1-9 つかまえた
二日前に来た峠道を逆走する。車内の空気は来たときよりもずっと重苦しい。
一春の車は、となりの市を目指していた。所要時間はどんなに飛ばしても二時間弱。だが今朝まで降っていた雨で道はぬかるんでいるため、それ以上時間がかかりそうだった。雨上がりの峠道はスリップや急な土砂崩れが懸念されるため、あまりスピードを出せないのだ。
幾度となくカーブを曲がり、やがて薮の中に道祖神の石像が見えてきた。そこを超えると、あとすこし、もう十分たらずで峠道が終わる。ようやく村から出られる。
「そろそろだね」
と亜瑚は長い沈黙を破って口にした。
神社の近くで亜瑚を下ろしたあとは、一春と星麗南は村に帰る予定だ。最後になにか前向きなことを話したかった。
「亜瑚ちゃん……」
後部座席には星麗南が、行儀良くシートベルトをしめて座っていた。亜瑚を見送りたいと言ってまた駄々をこね、結局同行したのだ。
「お祓い、終わったら、もどってきてね」
ストラップシューズのつま先を合わせてカツンと鳴らしながら、星麗南は不安そうな声を出す。
亜瑚は座席のシート越しに、優しく微笑んでみせた。
「もちろんだよ。こわーい鬼さんは都会暮らしの亜瑚姉ちゃんがやっつけてやるんだから」
「都会暮らしは関係ないだろ」
ハンドルを握り、前を見据えたまま、一春が空虚な笑いを漏らす。星麗南は、黒々とした瞳に涙を溜めて、わずかに微笑みを返した。
「そしたらさ、亜瑚ちゃん、せれなと一緒にディズニーランド行こ」
「おおっ、いいね」
星麗南のお願いは真剣そのものだったが、就活も祟りも、ひと段落したら行き着く先は同じ夢の国なことに可笑しさを覚えて、亜瑚はくすっと笑みを漏らした。
すこしだけ晴れた気持ちで、前に向き直るのと――ほぼ同時にそれは起こった。
ガラスの割れるけたたましい音とともに、
がくん、と身体が激しく前方に揺さぶられた。
急停車の衝撃で、シートベルトに胸が押し付けられて、うっと息が詰まった。反射的に頭を庇い、固く目をつぶる。
そのまま、息を止めたまま何十秒か沈黙していた。
しだいに、自分の呼吸の音が返ってくる。それと同時に、頭に心臓があるかのように心音もうるさく耳の中で響いた。
額に大量の汗が吹き出していた。
となりには、声もなく、微動だにしない一春の気配だけがある。
なにが起こったのかは、頭ではもう、半分予想はついている。
確認しなければいけない。――でも、見たくなかった。
生暖かい風が車内を吹き抜けていく。その流れにつられるように、恐る恐る、運転席に目を向ける。
現実を目の当たりにして、亜瑚は短く息を呑んだ。
フロントガラスを突き破って車内に侵入してきたひとふりの太い木の枝が、一春の右半身を直撃していた。
「う……」
悲鳴を上げる気力もない。深い絶望が、亜瑚の目の前を一瞬にして暗い闇に突き落とした。
「あああ……」
歪んだ顔を覆って、泣き崩れる。
私のせいだ……。
「……亜瑚……星麗南は、無事……か?」
ひどく掠れた声がした。
「一兄……!」
兄は生きている。
「ああ……ああ、あ、どうしよう……一兄、どうしよう……」
「落ち着け、星麗南は?」
亜瑚はパニックに陥りながらも急いで振り返る。
星麗南は後部座席でしっかりとシートベルトに守られていて、見るかぎり出血などの怪我はないようだ。でも頭を打っているかもしれない。
いまはただ、目を見開き呆然としながら、
「お父さん……お父さんが……」
と繰り返していた。
「星麗南は……大丈夫、……でも、一兄が……」
亜瑚は浅い呼吸で答えたが、脳に酸素が行かない。視界が霞む。一春を助けなければと思うのに、なにも考えられない。
つかまえた、と言わんばかりにがっちりと、数股にわかれた枝の先端がそれぞれ一春の身体の各所に突き刺さっていて、とても動かせる状況ではない。
いちばん深いものは右肩で、座席の背もたれまで貫通しているようだった。衣服はもちろんシートにもすでに大きな赤い染みが広がっている。
もう少し左下に逸れていたら心臓を貫いて即死だったかもしれない。
