2-6 鬼さんこちら
八月十二日 深夜
同じ時間に階段を上がった。
人ひとりが通れるだけの狭い廊下と襖扉。その向こう側を知っている安は、昨日のようにためらうことはなかったが、やはりこの二階の構造は奇異に感じた。
また日中、外側から建物を見たとき、知景の部屋がある方角とは別の箇所に窓があったのが確認できた。鉄格子のはまった明かり取り用の小さな窓だった。それもおかしな話である。
いずれにしろ従業員用の部屋はないと思われるが、なぜ舘座鬼時子はそんな嘘をついたのだろうか。
今日の夕時、特別に通してもらった物置部屋にて、舘座鬼家の家系図を見せてもらっていたときのことだ。
舘座鬼時子と夫の俊徳の夫婦関係をあらわす二重線。そこから縦に引かれた系図の末端には、「脩」という息子の名前しか記されていなかったのだ。
安は思わずその一点を凝視していた。
「なにかお気づきのことございました?」
と時子が尋ねてきたので、あわてて取り繕ったが。
「知景」という娘は存在しない。
表向きには、そういうことになっているらしい。
大切な愛娘が無用に宿泊客と顔を合わせるのを防ぐためか。だとしても不自然だ。過保護な母親の域を超えている。
「まあ面白いものではございませんよね」
とそそくさと巻物を片付ける時子の後ろ姿に――というよりも「舘座鬼知景」という存在に、安はこっそりと疑惑の眼差しを向けていた。
知景の部屋のほど近くまで来たとき、壁の奥で、なにかが動いた気配を感じた。立ち止まり、耳をそばだてる。
ずず……
と畳の上を足が擦る音だった。
知景の足音かもしれないが、それにしては近い。
息を殺してしばらく様子を見る。ぴんと空気が張り詰めて、仄暗い静寂の向こうから、地鳴りのような音がかすかにした。
ぉ……ぉお……おぉぉ……
男女の区別はつかないが、それは人の唸り声のようにも聞こえた。
――壁のなかから聞こえている?
不気味な思いつきを、まさかそんなわけと鼻で笑う。
ただ現実問題、表向き入口が見えないだけで知景の部屋のほかにも部屋があり、そこを別の人間が使用しているという可能性は、考慮しておいたほうが良いかもしれない。
こちらに介入してこないことを祈りつつ、止めていた息を吐き出した瞬間、目の前の襖がすっと開いた。
ぴくり、と肩が震えた。
「いらっしゃい。きっと来てくれると思ってた」
幼い子どものように無邪気な笑顔で、知景は安を迎え入れた。
*
「お母さん以外のだれかが部屋にくるのは久しぶり。ゲームする? バイオの新作、やったことある?」
「悪いが無駄話に付き合っている暇はない。女将さんにもバレたらまずい」
「はぁい」
安のつれない答えに、知景はつまらなさそうに口を尖らせたが、すぐに気を取り直して尋ねてきた。
「どうしてあなたは、鬼の伝説のことを聞きたいの?」
「なんでもいいだろう。研究だからだよ」
こころなしか自分の声が緊張しているように聞こえる。
「ふぅん……」
首をかしげる知景の足元を見ると、ショルダーバッグと外出時に着ていたであろう衣服が散乱していた。
「外に出ていたのか」
どうやら完全に幽閉されているわけではないらしい。すこしほっとしたが、声の緊張はまだ解けない。
「今日は亜瑚に会ってたの」
知景は座卓に手をついて、ゆっくりと膝を折り曲げた。その動作は、老女のように緩慢だった。
「アコ?」
「ええ。数少ない同い年の、私の自慢の幼なじみ。下宿して、村の外の高校に行ってるんだけどねナレーターになりたいって夢があるの。それでね、いまは朗読をやってるんだって」
卓上のノートパソコンの画面を安に向けてきた。【A子の怪談朗読】という動画サイト内のチャンネルのページが表示されている。
知景がそのうちの最新の投稿である動画を再生する。
怪談を語るのにふさわしい、落ち着いた声が流れてきた。
「知景が好きそうな話を聞かせてあげたいからって、怖がりなのに怪談を朗読してるのよ。だから怪談朗読は、知景のためなの」
無邪気な笑顔で友達の話をするときの知景は、あどけない少女にみえた。だが安はつねに、警戒心を持って知景の挙動を観察していた。隔離され、存在を隠されていることには、なにかしら理由があるはずだ。それがなにか見当がつかないから不安なのだ。
