2-4 真実へのいざない
大学前のバス停までの道のりを、亜瑚は高西と歩いていた。
「このまま東京帰るん?」
「はい」
「遠いところからご苦労さまやね」
高西の口調は相変わらず薄っぺらくて、亜瑚は返事以外を口にする気にはなれなかった。とはいえこのあとひとりになるのは、すこし心細い。どうあがいても心休まるひとときは訪れないことが亜瑚の気持ちをさらにどんよりとさせた。星麗南の小さな手のぬくもりを思い出しては、心の隙間を乾いた風が通り抜ける。
「亜瑚ちゃんになんかが取り憑いてるかどうかは、僕にはわからへんけど」
ふいに、亜瑚の眼前に高西が指でつまんだ紐が垂らされた。金の刺繍糸で【厄除御守】の文字があしらわれた、緑色のお守り袋だった。
「これ、持っとき」
「……?」
「伏見稲荷のお守り。僕の父方の実家が京都市内で神社……というわけではあらへんねんけど」
なんだ違うのか。また騙されかけた。亜瑚は高西に向けてあきれた流し目を送りつつ、差し出されたお守りは素直に両手で受け取った。なんの変哲もない神社のお守りだが、藁にもすがりたい思いの自分には、それが必要な気がした。
「気休めでもないよりましやろ」
この顔にこの口調なのが信用しきれないが、案外悪い奴ではないのかもしれない。亜瑚はおずおずと口元に笑みを作った。
「……ありがとうございます」
ちょうどバスが停留所に停車しており、乗車する学生の列ができている。
「またなんかあったときはいつでも言うて。とりあえず連絡先教えてよ」
うまく誘導したとでも思っているのか、ほくそ笑んだ顔に、亜瑚はあきれた目のまま無言で高西のLINEを登録すると、列の流れに従ってバスに乗り込んだ。
車窓から、片手をジーンズのポケットに突っ込んだ高西が、最後までひらひらと手を振っているのがみえて、軽く会釈する。
できればもう会いたくはない。
自分の近くにいると危険だ。
*
明るく周りに人がいる新幹線の車内はいくらか落ち着けた。
亜瑚は砂本の語った内容を整理する。
亜瑚たちが聞かされていた鬼の言い伝えは、真実を覆い隠すための噂話だった。
村人たちが鬼だと思っていたもの。
祟りを起こしていたものは、『鬼妃』の怨霊だった。
舘座鬼家に『鬼妃』が取り憑いていたという、信じがたい事実。だがそれは亜瑚自身の実体験によって証明されていることでもあった。
それが解き放たれて、亜瑚に取り憑いている。
知景を殺したのも、愛美や麻友や一春を襲ったのも、すべて『鬼妃』のしわざだったのだ。
でもわかったのは結局それだけだ。
祟りを鎮めるやり方を、砂本は知らなかった。
スマホで【紀日村 鬼伝説】で検索すると、いくつかヒットするページがある。個人の旅ブログやグルメサイト、宿泊施設情報。ちらちらと鬼の言い伝えに触れるものの、亜瑚が知っている以上の深い話は書かれていない。
逆に紀日村の公式サイトには鬼のおの字もほぼ顔を出さず、唯一舘座鬼の民宿が紹介されているページの余白に、数行言い伝えのあらすじが記載されているだけだった。
この流れで『鬼妃』なんて言葉は、どう考えても登場する隙がない。
むかし紀日村に、災害を鎮めるために生贄となった村娘がいたなんて事実は、まったくいまに伝えられていなかった。
もうひとつ、腑に落ちないことがある。
亜瑚が時子と一春の会話の中に聞いた言葉だ。
「四十九日までには新しい鬼妃を立てる必要があるでしょう」
鬼妃は怨霊で、忌むべき存在のはず。なのに時子は、「新しい鬼妃」を望むかのような発言を残した。
そのわからない部分にひどく嫌な予感がして、亜瑚の気持ちは暗く沈んだ。
砂本には、あとは自力でなんとかしろと言われたが、自分ひとりの力ではどうにもできそうにない。
でも思い出すと胃が痛くなる。亜瑚は砂本のあの目つきが苦手だった。曲がった親指も、見ていると無性に気持ちが悪くなって、むかむかしてくる。他人をここまで忌み嫌った経験ははじめてだ。生理的な嫌悪感。憎悪。恐怖。本能が拒絶している。
そもそも、そんなかれの言うことの、すべてが真実かどうか。
信用できたわけではない。
助けて知景。
これから私、どうすればいいの?
