2-10 あなたが鬼
「前野亜瑚のLINEに盗聴の音声を送っただろ」
「なんの話です?」
「あいつのスマホに証拠がある」
「送った覚えはありません」
「送ったのはあんたじゃないだろう。あんたが意識を失っているあいだに送信されてた」
そう。
知景がLINEを送ったのだ。
あれは怪奇現象だ、という亜瑚の訴え。一見妄言じみていたが、実は核心を突いているのではないかと安は考えていた。
知景の力は、心でものを動かす類のものだ。
肉体が滅んだいま、彼女の力は「動かす」ことにおいては広域に渡って作用すると考えられる。要するに電子機器を起動させ、操作することも可能という予測だ。
ただ、データ自体は前野一春のものでなくてはならない。知景の念の力では、おそらくデータの構築まではできないだろうからだ。
「舘座鬼知景と、どういう関係なんだ、あんたは」
知景の名前を出した瞬間、前野一春を包んでいたそれまでの空気が一変した。理性のベールを脱ぎ捨てた剥き出しの憎悪が、肌で感じられた。
「……殺しでもしたか?」
安の漏らしたつぶやきを聞いて、一春はタガが外れたかのように笑い声を上げた。それまでのかれからは想像できない突発的な奇声だった。しかし、
「……俺が殺した?」
ひとしきり笑い終えると、火が消えたように冷たい表情に切り変わっていた。
「ありえない。そんなわけないだろ。俺の大切な知景ちゃんを、俺が殺すなんて」
不可解な台詞とともに、明確な敵意を宿した目でこちらをにらみ返してくる前野一春は、最初の穏やかな印象とはまるで別人だった。
「盗聴だなんてひと聞きが悪い。俺はずっとあの子を見守ってたんだよ。殺すなんて、見当違いもはなはだしすぎて……」
うっかり口が滑ったわけではなさそうだった。
すべてわかったうえで、一春は盗聴の事実を認めていた。
もっと手こずるかと思ったが、案外あっさりとした自白だった。
「そうか。悪いな、見当違いだったようだ」
もちろんまだかれの疑いが晴れたわけではない。ただ、いまのところ舘座鬼家に協力側の一春には、知景を殺す動機が見当たらないだけだ。この会話のなかで、なにか手がかりが見つかることを祈っていた。
「知景を殺した人間についてはおいおい考える」
「知景ちゃんは鬼妃の怨霊に祟り殺されたんだよ」
「違うな」力を込めて否定した。知景が祟りで死んだのではないという論には、安は確信に近いものを持っていた。
「知景は崖から転落して死んだと聞いた。つまり知景が死んだのは外出の許されている昼。鬼妃が祟るのは夜だ。それに夜になれば、知景は部屋にいなければいけないはずだ。すべての辻褄が合わない」
沈黙を論破と受け取り、安が続けざまに追及しようとしたときだ。
「あぁあ……。いやぁしかし、まさかあのときの泥棒客が生きてたとは」
さも困り果てたというふうに、一春が大げさに長いため息をついて宙を仰いだ。その発言は、一春が時子に協力して安を襲ったことを証拠付けるものだった。
「俺を襲ったのは、やっぱりアンタか。覚えてるんだな」
「最初から気づいてたよ、忘れるわけがない」
前野一春は、完全に開き直っているようだった。というより最初から、安の姿を見て声を聞いた瞬間から、しらを切るつもりはなかったのかもしれない。いまはあえて、安にすべてを語ろうと考えているようにもみえた。
案の定、かれはやや間を置いてから、声音をもとの落ち着いたものに戻して話し出した。
