第三章 人間
3-1 運命の友だち
「亜瑚ー! おまたせー!」
声がしたので振り返ると、桃色の振り袖を着た知景が、からんころんとぞうりを鳴らしながら近づいてくるのが見えた。
ただでさえ足元が不安定な石畳の上を、ただでさえ足元を不安定にするぞうりを履いて、ただでさえ足元が不安定で転びやすい知景が、両手にりんごあめを一本ずつ持って駆け寄ってくるさまは、ある種の人間爆弾だ。
亜瑚は一瞬にして血の気が引くのを感じた。
「りんごあめ持って走っちゃあかんよ、ちぃちゃん!」
「大丈夫大丈夫〜」
心配する亜瑚の悲鳴をよそに、知景は目前で華麗な静止を決め、ひらりと袖を揺らすと、「はいっ、どーぞ」とその左手に持った紅く照り輝く球体を、一輪の薔薇の花のごとく差し出してきた。
能天気な笑顔を見ると、叱る気はすっかり失せてしまう。
「もー……ありがと」
亜瑚は気の抜けたようににへっとほおを緩めて竹串を受け取った。
亜瑚のとなりでは成美が、その様子を眺めて微笑んでいる。普段の格好は活動的でシンプルなジーンズやパーカーが多い成美だが、今日は真紅の地に大判花柄の振り袖で華やかに着飾っていた。背が高いこともあいまって、びっくりするほど大人っぽい。
「成美のぶん……!」
不意に知景が頓狂な声をあげた。
「知景、ふたつしか持てなくて……どうしよう」
どうやら成美のりんごあめを買ってこなかったことに気づいてあわてふためいているようだ。成美は、白い息を吐いてあははっと笑った。
「気にすんなって、そりゃあ手はふたつしかないねんからあたりまえや」
しかし知景は納得いかなかったらしく、
「これあげる! そんで成美のぶん、買ってくる!」
きりりと眉を釣り上げて、思いっきり矛盾した宣言をする。それがまたおかしくて、成美も亜瑚も腹をかかえて笑い出す。ひぃひぃ息を切らしながら成美は、
「落ち着け落ち着け。それやとあたしがふたつになるやん。そっちはちぃちゃんが食べな。あたしは自分で買いに行くから」
と知景の頭にぽんと手をやり歩き出した。
「じゃあ、一緒に行こ!」
「いいけど、おみくじやるんじゃないん?」
「あとで〜。ほら亜瑚も行くで〜」
知景はマイペースに亜瑚の手を引く。
「結局全員行くやん」
亜瑚はつっこむが、嫌な気はしない。
「いぇーす!」と知景はりんごあめを持った手を、高く掲げた。
小さい知景を挟むようにして三人ならんで、神社の参道に並ぶ屋台を目指す。
知景の左手が自分の右手に絡んでいるので、亜瑚はぎゅっと握り返した。ものごころついたときから、となりを歩くとそうするのが
空は薄い雲に覆われた曇り。きんと冷え込んだ初詣の日だった。
不意に知景は亜瑚の手を離した。
「あっ、ねえ聞こえる?」
おもむろに、音をよく聞くための耳に手を添える仕草をする。
「なにが?」
両脇から尋ねる亜瑚と成美。
「雪の声……」
「雪?」
「雪は声せんやろ」
「ほらっ、降ってきたぁ」
知景は天を指差して、きゃはははと嬉しそうな声を立てる。
目をやると、見計らったように雪が降ってきた。白い空を背にちらちらと、灰色をしてほこりみたいだ。
「ほんまや」
亜瑚は感心して白い息をつく。
「よくわかったなぁちぃちゃん」
えへへと得意げに胸を張ると、知景はまたしっかりと手をつないでくる。自分のより冷たい手だ。ずっとあめを持っていたからだと思う。亜瑚は温めるように包み込んであげた。
しずかな参道には、身を切るような冷たい空気が流れている。けれど三人の進む道には、寒さも吹き飛ばすような活気と笑い声が溢れていた。
――思い出になる日には、いつも唱えるんだ。
私たちは三人仲良し。同じ年に生まれた、運命の友だちなんだよ。
ずっと、ずーっと、友だちだよ。
……って。
*
またうたた寝をしていたらしい。
昨日は警察にいろいろと聞かれたが、ずっと上の空だった。
星麗南はどうしているだろうか、ぼんやりと、窓の外を見てそればかりを気にしていた。たまに、今日はすごい晴れてるなあなどと感慨に耽ったりもした。
ほんとうはほかにも考えるべきことがある気がするが、すこしでもなにかを思い出そうとすると、中身が全部出そうなほど胃が痛くなった。
だから警察になにを話したのかも、星麗南があのあとどうなったのかも、自分がいつ東京に帰ってきたのかも、覚えていない。
床の上に投げ出した携帯の着信音が、ひっきりなしに鳴っている。
浅い眠りのさなかに、幼いころの夢を見た。
恐ろしい夢よりやさしい夢を見るほうが、目覚めたときに胸を抉られたような苦痛を感じるのをはじめて知った。
過去の記憶を消せたらいいのにと思う。あの村との関係を、全部切り捨てたい。そうでなければ、このまま自分も祟りに食われて消えたかった。
でもどうやら、どちらの願いも叶いそうにない。
祟りを起こしていたものの正体は、知景だった。
彼女はずっと自分のそばにいながら、自分の周りの人間を呪い殺して回っていた。
目の前で惨殺される一春の姿を見て発狂しながら、亜瑚はだんだんとその確信を募らせていった。
ねぇちぃちゃん、私になにが言いたいの?
