1-10 メッセージ
部屋に戻るやいなや、荷物を投げ出しベッドに倒れ込んだ。
家を開けていたのはたったの二日間だったのに、
壁や天井、床にしても、とにかく白くて明るい。
高校時代から下宿をしている亜瑚は、ひとりで暮らしている期間ももう長い。こんな孤独には慣れきっている。普段なら微塵にも心細さは感じない。しかしいまは、静寂に押し潰されそうだった。
壁際に寄せたソファーベッドの上に座ると、青いとかげの巨大なクッションを胸に抱き抱え、不安を紛らわせようとテレビをつけた。
番組の内容はほとんど頭に入ってこなかったが、アナウンサーのしゃべるテンションはやけに高くて鼻につくし、液晶ディスプレイの過剰な色彩には目が眩む。
ぼんやりと眺めていた芸能人どうしの電撃結婚のニュースで、実家にいるあいだ、外の世界の情報はほとんど入ってこなかったことに気づかされる。
あの村はすべてのものが色褪せていて、世間から隔絶されているのだ――。
気を失ったように一時間ほど眠っていたらしい。
ぱっと目を開けて飛び起きる。
つけっぱなしのテレビから、サランラップのCMの陽気な音楽が流れている。
見えないけれど、鬼はいまも亜瑚の近くにいるかもしれないのだ。ひとりになったこのタイミングで怪現象に襲われる可能性もある。いまのところなにも変わったことは起こらないが、油断はできない。
全部夢ならいいのにと思う。
できるなら明日から普通に大学に行って、なにごともなかったかのように過ごしたい。
いっそそうしてしまおうか。
友だちに会って、就活と卒論の話をして、バイトへ行き、養成所でのレッスンを受け、それから朗読の投稿を――。
そこで亜瑚はうっと顔を歪めた。
自然と、ローテーブルの上に開いて置かれたままのノートPCが目についたのだ。
忌み話を拡散させた忌まわしい産物。全ての元凶。
でもいまとなっては朗読の活動も大切な生活の一部であり、声の仕事をするという夢を支えてくれていた。
怪談朗読なんて、なんではじめたんだっけ。
なんでそんなもの……。
星麗南はまたやってほしいと言ってくれたけれど、さすがに当分無理だ。
スマホの画面を開く。
さっき一度開いたLINEの音声記録は、一時停止を押したままになっている。知景の声におどろいて、容易に続きを聞く気になれなかったのだ。
往来で泣いてしまいそうだったというのもあるし、なんだか胸騒ぎがしたというのもある。
内容は、予想がつかない。一春の端末から送られてきたということは、一春がと知景との会話が録音されているという可能性もあると思うのだが、なぜか亜瑚が知りたくないことまで記録されているような気がして、すこし怖かった。
だがいつまでもためらっている場合ではない。
亜瑚はテレビを消すと、画面に表示されている再生バーをスクロールして、もう一度最初に戻した。
『――どうしてあなたは、鬼の伝説のことが聞きたいの?』
ブツブツと不快なノイズを纏っているが、たしかにそれは知景の声だ。懐かしくて、どこかほっとするけれど、それ以上にきりきりと胸が切なくなる。彼女はやはりついこの前まで生きていたのだということを実感させられる。
『なんでもいいだろう。研究だからだよ』
もうひとつ声が聞こえた。
それは男性のものだったが、えっ? と亜瑚は眉をひそめた。なぜならそれは、予想していた一春の声ではなかったからだ。
知景の弟の脩や父の俊典のものでもなく、亜瑚の知っている村の人の声も、すべてあてはまらなかった。
『外に出てたのか?』
なにかに気づいて、男はいらいらと問い詰めた。低い声と他者を威圧するような口ぶりには、良い印象は抱けない。対して知景は、亜瑚たちとしゃべるときとなにも変わりのない、和やかな調子で会話を進める。
『そうよ。今日は亜瑚に会ってたの』
唐突に発せられた自分の名前にびくりと反応した。
心臓が、早鐘のように打つ。
もっとよく聞こえるように亜瑚は息を殺して、スマホの音量を最大まで上げた。ザァーというノイズがうるさい。
『アコ?』
『ええ。数少ない同い年の、私の自慢の幼なじみ。下宿して、村の外の高校に行ってるんだけどねナレーターになりたいって夢があるの。それでね、いまは朗読をやってるんだって』
知景の声が、愉快そうな笑みを含む。
『知景が好きな、怖い話を聞かせてあげたいからって、怖がりなのに怪談を朗読してるのよ』
亜瑚ははっと息を呑んだ。
『だから怪談朗読は、知景のためなの』
そうだ、思い出した。
どうしてこんな、大切なことを忘れていたのだろう。
もともと知景のためだったんだ。
足腰も弱く、村の外にも連れ出してもらえない、携帯電話さえ持たせてもらえない、かわいそうなあの子に声を届けるために、亜瑚は怪談朗読を始めたのだ。
ラジオごっこ。だったんだ。
はやる心を抑え、亜瑚は続きに耳を傾ける。
『亜瑚、なかなか帰ってこないから、もしかしたら知景のこと忘れちゃったのかなって思ってたの。でもまあ、それはしかたがないよね。高校、すごく楽しそうだし。地元の友達のことなんて……だんだん忘れてしまって、当然』
「そんなことないよ!」
思わず亜瑚は叫んでいた。
『だけど、もしもそうでも、知景は亜瑚の声を朗読でいつでも聞けるから。今日も亜瑚、がんばってるなぁって……それがわかるだけで、いいの』
「ちぃちゃん……」
頬を涙が伝っていた。
恐怖と絶望からではない涙を流したのは、いつぶりだろうか。
――亜瑚、がんばれ。
怪談朗読、私、聞いているから。
知景がそう言ってくれているような気がした。
男の声が、さも興味の無いことを聞いたというふうにため息をつくと、続きを促す。
『それで、鬼の話だが――』
『ああ、うん、そうね。先生にはきちんとお話しします』
鬼の話。やはり知景は、この録音のなかでなにかを語ろうとしている。気を取り直して亜瑚は、ぐっと身を乗り出した。
だがそこで、ぷつんと録音が途切れた。
待って……!