「……救急車、呼んでくれ」
一春は呻くように声を出す。だが落ち着いた指示だった。それを聞いてようやく、亜瑚はうなずいた。
*
すでに市街地に近づいていたため、病院への搬送にはそう時間がかからなかったのが不幸中の幸いだった。
緊急手術が行われ、亜瑚と星麗南は終わるまで手術室の前で待たされた。
病院の廊下の冷たい静寂が、不安を煽る。
一晩明けたんじゃないかと思うほど長い時間待った気がしたが、実際は一時間ほどしか経過していなかった。
医師からは、手術は成功したと告げられた。
その途端、ぎりぎりのところで保っていた精神が決壊し、涙で視界が埋め尽くされてしまった。
一春は一命を取り留めた。
ただ体力の低下が激しく、意識が回復するまでは予断を許さない状況らしい。今後も集中治療室での治療が続くという医師の説明を、亜瑚は情けないほどぼろぼろ泣きながら聞いていた。
とにかくいま自分にできるのは、兄が目を覚ますのを願うことだけだった。
病院のロビーに戻るころには、星麗南に自動販売機でジュースを買ってあげられるぐらいには落ち着いていたが、連絡を受けて駆けつけた両親の姿を見て、また胸が締め付けられる思いがした。
「亜瑚ちゃん……」
目を合わせたとき母はすでに、その優しげな面を悲痛に歪めていた。声を震わす母に代わり、父が尋ねてくる。
「一春は?」
「いま、手術終わって、一命は取り留めたって……まだ意識は戻ってないけど」
「亜瑚ちゃんは、せっちゃんは、なんともないの? 怪我は?」
「どこも、ないよ」
運転席の一春はあれだけの損傷を受けたにもかかわらず、亜瑚は不思議なほどにかすり傷ひとつ負っていなかった。それは後部座席の星麗南も同様だった。
「いったい、なにが、どうして……」
「ごめんなさい……私……」
亜瑚は母の顔を見ているのがあまりにつらくて目を背けた。そんな亜瑚に、母の視線が追いすがる。
「ねぇ……どうしたら祟りを鎮められるの……? 亜瑚ちゃんなにか、知らないの?」
亜瑚は力なく首を横に振った。
「知らない。ごめんなさい」
暗黙のうちに、だれもが一春の事故も祟りのせいだと思い込んでいる。その異常さに内心気づいていながらも、亜瑚にはもう否定する気力は残っていなかった。
「いや……」
父はなんと言葉をかけたらいいかわからないようだ。母は、
「だけど亜瑚ちゃんはどうして……」
といいかけて、口ごもる。代わりに亜瑚は答えた。
「どうして私は無事でいるんだろ……ね」
ほんとうにおかしい。私に罪を自覚させるためだろうか。鬼も回りくどいことする。
なげやりな、ひきつった笑いが起こった。
「亜瑚ちゃん……」
心を痛めた顔をしながらも、母も父も、亜瑚のせいじゃないと言ってはくれなかった。
どこかでその言葉を期待していたのに。
亜瑚を責めはしないにしろ、かれらもこの祟りの原因が亜瑚にあることは否定していないのだ。
深く失望し、落胆しながらも、亜瑚はぽつりと声を絞り出す。
「一兄、ごめんね……」
ほんとうはずっと、一春は恐れていたのではないだろうか。亜瑚のそばにいたら、危険だと。
私が最後まで、甘えたばっかりに……。
星麗南が手を握り、心配そうな目で見つめてきた。涙も出ないほどショックを受けているのに、彼女はいつも自分のことは後回しだ。亜瑚や一春のことを気遣ってくれる。なんて優しい子なのだろう。
星麗南の手を握り返すと、亜瑚は
「私、どうしたらいいんだろう……」
声に出して、自分に問う。
祟りを鎮める方法を模索して、藁にもすがる思いで市内の神社に向かう途中だったのだ。
でもどうやら、それすらも許されないらしい。
もはや村に戻ることもできない。
というか、自分のそばにいる人が、次々と犠牲になるのだから、自分はもう、だれのそばにもいるべきではない。
一春の件で確信した。
私は鬼に取り憑かれている。
もっと早く気づくべきだった。
「ね、亜瑚ちゃん。お兄ちゃんのことは私たちが見ておくから、もう東京帰りなさい」
母が言った。
