2-9 伝えたいこと
「もしもし亜瑚ちゃん? ああ、僕やで、高西。いま電話して大丈夫?」
鼻につく慇懃無礼な話し方で、すぐに顔を思い出した。かれのほうから連絡をよこしてくるとは予想外だった。もっとも、こちらから連絡する予定もなかったのだが。
「いいですけど。なんですか?」
つっけんどんに聞き返す。
「進捗どうかなって」
「なんのですか」
「ほら、あれから鬼妃、どうなった?」
高西の口から軽く発せられた忌むべき名前に、亜瑚は一瞬息を詰まらせた。
「なにも……ないですよ、特には」
「あらそう」
「祟りがおさまったかどうかはわからないですけど」
ふぅんという高西の返事は関心があるのかないのかはっきりしない。ないなら関わらないでほしいし、あるならすこしでいいからこちらを労る気持ちを持ってほしかった。亜瑚はやや投げやりな気持ちになった。
「でもなんか、このままなんにも、ないならないで、これで終わりにしてもいい気がします」
「あかんわ」
「えっ」
相手の声色が一瞬にして真剣味を帯びて、思わずうろたえた声が出た。
「亜瑚ちゃんがよくてもうちらはあかんねん」
「どうしてですか……?」
自分の声が、急にしおらしくなる。高西の真摯な発言を、自分の身を案じてくれたことによるものではないかと期待してしまったのだ。このままでは他人とまともに関わることもできない。一生外に出られない。本音では終わりにして良いはずがないと思っている。高西はそれを汲んでくれたのかと。
しかしそうではなかった。高西の答えは、亜瑚をさらに失望させるものだった。
「ま、いうたら興味の問題やね」
かれの口調はまた軽妙なもの戻っている。
「興味?」
「砂本さんはキミとこの村、いい研究対象やと思ってはるみたいやよ。一度行ったことある集落やから道わかるし、また赴いてみるのもありかないうて」
「ふざけないでください」
砂本の名前が着火剤のように亜瑚の怒りに火をつけた。しかも
「そこでやねんけど」
こちらの憤慨には気を留める様子もなく、高西は続けて聞いてくる。
「亜瑚ちゃんさぁ、砂本さんと舘座鬼知景さんの会った記録を持ってるんやんね? それ、だれからもろうたん?」
「え、……わ、たし、そんなこと言いました……?」
どきりとして、憤怒の炎がしゅんと小さくなる。
「言うてたらしいで」
無意識だった。でも言ったかもしれない。あのときはどうにか砂本にしゃべらせたくて、こちらの持つ情報は、できるだけぶつけた気がする。
「もしかしてまだ持ってはったりする?」
「あ、はい……兄のLINEで」
「ああ、そうなん」
声が遠くなり、電話の向こうの空気が動くのを感じた。妙な間があった。
「お兄さんから送られてきたん?」
「あ、はい、でも」
誤解を生みそうになっていることに気づいて、亜瑚はあわてて説明を加えた。
「兄はそのとき意識不明の重体だったので、これはその、兄から送られてきたというかなんというか、おかしな現象、なんだと思います」
「おかしな現象」
高西がたしかめるように繰り返す。亜瑚はすこしためらったが、思い切って口にした。
「ちぃちゃんが私に、くれたんだと思います」
おそらくそれだけでは要領を得ないだろうが、そういう説明しか亜瑚には思いつかなかった。
やがて電話の向こうから、くぐもった高西の声が聞こえてきた。
「……そうかもしれへんね」
*
前野亜瑚の兄が入院しているという、市立病院の駐車場が見えてきた。
「ここですねぇ」
運転している高西の声がした。
「あ、ほら、亜瑚ちゃんもういてますよ」
前野亜瑚と、病院のエントランスで待ち合わせていた。
以前会ったときよりずいぶんやつれたように見える。ハワイの夕焼けみたいな柄がプリントされた白いTシャツに濃紺のスキニーデニム姿で、髪には寝癖がついたままだ。
亜瑚は安と高西に気づくと、おどおどと首をすくめて頭を下げた。大学まで訪ねて来たときの毅然とした瞳の光は失われていた。見るからに怨霊に対抗するすべはまだ見つかっていないと思われた。おそらくだれにも会わないように、大半は家で引きこもって過ごしていたのだろう。
