2-7 恐怖の意味
襖はしずかにきっちりと閉ざされた。
「先生は、そこに座っていて」
手で示されて、おとなしく座卓の前に腰を下ろす。向かい側に、知景は手をついて、ゆっくりと膝を折り、正座した。
そのまま数分が過ぎた。
「なんのつもりだ」
しびれをきらした安が、顔を上げる。
座卓の上に置かれた透明なグラスの内側で、半分ほどつがれた水面がゆらゆらと波打っているのが目に入った。同時に、どこからともなく、かたかたと音が鳴り始めた。
さらに視線を落とすと、卓上に雑然と乗っている書きかけのノートや筆記用具類も、すべて小刻みに振動していた。
その揺れ幅に合わせて、音はしだいに大きくなっていく。
地震だ。
安は身を強張らせた。
しかし知景は微動だにせず、唇を固く結び、ただひざの上で両手を組んで、目の前に広がる自分の勉強道具一式をじっと見つめている。
その背後、桐の衣装ダンスを見て気づいた。
衣装ダンスの上に鎮座した日本人形は、つぶらな瞳を虚空に向けて、まったく振動していなかったのだ。それだけではない。床板は、天井は、部屋は、揺れていない。
やがてグラスが、ゆっくりと宙に持ち上がり、小さな音を立ててひび割れた。中の水が、ひび割れから滴って、卓上を濡らしていく。さらにパリン、と割れる音とともに、ガラス片と水が飛び散り、反射的に目を背ける。
知景が止めていた呼吸をぷはっと吐き出したのを合図に、卓上の振動はぴたりと止んだ。
目を開けると、水に晒されてノートの文字が滲んでいた。
「どうなってる……」
安は困惑して尋ねた。
知景は荒く息をついていた。全身にびっしょりと汗をかいて、横顔に黒い髪が張り付いている。
尋常ではない様子に、それ以上の追及はせず、彼女が口を開くのをしばらく待った。
やがて喉を鳴らして唾を飲むと、知景は言った。
「……心の中で、強く念じると、動くの」
それから知景の口から語られたことは、安をさらに大きく動揺させるものだった。
*
念力、念動力と呼ばれる超能力の一種。そんなものの実在を、容易く認めることはできなかった。
目の前で繰り広げられたことにさえまだ疑いを持った。どこかに仕掛けがあるのではないかと目で探した。
しかし知景の眼差しに曇りはなく、信じられないなどとは言わせない圧があった。
「鬼妃の怨霊は強い怨念を持ちます。だれかがそれを封じなければならない。怨霊の力も念の力なら、封じるのもまた念の力。ここで鬼妃の怨霊を供養し、その怨念を封印するのが、いまの私の役目です」
自分のことを話しているのではないかのように、淡々と知景は話した。しかしそれは紛れもなく鬼の話の続きであり、知景の置かれた異常な状況についての告白だった。
「じつは最初の『鬼妃』は、舘座鬼家の女性でね」
「災害のときに生贄になった女が?」
知景はうなずいた。
「一族のなかでも、特に強い霊力を持ったひとだった。だからこそ、鬼の嫁として選ばれた。でもそのぶん舘座鬼家に向けた憎しみも強くて、怨霊になって、夜な夜な人を殺していくようになった。そんななか、舘座鬼家の人間のひとりがみずから供養を買って出たの。
村の人々は、今度はそのひとのことを、『鬼妃』と呼び始めたわ。かれらにとって、『鬼妃』とは生贄のことを指したから。
でもそのひとが死ぬと、また祟りが起きて……。
それ以来、封じるものと、封じられるもの、つねに壁のこちら側と向こう側に鬼妃がいる状態を保つことになったのよ」
「じゃあおまえは……」
愕然とする安の耳に、苦しげな呻き声が入ってきた。痛い、と。知景がその場にうずくまる。
「おい、どうした」
座卓を挟んで身を乗り出すと、
「先生……来て。そばにいて」
知景は息苦しそうに呼んだ。
昨夜のことを思い出して接触をためらうが、彼女はお願い、と顔を赤くして訴えた。
慎重に、その身を助け起こすと、細い指が衣服を引っ張るようにしてすがりついてきた。ひどく熱い。
「この身体はね、檻のようなものなの。念を使えばそのぶん、傷んでいくの」
最初に会ったとき、突然部屋へと移動したことを思い出して、あれは念力によるものだったのだと腑に落ちる。気絶したのは力の副作用だろう。心でものを動かすのだから、多大な集中力を要し、エネルギーを消耗するのは想像できる。