「私らのことは心配せんと、ね」
労るような優しい声だった。けれど亜瑚にこれ以上前野家に近づかないでもらいたいという残酷な願いも、暗に伝わってきた。
これ以上家族に迷惑はかけられない。
兄の分も、自分が家族を守らなくては。
それなら。
「……わかった」
うなずくその目に涙はなかった。
自分が犯した罪を受け入れて、後始末をするしか道はない。
母は星麗南の目線に腰をかがめて、
「せっちゃん、ほら、おばあちゃんとこにおいで」
にっこりと笑顔を作って、両手を差し出した。しかし、
「ヤダ!」
星麗南は激しく反抗した。亜瑚の腕に腕を絡めて、ぎゅっと力を込めると、
「亜瑚ちゃんといっしょに行く!」
またもや自分勝手な主張を始めた。年相応のわがままなのかもしれないが、星麗南にしては珍しいことだった。亜瑚は暗い気持ちで、星麗南を見下ろした。
「星麗南……」
「せっちゃん……わがまま言わんとって。亜瑚ちゃんは東京帰るんよ」
母は――星麗南にとっての祖母は、気を取り直して、星麗南の目線に膝を折ると、優しく言い聞かせる。
「せれなも東京行く! おばあちゃんは帰っていいから!」
駄々をこねるその大きな瞳はあまりにも真剣で、こちらが気圧されてしまうほどだった。
それでも、
「ダメ、星麗南。私のそばにいたら……きっと……」
あなたも鬼に襲われる。
恐ろしくて口には出せなかった。
でも、なにに変えても星麗南だけは絶対に守りたい。星麗南だけは、自分の味方なのだから。
この思いは、どうかわかってほしかった。
「星麗南、かならずまた会えるから、ね」
亜瑚はぎゅっと星麗南を抱きしめた。「そのときはディズニーランド、行こうね」と付け加え、辛抱強く返事を待った。しばらくしてやっと星麗南の小さなうなずきが返ってきた。
「……やくそくだよ。絶対だよ」
それから、
「怪談朗読、またやってね」
こっそりと星麗南は耳打ちしてきた。一瞬どきりとした。でも思い直せば、それは離れていても星麗南とのつながりを持てる唯一の場所でもある。いまは気分が乗らないし、いつになるかわからないけれど。
「また、いつかね」
両親と星麗南を残して病院をあとにする。
半分やけくそだった。
超常の力を持つ見えざる敵を相手に、具体的な打開策なんてなにも思いつかなかった。
*
とぼとぼと、駅前を歩く。地方都市の商店街は午後七時を過ぎればほとんどの店がシャッターを閉めており、閑散としている。
いまから電車に乗って、京都発の新幹線にギリギリ間に合うかどうか。
手元のスマホに目をやって、LINEの通知が来ているのに気がついた。亜瑚は立ち止まり、目を疑った。
そのメッセージは、たった十五分前に一春の端末から送信されたものだった。
【新規録音0812.mp3】
正確に言えばメッセージではない。無言で音声ファイルのみが添付されていた。
十五分前……まだ亜瑚が病院にいたときだ。
もちろん集中治療室にいる一春の手元にスマホはない。だいたい、意識がないのだから操作できるはずもなかった。
それなら、どうやってこのデータは送信されたのだろうか。
――開いたら、祟られるかも。
我ながら馬鹿げた考えが浮かんだが、そう思えてしまうぐらいには薄気味悪い。
――でも。
と亜瑚は思い直す。
一春がなんらかの方法で、亜瑚にメッセージを伝えてきているという可能性も、ありえなくはない。
いまは鬼に対抗する手がかりもなにもない状態だし、なにかヒントになることならなんでも得たかった。
亜瑚はイヤホンを耳にしっかりと挿して、恐る恐る、音声ファイルをタップした。
録音状況は劣悪らしく、ブツブツと不快なノイズにまみれていた。
スマホの音量を少し上げる。今度はザーッというノイズが目立ってくる。やがてその奥からわずかに聞こえてきたのは、
「――どうしてあなたは、鬼の伝説のことが聞きたいの?」
それは無邪気で優しげな、おっとりとした、知景の声だった。
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