信じられない思いで、唖然と口を開けたまま、亜瑚は画面を凝視した。
LINEの調子が悪いわけではない。音声ファイルがそこで終わりなだけだ。何度再生し直してももちろん同じところで会話は終わってしまう。
ふたたび落胆が亜瑚を襲った。
もうすこしでなにかわかりそうな気がしていたのに。
いったいこのもうひとりの声の主はだれだ?
知景は『先生』と呼んでいた。
村の人ではないと思う。
彼は鬼の伝説について知景に尋ねているようだった。このあとも話をしたにちがいない。
時子も言っていたが、知景は時子より鬼のことについて詳しい。
となると、もしかしたらこの男は知景から、鬼の祟りのことまで聞いたかもしれない。
亜瑚にはこの音声ファイルの情報が、知景の導きによるもののように感じられてならなかった。
なぜそれが一春の端末から送られてきたのかはまったくの謎だが、これまで目にしてきた怪現象を思えばそれぐらいはささいなことではないか。
どうにか『先生』とコンタクトを取る方法はないだろうか。
だけどこれだけでは、どこのだれだかわからない。
この録音がいつどこで撮られたものであるのかさえもわからないのだ。
――いつ、どこで?
もう一度、LINEのトーク画面に表示された履歴を注意深く見つめる。
【新規録音0812.mp3】
0812……八月十二日?
録音のなかで、知景は『今日は亜瑚に会っていた』と言っていた。
私と知景が最後に会った日ってたしか――四年前の夏。
八月十二日。お盆休みだし、そうだったかもしれない。
つまりこの音声ファイルは、四年前の八月十二日、私と知景が再会した直後に撮られたもの――。
たったひとつの事象だが、一歩だけでも近づいた気がして、亜瑚の胸に震えが走った。
その刹那、ふわり、と生暖かい風が右から左へ吹き抜けていった。亜瑚の髪を揺らすほどはっきりと。
風の吹いてくる方向に目をやると、ベランダに続くアルミサッシの戸が半開きになっている。
施錠をして家を出たはずだ。帰って来てから開けた記憶はない。
いつのまに……?
背筋がすっと冷たくなったが、不思議と身の危険は感じなかった。
音を立てずにベッドから下りると、そろりとベランダに近づいた。
念のため、外の様子を覗いて、左右を確認してから、ガラス戸をしっかりと閉め切り、鍵をかける。
目を上げた瞬間、ガラス戸に写った自分の顔の後ろに、なにかもうひとつ黒い影がある気がして、反射的にばっと振り向いた。
「ちぃちゃん……?」
もしかして、知景の魂は、いまも自分の近くにいるのではないだろうか。
亜瑚の頭の中に、はじめてそんな考えがよぎった。
――だから鬼は自分に手出しをしてこないのでは?
知景が、守ってくれているから。
震える唇でもう一度呼びかける。
「ちぃちゃん、そこにいるの……?」
返事はない。
代わりに、ベッドの上に投げ出されたスマホの、それまで黒く沈黙していた画面が青く光ったのが目についた。
覗き込むと、それはLINEの通知だった。
手が震える。
それはやはり一春の端末から送られていた。だがメッセージを読んで、さらに亜瑚は息を呑む。
【先生は、鬼を知ってる】
その下に、男性とおぼしき人物の名前と電話番号が書かれていた。
【砂本安】
『先生』の名前。
それは冥界のほとりに佇む知景が、怪異に立ち向かう幼なじみに向けて遺した手がかりにちがいなかった。
【亜瑚 おねがい】
彼女は生前、自分に危機が迫っていることを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。
それでも祟りを抑えることができなかったから。
だから代わりに私にみんなを助けてと、祟りを鎮めてと訴えかけているのだ。
あの世からのメッセージなのだ。
祈るように胸元で切れ端を手に包むと、
――私、がんばるよ。鬼の祟りを鎮めて、みんなのこと、守ってみせるから。
「見守っててな、ちぃちゃん」
声に出してささやき、亜瑚は姿なき鬼へ立ち向かうことを誓った。
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