「そうやってだんだん、弱っていく。そうして肉体が滅んで、魂だけの存在になったら、そのとき私は……私も、『鬼妃』になる」
額に玉の汗を浮かべ、諦観したような、しかしどこか荒んだ笑みを見せる。凄絶な表情だった。恐ろしいことを話していた。だがその身をもって真実を伝えようとする知景に対し、昨日まで抱いていた得体の知れない恐怖はうすれていった。
代わりに芽生えていたのは、哀憐の気持ちだった。
存在を隠され、部屋に閉じこもって怨霊供養のための一生過ごす。時代錯誤的で、人権侵害も甚だしい、異常な環境だ。知景がこれほど健全な精神を保っているのが、むしろ不思議だった。
「供養をおこなわなければ、どうなる」
「怨霊が村へ解き放たれて、大勢のひとが鬼妃に殺されてしまう。過去に一度、そういうことがあったの。先代が亡くなって四十九日を過ぎても、次の鬼妃が決まらなくて。結局私の伯母が、新しい『鬼妃』となってそれを鎮めたって」
安の袖を掴む手に力がこもった。
「そういう事件があったから、お母さんは怨霊供養のための私を生んだ。だから伯母が亡くなったとき、後継で揉めることはなかったの」
「供養のために生まれた……?」
そんな馬鹿げた話あるものだろうか。
だがこれでまたひとつ、疑問は解消された。
それで知景の名前は家系図にも乗っていなかったのだ。
彼女は生まれながらにして、『人』ではなかった。
時子は娘を『鬼妃』として育ててきたのだ。
この封印の間に、舘座鬼家の因縁のすべてを封じ込めるために。
「おまえはそれ受け入れてんのか?」
安は思わず険しい口調で問い詰めていた。彼女の諦観したような微笑みが消え、潤んだ瞳が大きく見開かれた。目の中にまばゆい星が散る。
「だって……家族を守らなきゃ」
呪詛のような言葉を知景は吐いた。
生まれたときから思いのままならない人生が運命付られているのは、安自身のどうしようもない生き方とかさなった。
安にはまだ選択肢も逃れる方法もあったかもしれないが、知景には守るべき人々がいて、果たすべき使命を植え付けられている。その意味では彼女のほうが計り知れないほど多くのものに縛られていた。
「亜瑚も……先祖をたどれば舘座鬼の血筋なの。ほかにも大勢。だから」
あまりに哀しい少女の正体を知って、恐怖心は瓦解していく。
恐る恐る、安は知景の小さな身体を抱きしめていた。
十分も経てば、知景の呼吸は落ち着いてきた。熱もひいている。幼い子どものように、安の腕に身を預けていた。
「やっぱり先生といると落ち着く」
それ以上、安はどうしていいかわからなかった。自分は信頼を寄せられる素養をひとつも持っていないはずなのだ。というか、昨夜の記憶はどこかへ行ったのだろうか。
知景の感覚にはかなり常人とずれがあるようだった。
「そんな顔しないで、先生。夜のあいだだけだよ。これでもね、けっこう自由なんだよ。昼は外に出てるし、テレビもあるし、ゲームもできるし」
「高校にも行けないのにか?」
不自由な足腰もそうだが、彼女の持ち物を見れば学校に通っていないことは推測できた。配布される教科書はひとつもなく、自分で集めた市販のものばかりだったからだ。
「友達にも滅多に会えずに――」
「優しいのね」
「ふざけるな」
「ふざけてないわ。あなたは優しい人。優しくて、寂しくて、怯えている」
「わかったような口を――」
「目を見れば、わかる。お母さんも、同じ目で私を見るから」
知景はぱっちりと目を見開いて、安を見上げた。
澄んだ瞳に映る醜悪な自分の姿に一瞬うろたえる。
だが、そらすことはできなかった。
「私の力、先生のことを傷つけるかも……昨日はそれで止めたの」
念力が知景の感情に呼応して発動するのだとすれば、彼女は恐怖心から無意識に力を使ったのだろう。自分で言うのもなんだが、無理矢理襲われかけるなどという体験にはもっとも強烈な恐怖を感じて当然だ。防衛本能で安を攻撃するというのも理にかなっている。
「でも私、人間だよ」
「――ああ、もう怖がらない」
ゆっくりと。
どちらからともなく唇を合わせた。
息を呑むほど、温かかった。
*
体の芯を貫かれて、痛みに耐える知景の目尻には涙が溜まっていた。
それを右手の親指で拭おうとしたときに破壊はおとずれた。