「俺には知景ちゃんを守る役目があった。特別な、俺だけの大切な役割だ」
「守る役……監視役だな」
「監視。あなたはそう呼ぶのか。まあ理解できないだろうけどな」
ふっと小さく笑みを漏らして、一春はぽつりぽつりと声を落とす。
「俺は、小さいときから人知れず、ずっとずっと知景ちゃんを守ってた。女神のような存在だった。大切だった。ほんとうに、大好きで……あの子の望むものを、無償で与えたくて。そういうふうにできてる。俺の愛は。知景ちゃんのためにあるんだ」
「知らん。黙れ。アンタのエゴは虫唾が走る」
「どの口が言う」
一春が憎々しげに吐き捨てた。
「貴様こそその汚い欲望で……知景ちゃんをどれほど傷つけたのか……あの三日間、あの部屋で貴様が知景ちゃんにしたことを、俺は知っているよ。全部聞いていたからね。いまでも、吐きそうだ」
「吐きそうなのはこっちだよ」
この期に及んで……ではあるが、安は知景が自分の前でさらけ出したことは秘匿としておきかった。甘いささやきも、盗聴器が拾わない重ねた肌の温もりまでもが、冒涜された気がして、安は呻いた。本気で吐き気を催した。
「盗聴器は……人形か」
唯一思い当たるのが、室内で異彩を放ち目立っていた桐箪笥のうえの日本人形だ。あそこからならつねに安定した音量で部屋全体の音声を拾える。
完全に推論だが、どうやらそれは正解のようだった。
「時子さんにそこまでしろと言われたわけじゃない。知景ちゃんの十五歳の誕生日に人形を贈ったのも、そこに盗聴器を仕込んだのも、俺が勝手にやったことだ。でもそれ以来、あの子の生活の一部に溶け込んで耳をすませて、俺はあの子の動きや声や、心の変化まで、だんだん手に取るようにわかるようになった。それで時子さんの信頼も得た。あのひとは俺と知景ちゃんが、他人にはわからない深いところでつながっていると言ってくれた。実際そうだ」
陶酔したように語る一春を、今度は安があざ笑った。
「変態じゃねーか」
「あの子はたまに、壁の向こうと会話していたよ。優しい声で語りかけて、慰めて、そうやって夜ごと、供養をおこなっていたんだ。ずっと俺たちを、守ってくれていたんだよ」
熱っぽく潤ませた瞳に、一春は知景の面影を映しているのだろうか。前に手を伸ばすような仕草をする。その手は、空を掴んだ。
「俺だけが知景ちゃんのかなしみをわかってあげられた。俺だけが寄り添えた。なのに。貴様はあの日……無理矢理あの子を虐げて、自分のものにしようとした。俺たちから奪おうとした」
空を掴んだ拳にぎゅっと力が込められる。身体が自由に動いたならば、そのまま殴りかかっていただろう。
*
「……どういうこと?」
限界だった。
高西の制止を振り切り、亜瑚は病室内に足を踏み入れていた。睡眠不足と精神的な疲労からずっと酩酊していた頭が、何発も殴られたあとのようにじんじんと痛む。
「亜瑚……?」
一春は目を見張る。
久しぶりの兄妹の再会だった。だが亜瑚には一春の意識が戻ったことを喜ぶ暇はまったく与えられず、衝撃の事実だけが幾重にも胸に突き刺さっていた。
亜瑚の腰元に、それまで病室の隅に息を殺していた星麗南が飛びついた。砂本も一春も、星麗南の存在をしばらく忘れていたようで、わずかに目を向けて反応したが、亜瑚は関心を向けなかった。ただ目の前の兄だけを、うつろな表情で見据えていた。
「一兄、……なに言ってるの?」
自分の知らないところで、兄はずっと知景に想いを寄せていた?