「大丈夫? ちゃんと食べてはるん? 学校は? 行ってないの?」
車を止めた高西は駆け寄って、近所のおばちゃんかのごとく口やかましく問いかける。亜瑚は気が抜けたように「はぁ」とか「まぁ」とか曖昧にうなずくばかりだ。
「病室はどこだ」
にべもなく、安は聞いた。
「そうやって急かさんと」とあきれる高西を押し退けるようにして、病棟へ急ぐ。一春の入院している病室は八階らしい。亜瑚の踏み出す一歩一歩は頼りなくおぼつかないので、見ているこっちはいらいらさせられる。
エレベーターで八階へたどり着き、ナースステーションで面会の旨を伝えると、亜瑚はさらに周りをきょろきょろと気にしはじめた。
「私はここで待ってます」
ふらつき気味だった足が不意にぴたりと止まった。目指す812号室は目前である。
「ええ、なんで」
高西が疑問の声を上げるのに対し、
「だって、私が近づいたら、また……」
「勝手にしろ」
振り返って、暗い目で訴えくる亜瑚を、安は押しのけるようにして先へ進んだ。別に彼女がいようがいまいが、自分の聞きたいことは変わらない。
812号室の扉をノックする。
「はい」
男性の声が向こうから聞こえた。
病室は四人部屋だが、ちょうどほかに患者はいないようだった。高西は外で待機させ、安だけが入室した。
各ベッドを仕切るカーテンを全開にすると、患者の姿があらわになった。
「……どちらさまですか」
歳は自分とさほど変わらないだろう、堅実そうな男が、怪訝な目でこちらを見上げていた。一週間ほど意識不明の重体だったにしては、髭も剃られてこざっぱりとしており、わりに元気そうだ。
上体を支えるようにしてベッドがすこし起きあがった状態に傾けられているが、そこにもたれかかった身体は自由には動かせないのだろう。男は目だけをこちらに向かせていた。
ベッド脇を一瞥すると、スツールにおとなしそうな幼い少女がちょこんと座っていた。おそらく、前野一春の娘だろう。突然の来訪者に、スマホをいじる手を止めて、声もなくおどろいた様子だ。黒目がちな瞳をまんまるに見開いたさまは、どことなく知景の面影に重なった。
「前野一春だな」
安は目の前の男を、不躾ににらんだ。
「はい。そうですけど。失礼ですが、どちらさ――」
「紀日村のことについて聞きたい」
「はあ」
一春はこちらに目を向けたまま、じりじりとベッドの外へ手を伸ばした。傍らの娘の手を握ると、できるだけ自分のほうへと引き寄せる。最大級の警戒を持たれたのがわかったが、態度を改めるつもりはなかった。
「鬼妃の話だ」
なおも容赦ない安の畳みかけに、前野一春ははっきりと顔をこわばらせた。
*
先日研究室から、高西が前野亜瑚に電話をかけたとき、高西は亜瑚との通話をスピーカーにしてこちらに聞こえるように流した。
そうとは知らずに高西と会話をする亜瑚の声を聞きながら、安は盗聴する側の心理を考えていた。盗聴される側にくらべたらそうでもないかもしれないが、気分の良い行為ではない。後ろめたい気持ちは湧いた。でもまあしかたがない。
四年前の、あの紀日村での出来事を、安はなるべく記憶から消そうとしていた。
忌まわしかったし、それよりも、舘座鬼知景の存在ごと夢であったのだと思い込もうとしていた。
だから考えようともしなかったのだ。
自分が知景の部屋に侵入したあとのやり取りを、時子がすべて把握していたという可能性を。
なぜ三日間も知らないふりをして監視していたのかはわからない。だが娘が犯され、物理的にも奪われようとした三日目に、とうとう始末をつけに動いた。
さながらそれは、鬼退治のような構図である。
鬼退治には、単独で臨むのは得策ではない。
あのとき時子には、協力者がいた。
そうするとまず疑わしきは同居している家族。時子の夫、舘座鬼俊徳だ。家系図を閲覧した際に聞いたところによると、婿養子で、村の出身だが舘座鬼の血筋ではないらしい。かれは宿泊客の前に立つことはほとんどなく、主に経営事務的な仕事を担っていることが推察された。安は二度ほど食堂であいさつを交わしたことがあった。
ただし俊徳は、男性にしてはだいぶ小柄で、ひ弱そうな印象を受けた。
