3-3 手折られた世界

 亜瑚は彼女を瀬尾家まで送り届けることにした。

 そのあいだも成美の母親は、たえず懺悔の言葉を吐き続けていた。

 興奮状態だった彼女も、家に近づくにつれてすこし落ち着いてきた。時折声をつまらせながらも、話しはじめる。

「遺書がね、残ってたんよ」

「え?」

「それ読んで、あの子がとんでもなく恐ろしいことをしてしまったんがわかって……」

「恐ろしいこと……?」

 眠気と疲れもあって、亜瑚は考えがまとまらない。成美のやったことといえば、通夜のときに大騒ぎしたことぐらいか。それとも知景の棺を無理やり開けたことだろうか。成美に関してすぐに思い出せることが、あまりなかった。


 玄関先ですこし待っててと言い残し、成美の母親は一度奥へと消えた。それから、なにも書かれていない白い封筒を手に戻ってくると、深く頭を下げながら両手でそれを亜瑚に差し出して、言った。

「ここにあの子のやったこと、全部書いてあるの。あまりにも怖くて、だれにも言えへんくて……ごめんねぇ」

 受け取って、中身を確認する。数枚のルーズリーフのようだ。

 びっしりと文字が書いてあるのが裏側からでもわかる。

 亜瑚は震える指で紙をめくり広げた。


 読み始めるなり眠気も疲れも一瞬にして吹き飛んだ。

 そこには、すべてのはじまりとなった出来事が記されていた。


 *


 私がちぃちゃんのことを好きになったのは、いつからだっただろう。

 ものごころついたときにはすでに、ちぃちゃんはほかの子とはちがって見えました。

 あの子がいるだけで世界は明るかった。

 私たちずっといっしょだった。

 同じ年に生まれたのは、運命だと思っていました。

 ちぃちゃんはあまり運動が得意ではなかったから、一緒に外では遊ばなかったけれど、ちぃちゃんのためなら私は、あまり好きではないお絵描きやゲームにだって挑戦しました。

 ちぃちゃんといっしょだから楽しかったし、がんばれた。

 幸せな子ども時代はあっという間に終わってしまいました。

 私は親に寮のある高校を強く進められて、泣く泣くちぃちゃんとお別れすることになりました。

 バス停までお見送りに来たちぃちゃんのさみしそうな「いってらっしゃい」を、いまでもわたしは忘れられません。


 結局のところ、私は高校にうまく馴染めませんでした。

 ちぃちゃんがいない世界で生きていくなんて、私には無理なことだったのです。

 私は高校を中退して、村に戻ってきました。

 親に申し訳ないし、情けない気持ちもあったけれど、邪魔者もおらずにちぃちゃんとふたりきりで過ごせるようになったので、幸せでした。

 いま思えば、あの頃が私たちにとって、いちばん満ち足りた時間だったと思います。


 ちぃちゃんはそのころ脚を悪くしていて、外に出かけることもあまりなくなっていました。だから毎日は会えませんでした。

 でも週に一度、私はちぃちゃんとお散歩に出かけました。

 子どもの頃によくおとずれた、裏山や小学校や秘密の遊び場を、ちぃちゃんといっしょにお散歩する。

 その時間が、私にとってのすべてでした。


 あれは暑い夏の日……たぶんお盆休みだったと思います。

 久しぶりにちぃちゃんに会ったときのことです。

 とても悲しそうな顔をしていましたが、私は彼女が何となく今までの彼女と違う雰囲気を纏っていることに気がつきました。

 気のせいかな、と思いましたが、なぜかとても胸騒ぎがして、

「なにかあったの?」

 と尋ねました。

 すると彼女は、なにも答えず、ただ、私に抱きついてきました。

 抱きつくなんて、小学校の頃以来の行動に、私はぼうっとなってしまいました。ちょっと陶酔してすらいました。

 夢中でちぃちゃんの背中に手を回して抱きしめ返すと、小さなちぃちゃんは私の腕の中で声を上げて、ぼろぼろ涙を流して泣き出しました。

 私はびっくりしてしまいました。

 実は私はそれまで一度も、ちぃちゃんの涙を見たことがなかったのです。

 やっとのことで、

「どうしたの?」

 と聞きましたが、ちぃちゃんはただ綺麗な、水晶みたいな大粒の涙をいくつも零しながら、しゃくりあげるだけでした。

 もうびっくりしすぎて、そのほかになにを聞いたらいいのかとか、よくわからなくなってしまいました。

 ただただ、ちぃちゃんが私の胸で泣いてくれることが嬉しくて、愛おしくて、かわいそうで、頭がいっぱいになってしまいました。

 思いっきり抱きしめ返して、幸福な香りを全身に吸い込んだときでした。