それだけでなく。
兄は盗聴を認めた。
信じられないことだった。
一春は、すべてをあきらめたかのように微笑んだ。そしていつもの優しい、聞き馴染んだ兄の声で言った。
「ごめんな、亜瑚。俺は知景ちゃんを、『鬼』から守りきれなかったんや。失格。失格や」
ごまかさないでよ、という声は、声になったかどうか自分でもわからない。
混乱しながら、すがりついてくる星麗南をようやく抱き寄せる。父の錯乱も、突然の来訪者の威圧も、さぞ怖かったろう。背中が震えていた。
「亜瑚、落ち着いて聞いてくれ。知景ちゃんはあの部屋で、ずっと鬼妃の怨霊を供養しとったんや」
「……え?」
兄の口からはじめて鬼妃の名がこぼれ落ちたことに、亜瑚は気づいて顔を上げたが、もはやそんなことには触れる余裕もなく、一春による激白がはじまった。
「俺はずっと、知景ちゃんのことが好きだった。知景ちゃんだって、俺のことを慕ってくれていたはずだ。どうしても許婚に、認めてほしかった。まだ知景ちゃんはその年齢に達してなかったけど、かならず待つからと……家族の前で、気持ちを伝えた。そしたら時子さんに言われた。知景ちゃんのことをほんとうに愛しているなら、生涯その身を捧げる覚悟があるのなら、秘密を教えると。それであの子の運命を知った。知景ちゃんが、生まれながらにして鬼の嫁であることを」
一春の知景への想いは、これまで秘めてきたぶん栓を抜いたように一気にほとばしる。狂気と熱を孕んだその口調に、亜瑚はしだいに気圧されていた。ただその内容はあまりにも自分の想像と理解を超えていて、すでに頭の中は疑問と困惑で溢れ返っている。
一春の述懐は止まらない。
「俺だって最初はどうにかしたいと思ってた。でもあかんかった。鬼妃になるのは舘座鬼家の未婚の女性と決まってる。俺は代わりになれなかった。できるなら……妹を代わりにしたいぐらいだった。でも知景ちゃんには、舘座鬼家のなかでも特に強い念の力があった。怨霊供養は知景ちゃんにしかできない。知景ちゃんさえいれば、あと何十年かは村は安泰や。彼女を守る役目こそが天命だと受け入れた。あとは時子さんに、全部従った。よその女と結婚したのも時子さんの希望や。でもほかの女と結ばれたぐらいで俺の想いは変わらん。俺は生き続けるかぎり、この心を知景ちゃんのために捧ぐと決めてた。あの子が村ですこしでも末永く幸せに暮らせるように。外の人に見られたときは、後処理もした。……貴様は、さすがにイレギュラーだったけどな」
あとのほうは砂本に向けて放たれた言葉だった。
そこでようやく、一春はひとつ息をついた。それから声音を暗くした。ひとりごとのように、つぶやいた。
「でも、……なにもかも失敗や。四十九日を迎えると知景ちゃんの魂は向こう側へ行ってしまう。それまでに、新しい鬼妃を決めなきゃいけない」
「だから、ねえ、どういうこと?」
亜瑚はやっとのことで声を上げた。問いかけのようなニュアンスになったが、とはいえ一春はもう、すべてを語ったようだった。これ以上なにを説明してもらえばいいのかわからないし、説明されたところで納得できるとも思えない。とにかく自分の声にはいままで兄に向けたことのない憤りが滲んでいた。
「意味わかんないよ、一兄は、ちぃちゃんのことずっと盗み聞きしてたの?」
「亜瑚、それはあの子を守るために」
「好きならなにしてもいいの? プライバシーは……無視?」
一春が沈黙する。
知景のことを、まるで人間でないかのように――愛玩動物のように物語るこの男は、自分の知る一兄ではなくなっていた。
「いや、意味わかんないよ。一兄おかしいよ」
手の中のお守りが、ずっと握っていたせいでだいぶ汗を吸っていた。とても熱く感じる。
「あなたは、ちぃちゃんにいったいなにをしたの……?」
亜瑚はそこではじめて砂本のほうに目を向ける。問いただす声は怒りに震えた。一春の話からおおむね想像がついていたが、おぞましくて、認めたくなかった。知景の受けた屈辱を想像して、頭の中は砂本に対する憎しみで染まっていく。
高圧的な砂本の眼光がたじろぐように揺らいだ気がしたが、弁明はない。
「信じられない。ちぃちゃんのこと、みんなしてそんな、どうして……」