どうしてほしいの?
ベッドの端に小さく膝を丸めたまま、すこし顔を上げると、それはいる。目の前に座っているのだ。
知景が。
いわゆる霊体だとか、向こうが透けているだとかではなく、はっきりと。棺桶に横たわっていた遺体がそのまま抜け出てきたのかと思うほどまったく同じ姿だった。力の抜けたように背中を丸めて、俯いたままそこに鎮座していた。
異様な状況に、はじめはひたすら恐怖のあまり、頭を抱えて震えていたが、さすがに何時間も居座られると感覚が麻痺して、いまはただうつろに、静寂のなかに対面しているだけになっていた。
亜瑚の頭のなかでは、ぼんやりと知景への問いかけが巡っていた。
どうして一兄を殺したの?
盗聴は、たしかに許されることじゃない。
だけど一兄はずっとちぃちゃんのこと、好きだったんだよ?
たとえそれが許されなかったとしても、殺すことはなかったよ。それもあんなふうに……。
どうして砂本安を殺さなかったの?
ちぃちゃんにひどいことしたあいつのことが、憎くないの?
私はこんなに許せないのに。憎くてしかたがないのに。
成美を、麻友さんを……殺したのも、ちぃちゃんなの?
どうしてそんな怖いことしたの?
――どうして、死んだの?
疑問は尽きなかったが、それを目の前のものに問う勇気は出なかった。
目の前のものが知景なのかどうかも正直よくわからない。
もうこれ以上残酷な真実を知ることが怖い。
知らないままで、楽になりたい。
楽に……。
目をつぶり、さっき見た夢の温かさをもう一度思い出す。もう一度眠れば、あの場所へ帰れる。笑い声が肌を包み込むのを感じて、亜瑚ははっと意識を明確にした。
帰れる。
そうか、ちぃちゃん、私を迎えに来てくれたんだ。
いっしょに行こうって、誘いに来てくれてたんだね。
ごめんね、気づかなかった。
そうだよね。
ずっと、ずっと友だちなんだもんね。私たち。
知景と成美のいるところに、私も行かなきゃ、ダメだよね。
亜瑚はふらりと、ベッドから下りた。
瞬きした瞬間に知景の姿が消えたが、気づかず、操られるように動き出す。
ノートパソコンの充電用のコードを、電源からぶちっと乱暴に引き抜くと、その長さと強さをたしかめるようにぴんと張った。
胸が高鳴る。
初詣の日、母に晴れ着を着付けてもらったときの、わくわくした気持ちを思い出して、自然と笑みがこぼれた。
*
同日、都内某大学の構内。
不審な学外生二名は講義が終わったタイミングを見計らって、学生の集まりやすい食堂付近をうろついていた。
見つけた、と高西がこちらに目線を送る。
「先輩は無駄に人を威圧するので、そこでウドの大木のごとく黙ってみといてください」
ひとこと余計な念押しを施してから、平身低頭のもとに進み出ると。
「すみません、須藤風花さんで
緩く巻いた黒髪。シフォンブラウスにグレーのミニスカート。カジュアルブランドのロゴが入ったトートバッグ以外とりたてて特徴のない女子大生だった。困惑して固まっていたが、否定はしてこない。それをいいことに調子よく続けた。
「いやどうもはじめまして、自分らR大学からはるばる来たもんでしてぇ。僕は高西凌太。凌太でええよ。風花さん。あっちの凶悪殺人犯みたいなのは砂本先生。一応大学の講師。はい先輩、名刺出して」
軽率な愛想を振りまいてからの雑談がかれの得意とする立ち回りだが、さすがに今回は、手早く本題に入る。
「風花さんて、前野亜瑚ちゃんとおんなじゼミの友だちやねんやんなぁ」
