2-5 星の瞳
幼いころ、ほんの短い期間、母とその交際相手と三人で住んでいたことを覚えている。
交際相手の男は子どもが嫌いだった。結局、安の存在が諍いの原因となって、母は男と別れることになった。
「あんたさえいなければ」というのが、働き詰めの母の口癖だった。
中学の頃、幸い同年代の少年たちにくらべて体格に恵まれていた安は、年齢を偽ってバイトをはじめた。学校には行きたかったから、主として夜間に働いた。
できることはすくなかったが、わずかでも生活費の足しになればと。
だがそれで母親を支えることはできなかった。
中学二年の年の瀬。雪の舞う寒い日に母親は死んだ。過労もあるが、ストレスが積もりに積もった末のことだった。
記憶の片隅に残る今際の際の母の顔は、外の粉雪と同じぐらい真っ白……ではなく、曇り空と同じぐらい灰色で、三十代半ばにして老婆のように皺だらけだった。瞳は真冬の学校のプールみたいな汚く澱んだ色をして、最後まで安に微笑みかけることはなかった。
働いていたバーの常連客で、その頃はまだ准教授だった。影のある聡明な少年という印象の安は、澪の「お気に入り」だった。
進学しないつもりだったが、甲斐中准教授は高等教育機関を卒業するまで面倒を見ると申し出てくれた。
親代わりと言えば聞こえはいいが、熱に浮かされた獣のような彼女の目を見れば、ほかに目的があるのは明白だった。母親より歳上の女に愛欲は持てなかったが、高等教育が受けられることはなににも変えがたい。自分を騙して澪を受け入れた。
結果、高校はもとより大学にまで行かせてもらえたのだから、天涯孤独の少年のたどる人生としては幸運な部類に入るのかもしれない。
ただ彼女に束縛され続けた青春時代に、暗澹とした虚無の穴が空いているのは否めないが。
四年前。
紀日村を訪れたきっかけは、当時教授になりたてだった甲斐中澪のミスだった。
岡山・倉敷で行われるゼミ生のフィールドワーク合宿と、紀日村取材日のダブルブッキングが発生し、取材の代行を依頼されたのが安だった。
「紀伊山地の霊場と
断らないことを見越している澪の、酒焼けした声にはいらついたが、ゼミ生のフィールドワーク合宿を受け持てと言われるよりはまだ良心的だ。
かくして安は夏季休暇真っ只中に紀日村を訪れることとなったのだ。
*
八月十一日。
澪が予約していた民宿は、何度も改修工事をおこなっているようだが、それでも築百年あまりの歴史を持つという古民家であった。
「こんな山奥までようこそお越しくださいました」
明るい柿色の着物を纏った女将の舘座鬼時子は、小柄な女性だった。歳は五十すぎぐらいだろうか。微笑むと目尻に刻まれる皺が上品な印象を際立たせる。
お部屋はこちらですと先立って歩きながら、時子は話しかけてきた。
「うちの家に伝わる鬼の話が聞きたいんですってね」
「はい」
「たいしたお話できませんから、いつもでしたらおことわりしているんですけれど、大学の先生とおっしゃってたから……てっきり女性の方やと思ってましたわ」
「……すいません」
「いいえ。まあ、あまり聞いておもしろいものでもございませんけど。物置にわずかながら資料も残っていますので、あとでご案内いたしますね。ほんのちょっとでもお仕事の足しになれば……」
「ご厚意感謝します。観光も兼ねているので、明日は参詣道のほうまで行ってみようと思ってます」
「そうね、明日は天気も良さそうやし、良いと思いますわ。お若い男の人は足腰も丈夫で良いですねぇ」
時子が口元を隠してふふふと笑う。なんとなく含みがあるように感じた。過剰に歳上の女の機嫌をうかがうのは安の癖でもある。時子はそんな安の視線に気づいたのか、
「ああ、お客さまにこんなこと言うてすみません。あまり気にせんとって」
と取り繕うように背筋をしゃんとした。