 ちぃちゃんからほのかにいつもと違う匂いがするのを感じました。ちぃちゃんの清らかで甘い香りが、獣のような野蛮な雄の臭いに穢されているような。

 そんなわけないんです。そんなわけないのに。

 一瞬ですが、たとえようのない気持ち悪さと、どこまでも真っ暗闇に落ちていくような恐怖感を覚えて、私はそのままちぃちゃんの両肩を持ってそっと離しました。


 目の前の女の子が、一瞬だれかわからなくなって、怖くてたまらなくなりました。

 私はどうしたらいいかわからなくて、無言で逃げてしまいました。


 家に帰ってから、ちゃんと話を聞いてあげればよかった……と後悔しました。

 しばらくは自分を責める日が続きました。


 ふたりのあいだに気まずい空気が漂いつつも、私は変わらずちぃちゃんを想いつづけました。

 毎日、毎日、彼女の未来と幸せを想い描きました。もしこのさきちぃちゃんが歩けなくなっても、いつもそばに私がいて、支えつづける。そんな未来を願いました。

 そうしているうちに、あの日感じた一瞬の怖気も、だんだん溶けてなくなっていきました。

 私たちはいつのまにか成人を迎えていました。

 舘座鬼のおうちで、ちぃちゃんとふたりで成人式をしたのを覚えています。私たちの晴れ姿をみて、時子さんは、成美ちゃんは親戚同然だと言ってくれました。嬉しくてたまらなかった。

 ちぃちゃんのそばにいられるだけで幸せ。

 大人になった私たち、これからきっとずっといっしょ。それだけで、自分の人生が尊いものに思えました。


 だけどあの日、すべてが終わってしまいました。


 私たちは舘座鬼家の裏山を登っていました。

 小学校のころ、よく遊び場にしていたあの場所です。

 知景は杖をついていましたが、これぐらいはリハビリになるから、と小さいころからよくおとずれた場所へ、ぐんぐん足を進めていきました。私は後ろから支えるようにして登りました。

「亜瑚がねぇ、知景の話をしてくれたの!」

 見晴らしの良い崖の上で、知景は両手を広げて嬉しそうに報告しました。

「亜瑚?」

 それは長らく忘れかけていた、邪魔者の名前でした。

「亜瑚、怪談朗読がんばってるんだよぉ」

「なにそれ、知らない」

「あれ、言ってなかったっけ。動画サイトに投稿してるの。【A子の怪談朗読チャンネル】っていうんだよ。四年前から続けてるんだよ。すごいよね」

 教えてもらったかもしれない。でも亜瑚とは中学を卒業して以来それっきりで、正直あまり、興味がありませんでした。

「それでね、こないだついに知景とお泊まりしたときの話を動画にしてくれて……」

「亜瑚の話ばっかりするの、やめてよ」

「え?」

 きょとん、と知景は私をみて、固まりました。

 私が突然不機嫌な声を出してしまったので、戸惑ったようでした。

「あ、そ、そうだよね、ごめんね、久しぶりに成美とせっかくのお散歩だもん」

 ちぃちゃんは、ごめんね、と困ったように可愛く笑いました。

 ああ、もうだめだ。

 その瞬間に、私の中はちぃちゃんが好きだという想いで溢れ返りました。

 これ以上邪魔者に取られたくない。

「ちぃちゃん」

 私は思わずちぃちゃんを抱きしめていました。

「あたし、ちぃちゃんのことが好きだったの」

「ありがと。知景も成美のこと大好きだよ!」

 ちぃちゃんは私の腕のなかで、力強く言いました。それから安心したようなため息をつきました。「よかったぁ。成美、知景のこときらいなのかと思ってたから」

「なんで!? そんなことない! そんなわけない!」

 私はぎょっとして、激しく首を振りました。

「前に知景泣いちゃったことあったじゃない? それできらわれちゃったのかなぁって……」

「むしろ逆だよ、あのときもっと好きになった。好き過ぎて、苦しくて、どうしようもなくて……」

 私が声をつまらせたのを見て、知景はあわて出しました。

「ご、ごめんね成美! 知景、そんなこと思わせちゃってたの? ああもう、ほんと気づかなくてごめん」

「ううん、いいの。あたしが悪いの」

 私は大きく首を降って、真正面から、彼女のことを見つめました。

「ちぃちゃん。ちぃちゃん。大好きだよ」

「知景も成美のことが大好きだよ。これからもずーっといっしょにいようね」

 ちぃちゃんの紡いだその言葉が私の脳を溶かしていきました。

「成美……?」

 私は、すこし開いたちぃちゃんの唇にキスをしました。はじめてのことでした。腕の中で、知景は必死にもがき身を捩りました。彼女の細い身体は私から逃れたいように感じられました。だけどそんなはずはないのです。だって、知景だって私のことが大好きだと言ってくれたから。