だが時間もないので、そろそろこちらから切り出さなければいけない。
「それで、鬼の話だが」
「ああ、うん、そうね。先生にはきちんとお話しします」
知景は、一度気を落ち着かせるように息を吐き出してから顔を上げる。そして問う。
「先生は『鬼』とはなんだと思います?」
唇に微笑みを灯した品の良い聞き方だった。調子やイントネーションが時子に似ていると感じた。
真正面から見据えられて、安は思わず唾を飲む。
もちろん答えられないわけではない。
ただ、知景の瞳に宿る、ごまかしを許さない力にひるんだのだ。
しばらく間を置いてから、口を開く。
「古来……日本において、『おに』の語源は『おぬ』、つまり「隠されたもの」や「いないもの」という意味の言葉だ。やがてそれが転じて、人ならざぬものや姿の見えない脅威のことを示すようになる。さらに中国では『
つまり『恐れ』という概念があるかぎり、鬼はだれの心にもいると言えばいるし、いないと思えばいない。
この山のどこかに『鬼』たる化け物が棲息している可能性を問われれば、そんなもんはないと俺は答えるが」
子ども相手に説明するのは苦手だが、誤解を与えないよう、できる限り丁寧に説いていく。
知景は座卓の向こう側から身を乗り出すようにして、興味深げに耳を傾けていた。瞳はさきほどまでよりも大きく見開かれている。
「あなた、やっぱり先生なのね」
染み入るように感心されて、安は口をつぐんだ。自分は大学院生で、教授の代理でここにいることを、まだ彼女には打ち明けていなかった。
「でも先生の言っていることは正しいわ。紀日村に、鬼なんてものはいなかったのよ。あの話って嘘なの」
安とて、もちろんあの話が事実だと思っているわけではない。
とはいえ知景の断言のしかたには、なにか別の理由があるように聞こえた。
話の続きを待つ安の前で、知景は両腕を支えにしてゆっくりと立ち上がった。
引きずるような足取りで部屋の隅へ寄っていくと、ざらついた漆喰の壁にそっと手を添え、思いもよらないことを告げる。
「かつてひどい災害が村を襲ったときにね、村の人たちはそれを『鬼の仕業』だということにしたの。それで災害を鎮めるために、ひとりの女の人が『鬼』に捧げられた」
「それはもともとこの村でおこなわれていた風習か?」
冷静な頭で考えて返した。あくまで民俗学で言うところの宗教的儀礼・祭祀の話として受け取れば、ある程度理解はできる。
「うんとむかしのことまでは、私にはわからないけど……けどね、そのときからずっと、舘座鬼家は鬼妃の怨霊に取り憑かれているの」
「『きひ』とは生贄のことか」
『鬼』という漢字を使うことを想像して、安は尋ねた。
「正しくは、鬼の妃。鬼の嫁」
生贄を用いる儀式については学問的な見方ができる。ただ『怨霊』を持ち出されては、さすがにオカルトの域で返答に困った。
しかし安には、笑い飛ばせない理由があった。ついさきほど壁の奥から聞こえた、足を擦る音と低い唸り声のせいだ。
それを思い起こしていると、
「あなたも聞いたのね。鬼妃の声」
くるりとこちらを振り返った知景が、笑みを覗かせた。
ぞくりと背筋を冷たさが這う。
この少女はいったい何者なのだろう。
「でも大丈夫。私がここにいれば、鬼妃はそれ以上出てこれないから」
「どういうことだ」
「私にはね、その怨霊を【供養する役目】が――」
続きは聞けなかった。話しながら扉のほうへ踏み出した細い足が、二、三歩でふらついたからだ。
動作の端々から推察していたが、やはり彼女は足が悪いらしい。
それが確信に変わると同時に、安は倒れ込んできた知景の下敷きになっていた。
*
「あ、ご、……ごめんなさい」
畳に後頭部をしたたか打ち付けた音を聞いて、それまで落ち着き払っていた知景の声が、急にあわてる。
「大丈夫? 痛くない? 大丈夫?」
「ああ」
骨張った背中を抱き抱えたまま、安は身を起こして体勢を立て直した。
「ありがと、先生」
と言いつつ知景は、しばらく安の上から動こうとしない。