急激に胸が苦しくなり、亜瑚はへなへなと、その場に崩れ落ちた。
「ちぃちゃんがかわいそうだよぉ……」
涙で視界が埋めつくされていく。頬をこぼれ落ちるのを拭うことなく亜瑚は嗚咽した。知景はずっと、人権を踏みにじられるような非道な仕打ちを受けていた。それを知らずにのうのうと暮らしていた自分も呪わしい。
知景は、ただの、普通の、女の子なのに。
傍らで一緒に床に膝をつく星麗南を、どうしようもなくなって抱きしめた。知景のことも、できるならこうしてあげたい。もう叶わないけれど。
「落ち着け。祟りを鎮めるには……」
「一兄のやったことも許せないけど。でもあなたのことはもっと許せない」
砂本が近づき、威圧的な声が上から降ってくる。亜瑚は怨嗟を込めて見返した。
「いまはそんなこと言ってる場合じゃねぇ。おまえの兄は全部知ってて知景の軟禁に加担してたんだぞ。こんなの犯罪――」
「黙れ!」
怒号が響き渡る。
一春がベッドから弾かれたように立ち上がり、安に後ろから飛びついていた。十センチは身長差があるが、思いがけず俊敏な動きで、安は不意を突かれて引き倒された。
まるで憎悪に突き動かされているかのようだった。目を血走らせた一春は馬乗りになって、ぎりぎりと首を締め上げてくる。
「おまえ……!」
腕の力は、身体中に刺し傷のある患者だとは到底思えないほど強い。激情に駆り立てられて、本来以上の腕力が湧き溢れているのかもしれない。
「ほんとうは殺すつもりだった。あのときちゃんと殺せなかった……鬼妃が、俺の手を折ったから」
高西が異常を察して室内へ飛び込んでくるとすぐさまナースコールのボタンを押し、砂本を組み敷いている一春を、引き剥がそうとした。
突然乱入してきた高西のことは、まったく見えないかのようにかまわず、一春はなおも安を締め続ける。
「落ち着いてください。亜瑚ちゃんお兄さん離すの手伝って」
高西がするどく呼びかけるも、亜瑚は動けなかった。星麗南を抱きしめて、激しく首を振った。
そのとき。
「あ、熱っ」
亜瑚がそれまで握りしめていた拳を、ぱっと開いた。
ぽとり、と緑色の御守り袋が床に落ちる。
一瞬にして、オレンジ色の炎がぱっと上がって、袋を包み込んだ。
燃え上がる御守りに意識を取られていたが、一春の悶え苦しむ声が聞こえてきたのは、それと同時だった。
「ぁあ……ぎ、鬼妃……ど、うして……」
がたん、と音がして、安の身体から重みが離れた。安が身を起こすと、すでに一春は病室の奥、窓際まで後ずさりしていた。
いや、実際には吹き飛ばされていた。
窓に背を叩きつけられ、腰が抜けたのかずるずると崩れ落ちていく身体。
追い詰められたように虚空を見据えたその目には、恐怖の色がはっきりと刻印されている。
「知景ちゃ……俺は、きみを……」
許しを乞うように差し出された一春の両腕、赤が点々と浮いた。かと思いきや、ぶちぶちと皮膚が破けて、根元からねじ切られる。鮮血が白い壁を赤く染め上げる。
切断された両腕はくるりと宙を泳ぎ、恐怖に顔を歪める一春の、その自分のものである喉をがっと圧縮した。ごきりと奥のほうで骨が砕ける音がして首が潰れ、がくんと上を向いた口から粘ついた血液が溢れたのを最後に、瞳は色を失い、かれは絶命した。
亜瑚の絶叫が響き渡る。
一瞬にして地獄絵図と変わり果てた壁際を、安は愕然と見つめていたが、目の端に異形の影をとらえて、扉のほうへと首を振り向けた。
だらりと両腕を垂らした細い身体の上に、いびつに潰れた形の小さな頭が、すこし傾いて乗っている。長い黒髪が、紫に変色した顔のほとんど覆い隠していた。
あきらかに生きた人間の姿ではないそれは、病室の壁より白く、浮き出たように、音も立てずその場にたたずんでいた。
「知景……」
からからに乾いた喉を動かして、安は、そっとその名を呼ぶ。
落窪んだ眼窩の奥に、一しずく光るものを見た気がした。
「全部、おまえがやったんだな」
悲鳴を聞きつけ走って現れた看護師の、耳をつんざく悲鳴と入れ替わるように、その姿は白い壁の向こうへと消えた。
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