暗闇での不意打ちとはいえ、安を後ろから引き倒すのは無理があるように思う。
俊徳ではないとしたら、あるいは宿の従業員という線もある。
民宿に、住み込みで働いている人間はいなかった。だがその日だけ、鬼退治のために暗闇に潜んでいたという可能性はおおいにある。
もしくは、時子が村民のだれかに安の殺害を依頼したか。
四百年ものあいだ、村ぐるみで口裏を合わせてきたのだ。それぐらいの絆はできていてもおかしくない。特に舘座鬼家の血筋の者にしてみれば、知景がいなくなれば怨霊が解き放たれて、祟りを受けることになるかもしれない。文字通り死活問題なのだ。
村民は何百人といる。舘座鬼家の血筋に限定したとしても、遠い親戚も含めたらそのなかで容疑者を絞り込むのは難しい。
もし手がかりがこれだけなら、永遠に無理だった。
しかし前野亜瑚の発言によって、もうひとつの仮説が浮上した。
安を襲った協力者=監視者なのではないだろうか。
監視。要するに盗撮や盗聴。当時はそこまで思い当たらなかったが、時子の狂気を思い返せば突飛な考えでもない。
亜瑚に盗聴データを送った人物、それが監視者。
「お兄さんから送られてきたん?」
高西がこちらに目線を送りながら、次々に亜瑚に問いを投げていく。亜瑚の返答はおおむね覇気がなかった。
「あ、はい、でも、兄はそのとき意識不明の重体だったので、これはその、兄から送られてきたというかなんというか、おかしな現象、なんだと思います」
「おかしな現象」
高西がたしかめるように繰り返す。
やや間があって、亜瑚のためらうような台詞が聞こえてきた。
「ちぃちゃんが私に、くれたんだと思います」
前野亜瑚からというよりも、その兄から話を聞いたほうが手っ取り早いかもしれない。
「……そうかもしれへんね」
そう言って高西はこちらに糸目を向けた。口元は笑っていなかった。安はうなずいて、高西に亜瑚の兄との面会の約束を取り付けるよううながした。
「亜瑚ちゃん、お兄さん意識不明言うてたやんね? ……いまはどうしてはる?」
そしていま、亜瑚の兄、前野一春が目の前にいる。
*
「前野亜瑚のLINEに盗聴の音声を送っただろ」
聞こえてきた会話に、亜瑚は思わず声を上げそうになった。
すぐにでも兄の前に出て砂本を問いただしたかった。
しかし高西がとなりで亜瑚の腕を引いてそれを制した。
「話させたって」
見えてるのか心配になるほどの糸目が、すこし見開く。蛇に睨まれたかのごとく、亜瑚は身を固くしながらも、
「あなたたちには人の心がないんですか」
声を震わせた。
「兄はあんな怖い思いをして目覚めたばっかりなんですよ。私たちが得体の知れない霊にどれほど脅かされたのか、あなたにわかります!? まあわかんないでしょうけど。
それにしたって盗聴なんて、意味わかんないです。どうして信じてくれないの? あれは……あの音声を送ったのは知景なんです。怪奇現象なんですよ!」
亜瑚の手の中には、緑色の御守り袋が握られていた。高西からもらったものだ。たしかに、なにもないよりましだったかもしれない。でもいまはそれを、憎しみを込めて握り潰そうとしている。
――お願い一兄、怒っていいから。いつもの優しくて、冷静な一兄じゃなくていいから。ちぃちゃんの分まで怒って。
そいつを言葉で説き伏せて。
亜瑚は御守り袋を破裂せんとばかりに握りしめて、願った。
しかし。
「はは、はははは、ははははははは……」
聞こえてきたのは、ぞっとするような笑い声だった。しだいにそれは高笑いと呼ぶに近い響きに変わる。
亜瑚も、そして高西も、同時にびくりと顔を上げていた。
「――俺が殺した?」
聞き返す声は、亜瑚がこれまでに聞いたことのない、身体の芯まで凍え切るほどに冷静なものだった。それが一春の声だと気づくまでに少々時間がかかったほどだ。
なんの話をしているのか、高西を責めているあいだにわからなくなってしまっていた。
「ありえない。そんなわけないだろ。俺の大切な知景ちゃんを、俺が殺すなんて」
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