「おい、いい加減に退け」
わざと冷淡に、脅しの意図を孕んだ言葉をかけたが、どういうわけか、さほど響いていないようだった。
「先生といると落ち着く。二度も支えてもらったから」
知景は、安の胸に頭を預けて目を閉じた。
「俺は落ち着かない」
「安は安心の
「大安売りの
皮肉交じりの返しに、知景はくくっと肩を揺らして笑った。
安は暗いため息を漏らした。
自分の外見と内面は、どちらかと言えば、他者から恐れられる側だという自覚があった。
それなのにいま目の前の少女に対して、実体のない怯えを抱いている。自分がこれほど小心者だとは思わなかった。
一方の知景は、見ず知らずの男に対して、それも大柄で強面で、粗暴な態度を取る安に対して、警戒心や危機感がまるで感じられない。だからますます得体が知れないのだ。
安は居心地の悪さを感じていた。この状況をどう切り抜けようかと正直、焦りに駆られていた。
そのとき、首筋を甘いしびれが走り抜けた。
小さな柔らかい手のひらが、安の頬を撫でたのだった。
目を合わせた知景のきょとんとした顔に、無邪気な笑みが波紋のように広がっていく。
「心臓の音がとても速いわ、
馬鹿にしやがって。子どもはおまえだ。
無防備な振る舞いに翻弄されて、ぞわぞわと腹が立ってくる。
「どうしてそんなに怯えているの?」
いたずらめいた上目遣い。
見透かされているのか。気に食わない。
知景の唇に軽くついばむように触れた。溶けてしまいそうなほど柔らかい。ミルクのようなほんのりと甘やかな香りが鼻腔をくすぐる。
顔を離すと、知景は呆然と、これまでになく目を見開いていた。
怯えているのはおまえのほうだ。
赤く染まってゆく少女の頬を見て、自分の顔面が勝ち誇ったように醜く歪むのを感じた。
こちらが劣っているものなどなにもない。
得体の知れない女は、それ相応の力で征服するまでだ。
これまでだって何度もこうしてきた。
解き放たれた獰猛な獣のように身体が動く。
もう一度唇を塞いで、そのまま軽く体重をかけると華奢な肢体は簡単に畳の上に転がった。
濡羽色の髪が扇状の波のように広がる。
知景は糸の切れた操り人形のごとくされるがままで沈黙していた。自分の荒々しい息遣いだけが部屋に響いた。
ワンピースの裾を捲り、太腿を撫で上げたときだった。か細い指に手を押さえられた。そのささやかな無言の抵抗で、安は理性を取り戻す。
顔を離すと、知景の胡乱な瞳が見上げていた。
「……」
「……悪かった」
膨れ上がって行き場を失った情動が、泡のように弾けて消えていった。
自分が優位にあることを示すための一方的な暴力行為。恐怖に絡め取られ、それを押し流すために力ずくで彼女を制圧しようとした。
あさましさに唖然として、吐き気がして、しばらく身動きができなかった。
頬を冷たい汗が伝い落ちていく。
部屋の隅から刺すような視線と寒気を感じたのは、そのときだった。
いる。
――見られている。
いままでとはちがう直感的な怖気が肌を刺した。
壁奥からじりじりと冷気と、闇が迫ってくる。この世のものではないなにかが蠢いている。
黒ずんだ皺だらけの腕が床を這い伸びてくるのを目の端でとらえ、すぐさま立ち退いた。
脚をつかもうとしてくる影から逃れるように出口へ向かうと、
「先生」
背後から、知景が訴えかけてきた。振り返る勇気は出なかった。
「明日もきっと来て。鬼妃の続きを話さないと」
声は静謐で、まったく抑揚がなかった。
鬼の伝説の残る村に、人知れず隔離されるようにして育てられた、謎の少女。そして壁の向こうから滲む、異界の空気。
鬼の伝説なんかよりもずっと、不可思議で奇怪な因習の匂いがする。もはや民俗学的に説明できる領域からは、遠ざかっているように思えた。
彼女はなにを語るのだろうか。
知りたい気持ちもあるし、知るのが怖い気持ちもある。
ただ自分をここまで恐怖させたものの正体は、突き止めなければいけない気がした。
*
八月十三日 深夜
安は引き寄せられるようにして、知景の部屋を訪れた。
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