前触れは、あったようでなかった。わずかに痛みがあると思った次の瞬間、親指の第一関節は見えないプレス機のような怪力でへし折られていた。皮膚を突き破った細い骨が一部露出した。汚い血液が知景の顔に飛び散らないように、すばやく親指を内側にして固く拳を握りしめる。
そのままの状態で、なんとか最後まで通したが、折れた親指は、いまになって無視できないほどひどく痛み出していた。出血も酷く、放置していたせいで変色して腫れている。
しばらく意識の海に揺蕩っていた知景が、頬に触れてきた。
「……痛かった……? 大丈夫?」
「普通それを聞くのはこっちなんだがな」
胸に埋まる小さな頭を左手で撫でながら安は苦笑した。
とにかく片手では知景を満足に抱きしめられないのがもどかしかった。そんな安の葛藤を知ってか知らずか、知景はゆっくりと身を起こすと安の上に覆いかぶさるようにして口付けを求めてきた。
心臓のとくんと脈打つ音は溶けて、自分のものか彼女のものかわからなくなる。
「
ゆっくりと上下する胸の上で、知景の声が響いた。
「そりゃ……どうも」
「愛してる」
知景の唇がつむいだ言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。心臓が止まりかけた。髪を撫でていた手は止まった。
「おまえなそれ意味わかってんのか」
安は動揺を隠すように鼻で笑ってみせた。しかし知景はしずかに続けた。
「私はね、「怖い」を感じないの。怖がっているひとは目を見ればわかるけど、自分の「恐怖」はわからないの。登った木から落ちるときもなにも感じない。怪我をしたら痛いけど、それだけ。ゲームもそう。バイオもSIRENも青鬼も、楽しくて大好きだけど、怖くはなかった。怨霊も、あまり愉快な存在ではないけれど、それでも生まれたときからずっといるから、恐ろしいとは、感じられないの」
それは彼女が育った特殊な環境による、無知と無垢ゆえの欠陥だ。だから突然現れた安に、怯えることもなく純粋な好奇心で近づいてきたのだ。だからあんなにも、傷つけられたことに無頓着だったのだ。ようやく気づかされた。
「昨日はじめて怖いと思った」
結果的に、彼女に初めての恐怖を植えつけたのは自分だったというわけだ。さながら欲望のままに村娘を取って食らう鬼のように。
安は知景の髪を、無事な左手で何度も梳った。
「怖がらせて悪かったな」
「ちがうの」腕の中で小さく頭を振る知景の声は、満ち足りた笑みを帯びていた。
「知景はね、嫌われるのが怖いと思ったの。それに先生が知景を置いてさよならしてしまうことも怖い。もうすぐ、先生がいない日々に戻るのがとっても怖い。また、ここでひとりになるのが……。怖くて、心臓が破裂しそうになって、力が抑えられなかった」
頭がぐらついた。
知景が感じていた恐怖は、襲われる恐怖ではなかったらしい。それだけではない。
「愛してるって、怖いことなのね」
湧き上がるのは醜悪な征服欲ではなく、息苦しくなるような愛おしさだった。
思わず知景を強く抱き寄せる。ほとんどなんの考えもなく口にしていた。
「一緒に行くか」
「え……?」
知景は上目遣いでこちらを見てきた。その双眸に星空のような瞬きを灯して。
「……なんでもない。忘れろ」
村の外に出たあと、知景をどうするのかなんて考えていなかった。生き方を変えるためには、すべてを捨てなくてはいけない。親代わりの女性とのあいだにある、簡単に断ち切れないしがらみも。
でも気づいたら願望を口にしていた。
頭の中の霧が晴れて、思いつくかぎり最良の未来が眼前に開けたような気がしたのだ。最初からやり直せるような気がした。
知景は少しだけ考えたのちに、
「明日また来てくれる? 答えを言うから」
女神のような微笑みを返した。
「ああ」
知景がここからいなくなるということは、壁の向こうの怨霊を解き放つということだ。
全部見捨てて、背負わせるということだ。
とんでもないことを言ってしまったかもしれない。
それでもいまこの瞬間だけは、満ち足りてやすらかな気持ちでいられた。
安は、すやすやと寝息を立てる知景の額に、そっと口付けを落とすと、衣服を纏い、部屋をあとにした。
*
――それが彼女を見た最後になった。
「困りますねえ、お客さま」
暗闇の向こうから、舘座鬼時子の声がした。
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