心のなかで呼びかけるが、もちろん返事はない。
二日前のように、またLINEにメッセージ送られてこないかと密かに期待した。なにか次のヒントがほしかった。しかし画面を見ても新着はない。
だいぶ前に風花がメッセージをくれていたから、そろそろ返さなければ。いつまでも無言で大学を休んだままでは心配をかけるだけだ。でも絶対に、大学の友人を巻き込むわけにはいかない。すべてが終わるまでは、会うことも避けたほうが良い。
【ちょっと頭痛くてまだ実家にいる。明日も学校休む】
その数十文字を打って、やっと送信し終えると、電車はもうまもなく東京駅へ到着する頃だった。
*
前野亜瑚を見送りに出ていた高西が、研究室に戻ってくる気配がした。
「なんだ。そのまま家帰るんじゃねぇのか」
甲斐中教授に頼まれていた学生のレポートの添削の手を止め不機嫌な声を出す。
高西はそんな安の態度をまるで意に介さず、
「いやぁ先輩、今日はとっても愛想良くて協力的でしたねえ、えらいえらい」
キャスター付きのワークチェアに反対向きに跨ると、胡散臭い笑みを貼り付けたまま、不躾に安の顔を覗き込んでくる。
「それにしても砂本さん、あなた鬼妃に
「どうしてそう思う」
「怨霊なんて非学問的なもの、僕は信じてなくて。砂本さんも同じやと思ってたんですけど、さっきの話し方やと、鬼妃の怨霊の存在をまったく疑ってはらへんように聞こえました。意外ですよねぇ。舘座鬼家に鬼妃が取り憑いてるなんて、えらいはっきり言いますやん」
高西の指摘は直球だが、否定的というわけではない。かれなりに鬼妃という存在の信憑性を高めようとしているのだろう。
「会った……といえば会ったかもな」
左手で、右の親指にふれる。第一関節が人差し指側に四十五度ほど折れ曲がっている自分の指に、不自由はない。だがほつれた糸にかぎ針が引っかかるような鬱陶しさを、いまもたまに感じる。
「というのは? 砂本さん、いまなに考えてはります? これで終わりにするつもりないですよね?」
どうして見破られているのだろう。安がそれ以上答えずにいると、高西は急に話の矛先を変えてきた。
「先輩が女の子の名前を呼ぶの、初めて聞きました」
思わず荒んだ苦笑が漏れた。同時に、前野亜瑚には気安く知景の名を呼ぶなと怒鳴られたことを思い出す。
目を閉じる。
昨日まで記憶の奥底にしまい込んでいたあの星の瞳が、恐れを知らない無垢な瞬きが、いまははっきりと思い描ける。
舘座鬼知景が生きていようと死んでいようと、自分の人生にはなにひとつ関係がない。自分の世界はなにも変わらない。
それでも、知ってしまった以上は。
「単純に気になってるんだよ。舘座鬼知景が、なぜ死んだのか」
「亜瑚ちゃんは、自分が鬼の言い伝えを動画サイトで語ったせいで、舘座鬼さんが祟りの犠牲になったと信じてはるようでしたけど」
「こじつけだろう」
「ふーむ、そこは否定するんですねぇ」
『忌み話』を話したことが祟りを引き起こした――前野亜瑚は真説だと思い込んでいるようだったが、安は懐疑的な見方をしていた。
ひとつ、長い息をついてからゆっくりとまぶたを開く。そして、最初からずっと脳裏にちらついていた考えをはじめて言葉にする。
「俺は知景が殺されたと思ってんだよ。……だれか人間に」
「根拠は?」
「まだない」
「あらまぁ」
高西は飄々と返す。しかしその細いまぶたの切れ込みの奥は、笑っていなかった。
「疑わしいことならある。前野亜瑚の発言に……」
高西が聞いていてもいなくてもいい。自分の推測を整理しようと思って安は口を開いた。
「「うちの村の鬼の伝説について、知景に聞き取りをしてましたよね」……まるで俺たちの会話を聞いていたかのような口ぶりだ。知景が前野亜瑚に、俺との会話を話したのかもしれないが、そうだとしても違和感が拭えない。それだけじゃない」
こつん、とデスクを人差し指でたたく。
「知景と俺が会っていた記録を持っていると言っていた。なんだその記録。前野亜瑚はなにを知ってる?」
「ぇえっ!? じゃあ砂本さんは、亜瑚ちゃんのことを疑ってはるん?」
高西はがたんと椅子から仰け反り、わざとらしいおどろき方をしてみせた。
「いや」
くすりともせず、安は続けて述べる。
「俺たちの会話は盗聴されていて、だれかが前野亜瑚にそのデータを流したんだ」
「はぇーさっすが。冴えた被害妄想ですなぁ」
京都人ならすこしはオブラートに包んだらどうかと思うストレートな皮肉が返ってきた。
「でもそうなると亜瑚ちゃんには、まだ聞かなあかんことありますねぇ」
正直、会話を打ち切りたかったことは認めざるを得ない。
前野亜瑚のことは苦手だ。
いかにも日の光の下でまっとうに生きている者が纏う空気は、見ていて嫌悪を抱く。この手の人間は一定数いる。いずれもかれら自身に悪意があるわけではない。ただそういう人間の相手をするのは疲労がともなう。あまり関わりたくない。
それはそうとして、彼女はなにかしらの音声を入手したはずだ。
だれから?
思い当たる人物がひとりいる。
舘座鬼時子。
知景の母親にして、紀日村の民宿の女将。
安には時子なら盗聴ぐらいやりかねないと感じるある理由があった。
しかし亜瑚に知景の情報をながすことが、時子にとってなんの得になる?
仮にそこがわかったとしても、舘座鬼家の者には知景を殺す理由がない。
ことさら時子は、目に入れても痛くないほど知景を溺愛していたはずだ。
つながらない。
わからない。
どうしても前野亜瑚の証言が必要だ。
高西は意地汚く口元を緩めている。安が亜瑚を追い出したことを悔やんでいるのが、よほど愉快らしい。
「しかたないですねぇ。僕も一緒に考えてあげますよぉ」
この妖狐面男に言われると癪に触るが、協力を拒否する理由も見つからなかった。
「それにしても前々から調べてたんすねぇ、紀日村のこと。山岳地帯の林業を専門に研究されてるあなたが、この手の話にここまで詳しいはずがないですもん」
なにかにつけてねちねちと突っ込んでくる高西は鬱陶しかった。安はもうしばらく押し黙ることにした。
祟り云々は正直、どうでもいい。
ただ、舘座鬼知景の面影が脳裏に鮮明によみがえるにつれて、彼女の死の真相を知りたいという自分自身の渇望を、無視できなくなっているのはたしかだ。
手がかりを求めて、安の思考は記憶の奥へと深く潜っていく。
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