「私、息子がひとりおるんですけども、高校生になって、家を出てしまいましたので、ちょっと懐かしく思いましてね。村には中学までしかないさかい、若い子はほとんど村を出てしまいますの。しかもそれきり帰ってこない子がほとんどなんですよ」
「そうなんですか」
安が空返事をしたときだった。
左手に狭くて急な二階への階段があらわれて、時子がふいに足を止めて振り返った。
「すみませんね、お客さま、ひとつだけ注意してもらいたいことがありましてね」
営業用のしっとりとした微笑みは、崩れていないはずだった。しかしその声が、少し暗く、低くなったことに安は気づく。わずかな表情の変化から、真意を読み取ろうとする。
「お客さまの二階への立ち入りは禁止しておりますの。従業員の控えの間があるものですから」
「はぁ」
階段を見上げる。
二階は窓がないのか、段を経るごとに闇が深くなっていた。
あえて言われなければ見落としてしまうような狭い階段だ。知らなければわざわざ行こうとは思わなかっただろう。
「よろしくお願いしますね」
時子は目尻を細くした。
「わかりました」
安は軽くうなずいた。
そう。知らなければわざわざ行こうとは思わなかったはずなのだ。
だが入ってはならないと念を押されことが、時子の一瞬見せた瞳の翳りが頭に残り、無性に気になった。なにかに呼ばれるようにして、特に理由もないのに気づけば昼間立ち止まったのと同じ場所に立っていた。
民宿全体が寝静まった夜中、さりげなくためしに一段目に足をかけた。踏み込むと、ふるい床板はぎっと耳障りな音を立てる。
女将にばれるのはまずいが、道に迷ったとかなんとか適当に誤魔化せば、初犯なら言い訳が効くのではないかと思う。それにこちらは客なのだから、少しぐらいの粗相は大目に見てくれるだろう。
傲慢な自己解決の末、安はゆっくりと慎重に一段ずつ階段を上り始めた。
二階はほとんど真っ暗闇だった。窓がないようだ。明かりがなくてはこれ以上進めないが、スマホのライトでは眩しすぎるので画面をつけて足元を照らす。
階段が終わると、漆喰の壁に囲まれた、長く狭い廊下が現れた。
そのさきに一室分、二枚の襖があるのがうっすらとわかる。
奇妙な構造だ。廊下の長さに対し、不自然なほどに部屋が無い。従業員の控え室があると女将は言っていたが、こんなところが控え室では不便極まりないだろう。
そのときだった。
音もなく襖が動き、数センチの隙間が開いた。
不意打ちに、安は柄にもなくおどろき、息を呑んでしまった。
隙間から、星の瞬きが覗いていた。
一瞬、それは人間ではないなにか――狸あたりの小動物にみえたが。
足を止めて、その「なにか」とまんじりともせず見つめ合うこと数十秒。
戸がさらにすうっと開き、部屋の中から漏れる明かりにぼんやりと浮き上がった輪郭は、長い髪に白いワンピースを着た少女の形をしていた――と単純に形容すると幽霊でも見たかのように聞こえるが、実際に安が抱いた印象は「座敷わらし」のほうが近かった。
大きな瞳は極限まで見開かれていた。でもそこに恐怖の色はない。純粋なおどろきを湛えていた。
「ここにきてはダメよ」
少女はひそひそと、だがはっきりと口を動かした。
「……悪い」
安の思考は一気に現実に引き戻される。
後ずさりをすると、廊下の床はぎっと音を立てた。
「しーっ」
少女が口に指を立てる。と同時に、階下でがたんと扉を開ける音と足音がした。
女将のものかもしれない。
立ち入りを禁止されている二階に夜中に侵入し、見知らぬ少女と邂逅している。なんとも釈明しがたい状況だ。
重々しい足音が、ゆっくりと階下から迫る。
とはいえ逃げ道もなく、これはもう正直に鉢合わせるしかなさそうだ。覚悟を持って階下へ引き返そうとした。
次の瞬間、安は自分の腕が強く引っ張られるのを感じた。
一瞬の浮遊。
そして、
「入って」
少女の声が間近で聞こえ、安は自分がいつのまにか襖の向こう側に移動していることに気がついた。
――?
