
「どちらさまですか?」
不意に声をかけられた。こわごわと様子をうかがうような、女性の声。それは亜瑚もよく知ったひとのものだった。
どきりとして、亜瑚は振り返る。
「亜瑚ちゃん……?」
暗がりのなかに見知った人影が立つ。どうやらひとりらしい。家近くで知り合いに会うのはめずらしいことではないが、こんな夜更けに用もなく散歩だろうか。
「おばさん……お久しぶりです」
乾いた声を出しながら、亜瑚は深く頭を下げた。そのままの姿勢で、身構える。罵声か、恨み言か、どんな言葉が待っているのだろうかと。
だが聞こえてきたのは、うっと息を詰まらせるような音だった。亜瑚はおそるおそる顔を上げた。目の前の人物は、両手で目を覆っていた。やがてその隙間から、細々とした力のない声が漏れてくる。
「ごめんね……亜瑚ちゃん……あの子ね、ほんまに自殺やったんよ……。ごめんねぇ、ごめんねぇ……知景ちゃんにも、なんと謝ったらいいのか」
肩を震わせて泣いているが、亜瑚に向けるのは謝罪の言葉ばかり。
「あの、ど、どうしたんですか?」
予想外の反応に、亜瑚は困惑した。亜瑚のせいで娘を失ったこの人には、どれだけ恨み文句を吐かれても、しかたないと思っていたのだ。
「あの……こちらは」
と高西が車から降りてきて顔を覗き込む。
亜瑚はちらりとかれらを見遣ると、深く息を吸ってから答えた。
「私とちぃちゃんの幼なじみの、成美……瀬尾成美の、お母さんです」
そのとたん成美の母親は、堪えきれずといったように膝を折って、泣き崩れた。
「ごめんねぇ、亜瑚ちゃん……! あの子が、成美が、全部悪いんよ!」
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