「……愛してるの。あたしが好きなのはあなただけ。あなたじゃないと、だめなの」

 興奮して、なかば酸欠になりながら、私は涙目になって訴えかけました。

 ちぃちゃんにも苦しそうな呼吸をさせてしまいました。

「大丈夫、だから。成美のこと、知景も、ちゃんと好きだから……」

「ちがうの。お願い。あたしの気持ちちゃんと受け止めて」

 もう一度顔を近づける私に向かって、ちぃちゃんは言いました。

「前に成美に泣きついちゃったことあったでしょ」

 それからさらに知景が続けたのは、衝撃的な真実でした。


「あのとき知景、失恋したの」


 時間が、止まりました。


「でも知景はまだ、そのひとのことを愛してる」


 世界がひっくり返るような言葉でした。


 ぐるぐると目が回りました。全身に鳥肌が立ちました。私は、理解ができずに喚き散らしました。

「やだ……やだよ、ちぃちゃん、なんで? ……だれ? それはだれ?」

「言えない」

 知景は小さく首を振りました。

「亜瑚?」

「ちがうよ、村の外のひと」

 ありえないことです。信じられない。知景が、私の知らないほかのだれかを愛するなんてこと。

「鬼、鬼だ。あたしからちぃちゃんを奪うなんて、そんなの鬼しかありえない!」

「そうかもしれない」

 知景の声は天から降り注ぐ光のように澄んでいました。

「だけど優しい鬼さんだった。はじめてみたときはとても寂しそうで、とても怯えてた。だから早くぎゅっとしてあげなきゃ、って思ったの。かれはね、私にたったひとつの怖いことを教えてくれた」

 知景の言葉ひとつひとつに揺らされて、頭がふわふわとして、なんだかすべてが悪い夢のようでした。

 だけど放心した私を見据える知景の瞳は鮮やかで、私の脳を現実に縛り付けました。


「「愛してる」は、怖いことなの」


 女神のような微笑みが、私から正気を奪いました。

 この女はだれだ。

 それは私の知らない知景でした。

 私の知っている無邪気で素直で天真爛漫で、いたずらっぽい笑みを浮かべるどこまでも清らかな少女ではありませんでした。


 ただの鬼に恋した女。


「だからもう二度とあのひとに会えないんじゃないかと思うと、目の前が真っ暗になるほどすごくすごーく怖い。でも、それでもね、生きてさえいれば……あのひとが元気でいてくれさえいれば、知景はそれで、幸せ。あのひとの生きるこの世界を、全部大切にしたいの」

 知景の声はあまりにも甘美で優しかった。慈愛の言葉は、私には向けてくれたことのないものでした。

 全身全霊で、彼女は鬼を愛していました。


「だから成美のことも大好きだよ、ほんとうにほんとうに大切だよ」

 そう言うと、知景は私をぎゅっと抱きしめました。

 待ち望んでいた言葉のはずなのに、私の心はどんどんどす黒い泥水で満たされて、溺れそうになりました。


「……でも、ごめんね。知景が「愛してる」のは、「いずく」だけなの」


 なにかが音を立てて壊れ、その瞬間に溜まっていた黒が溢れ出しました。

 私は意味のない言葉をわめきちらしながら、彼女を強く突き飛ばしました。

 脚の悪い彼女は、そのまま踏ん張ることができなかったのでしょう。

 羽根でも生えているのかと思うほど、遠く後ろへ、飛んでいきました。


 小さいころから私はずっと、邪魔者に怯えて、邪魔者からちぃちゃんを取り返したくて、邪魔者がいなくなったのがあんなに嬉しかったのに、それらはすべて無駄だったのです。


 鬼は別のところにいたのです。

 私の前からちぃちゃんを奪っていく恐ろしい鬼は、顔も見たことのない男でした。


 最後に見た彼女は、虚空に投げ出されていました。

 心からおどろいたような顔をしていました。

 困ったように笑ったあと、その顔がぐしゃりと、潰れました。

 その瞬間、わかったんです。


 これは祟りだ。鬼のせいなんだ。


 私が知景を殺してしまったなんて、そんなことあっていいはずがないもの。


 ……ごめんね、ちぃちゃん。

 ひとりぼっちは、さみしいよね。

 私もすぐに行くから、待ってて。

 今度こそ鬼も邪魔者もいないところで。

 ずっと、ずっと一緒にいよう。

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