「風花」と呼ばれた女性は、あきらかに不審者を見る目をこちらに向けていたが、亜瑚の名前を出すとわかりやすく反応をみせた。すこし距離を取りながら、
「……亜瑚がどうかしたんですか」
まっすぐにこちらを見据えて聞いてきたのだ。高西はこれさいわいとばかりに畳みかけた。
「僕ら前野亜瑚ちゃんのこと、探してるんです。なるべく急ぎめで」
「亜瑚ならいま実家にいますよ。ずっと体調悪くしてて」
「きみそれ、ほんまやと思う?」
「え?」
虚をつかれたらしく、風花は目を見張った。
「亜瑚ちゃん、いまちょっとアブナイ状況でな」
何度試みても着信に応答しないため、前野亜瑚の通う大学までわざわざ赴いて知り合いを探した。
学部までは聞いていなかったので、特定するまでかなり大勢の人間に聞き込みをしたと思う。
高西が無駄に高いコミュ力をいかんなく発揮して、人から人へと情報を渡り歩き、手がかりを繋ぎ合わせ、やがてひとりの人物にたどり着いたのだ。
「風花」と呼ばれているこの女性は、亜瑚とかなり親しい友人のようだった。
「亜瑚があぶないって、どういうことですか」
高西の車の後部座席で、風花はトートバッグの持ち手を両手でぎゅっと握りしめてこちらをにらんでいた。警戒されている。当然だが。
「ちょっと言いにくいねんけど、亜瑚ちゃん取り憑かれてはるねんな、たぶん」
運転しながら、高西の適当およびまったく説明になっていないトークが炸裂する。突然話題がオカルトめいた方向に飛ぶのだから、この時点で通報される可能性もおおいにあった。だが彼女自身、なにか思うところがあったのだろうか。
「それって、亜瑚の親戚が亡くなったことと関係あります?」
意外にも聞き返してきた。『親戚』というのは知景のことだろう。
高西はすこし声を低くして「せやねん。だいぶある」としか答えなかった。
自分が捕捉するとかえって逆効果な気がして安は黙っていた。風花が理解のある人間で助かった。
「ここです」
指差したのは二階建てのアパートである。築年数は新しくなさそうだ。エントランスは一応オートロック式だが、自力で開閉するタイプの扉だった。
「でも留守だと思います」
説明しながら、風花は慣れた手つきで部屋番号、「202」のボタンを押すと、呼び出し鈴を鳴らす。
沈黙。
幾度となく繰り返してきた流れらしい。
ご覧の通り、というふうにこちらに顔を向ける。
高西は八の字眉で、
「いや、亜瑚ちゃんは帰って来とるやろ」
エントランスを抜け出して、表の道路に駆けて出ると、
「なぁ!」
突発的に、声を張った。
「ちょっ、は!?」
風花があわてて後を追う。
高西はかまわず、202号室かどうかわからないが二階の窓に向かって、メガホン代わりに口に手を添えて叫ぶ。
「おーい! 亜瑚ちゃーん! そこにおるんやろー?」
「なに考えてるんですか高西さん! やめてください! 近所迷惑ですって!」
「おったら返事してー!」
ふたりのやり取りはいかにもまどろっこしく、見ていていらいらが募る。
鬱憤を発散させるように、安は目の前の扉を蹴飛ばした。
金具の壊れる派手な音がなったが、古いアパートなのが幸いして、扉が無理矢理破られても、防犯ブザーなどが鳴ることはなく、鍵が破損し、パーツがいくつか割れて転がったのみの被害で収まった。
「「なにやってんですか!」」
高西と風花が同時に叫ぶのが背後で聞こえた。
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