不可解な現象に唖然としていると、
「押し入れに、入って」
指示してくる少女はすぐそばに立っていた。片手で持ち上げてしまえそうなほど小さかった。
「なんで……」
「いいから」
小さな手に背中を押されてしかたなく、押し入れの下段にぎゅうぎゅうと身を押し込む。少女がすっと扉を閉めたので、押し入れ内は完全な闇に閉ざされた。
それと寸秒の差で、くぐもった女将の声がした。
「知景、いまなにか音がしたけれど」
少女の名前は「ちかげ」というらしい。
「大丈夫よお母さん。ちょっと勉強してたら寝落ちしちゃっただけ」
耳で聞く分には、それはなんの変哲もない仲の良い母と娘のやりとりに聞こえたが、安は違和感をおぼえた。
初対面のとき、女将の舘座鬼時子は自分に「息子がひとりいる」と話していた。まるで「娘はいない」ような言い方ではないか。考えすぎだろうか。でもどことなく引っかかった。
「そう。……気をつけなさいね」
「うん、おやすみなさい」
なにごともなかったかのように、会話は終わり、やがて時子の足音は遠ざかって消える。
押し入れの扉がすっと開いた。
「ごめんなさい、せまくて」
ぼんやりとしたオレンジ色の照明のなか、少女はかがんで微笑んでいた。背丈や体形はまるで子どもだが、振る舞いは老婆のように泰然としている。
なんにせよこの空間の主が彼女であることはまちがいがなさそうだった。
「もう出てきていいよ〜」
まるで「かくれんぼ」をしているかのように呼ばれ、安はのっそりと狭所から這い出す。
そこは十畳の和室だった。
一階で安が宿泊用にわりあてられた部屋と同じような間取りだ。
正面に大きめの窓があり、左にぽつんとテレビが置かれ、右壁に布団が敷いてある。枕元には桐の衣装ダンス。上に日本人形が鎮座している。中央には座卓。それだけだと民宿の一室のようにもみえるが、座卓の上にはノートや参考書、ノートパソコンも散乱しており生活感があった。
「困ったひと。普通のお客さんなら絶対入らないのに」
そう言って少女は、口の端にいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「悪かった」
部屋に入ろうとした覚えはないのだが。結果的にそうなっていた。すこし薄気味が悪い。
これ以上関わるつもりもないからいいのだが。
去ろうとして、
「あなたのお名前は?」
と呼び止められた。無視するわけにもいかず、短く答える。
「
「変わったお名前ね」
「安全の『
「どうして『いずく』なの?」
「漢文に「いづくんぞ」という反語をあらわす語があるだろ。「どうして〜だろうか。」って意味の。それと同じ漢字の読みだ。燕雀(えんじやく)安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」
「ああ、うん、なるほど?」
うなずく頭の上にわかりやすくはてなマークが浮いている。安の言ったことを一ミリも理解していないらしい。ぽかんと口を開けるさまはあどけない子どもに見えた。だがそれからすぐに彼女――知景は、表情を真面目に取り繕って言った。
「でも
言葉の途中で、急にふらりとよろめいて、床に崩れ落ちかける。安は咄嗟にその身を抱きとめていた。
「おい……」
ぐにゃりと弛緩した胴体は、安の片腕に体重をすべて乗せても、おどろくほど軽い。
「どうした?」
呼びかけても、応じない。
顔にかかった黒髪の隙間から、黒っぽい液体が一筋、畳に滴り落ちるのが見えてぎょっとした。鼻血が垂れていた。
布団に運び、ゆっくりとその身を横たえる。部屋の中でティッシュを見つけて、それで垂れた血を拭った。
部屋を照らすオレンジ色の明かりのもとに、知景と死に際の母親の顔がかさなって、頭がぼうっとなる。
こんなところにひとり隔離に似た扱い。病気かなにかだろうか。それにしたって時代錯誤的だ。
だが自分が口を出す必要ももちろんなかったし、なにより、ここに来たことは女将に知られてはならない。
もうじゅうぶんだった。
この部屋にこれ以上用はない。
このままそっと退出してしまおう。
だが立ち上がった安のあとを追うように、知景はゆっくりと上体を起こした。
「あなた、大学の先生なんでしょう? お母さんとお父さんが話してるの聞いたわ」
安は視線を逸らしつつ、否定はせずにおいた。実は教授の代理で、自分はまだ学生の分際だが、そのことは伏せておいても問題ないだろう。むしろ『先生』と思っておいてくれたほうが、都合が良いかもしれない。
「どうしてこの村へ来たの?」
首をかしげると長い髪がかけ布団の上でさらりと音をならす。無邪気な問いかけだが、わずかに圧を感じた。
「鬼の伝説の聞き取りをしている」
安は手短に早口で答えた。それほど詳しく掘り下げるつもりではないことを、さりげなく伝えたつもりだった。しかし、知景の食いつきは予想外だった。
「じゃあ、私が教えてあげましょうか、鬼のお話」
その申し出はありがたいものであるはずなのに、安は容易にうなずくことができなかった。
妖艶な笑みと、双眸に宿る、神秘的で不可侵な存在の気配にあてられて、身体が言うことを聞かなかったのだ。
ただやっかいなことに、それは拒否反応ではない。
「また明日晩ここへおいで、先生」
知景が笑むと、瞳に星の瞬きが散った。
妖しくも優しげな言葉は、かならずそうすることを安に約束させていた。
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