白昼夜話
あら、先生から訪ねて下さるなんて。嬉しいですけれど、突然いらっしゃるのは止めて頂きたいですわ。乙女には色々と秘密の準備が必要なのですよ。
どうされたのですか、そんなに呆けたお顔で。
夢でも見ているよう、ですか? 謀るなんて、とんでもない。これは先生の見ている夢。先生の霊魂と結んだ私たちが見せている夢幻。先生の枕元に立たせてもらっていますのよ。褥に開く
気付いてしまわれたのでしょう。思い出してしまわれたのでしょう。
もう、お分かりでしょう。私の名前が。私たちの名前が。
ずっと私はここで先生を見つめおりました。先生が年若く、郷里の御屋敷に住んでいらっしゃった頃から。もう三十年余り経つでしょうか。月日が過ぎるのは早いものでございますね。
あの日。十五歳の少年であった先生が、お屋敷の下女の子を殺した日。先生にとって初めの好い人。年下の妹のような、愛々しい少女。お屋敷で働き始めたばかりで、先生をひと目みて恋慕した。殺意の素因は少女が、異母兄妹だったからでしょうか。旦那様もお盛んな方でしたから、手つきの下女が幾人もおりました。
先生は秘事を知り、愛憎入り混じる渾然とした情緒を覚えるようになりました。親愛の情には嫌悪と殺意が紐づいた、難儀な性質ですわ。
とまれ、先生が情緒のねじれを解消するためには、愛しい人を殺すしかありませんでした。先生は解放を望んだのです。
あらかじめ見つけておいた冬眠中の熊の巣穴に誘い出して、熊を撃って叩き起こした。私は足の腱を鉈で切られて、逃げることもままならない。怒り狂った熊が血の匂いを嗅ぎ取って、見逃すはずもありません。
先生はそれを
当時、奥山が開拓されたせいで、息域を奪われた熊が里山付近まで降りてくることは珍しくありませんでした。私の死も不幸な事故のひとつとして処理されました。しかし、旦那様だけは息子である先生のことを疑っていらしたようですね。というのも、妾の件で先生が暗に揺さぶりをかけていたからに他なりません。
旦那様は先生を放逐することにして、先生はひとつだけ条件を出して、受け入れられたのでした。
条件というのは、旦那様が大規模な栽培を進めている芥子の横流し。旦那様は原料の生産のみならず、秘密裡に
そうして故郷から放逐された先生は、数年後、私たちのいる女学校へと赴任された。特別の練り香、正体は独自に精製された鴉片を携えて。随分と懐かしいようにも、昨日のことのようにも思い出されます。
若い男の教師がやってきたものですから、女学校ではもてはやされたものでしたね。私を含め、先生に夜這いをかける子も少なくありませんでした。宿直の教師など、女の園では格好の餌食でしたから。
沢山の愛を囁き、囁かれた私たちの幸せな夜でした。
身も心もひとつに。その思いをいまなお律儀に守り続けている。私たちは一途で、操を立てる、いい女だと思いませんか?
教鞭をとられていた頃の先生は、殺人を重ねるごとに味を占め、次第に殺戮の快楽を求めるようになっていかれました。懐かしい思い出です。
甘い睦言、父譲りの手練手管、鴉片の香り。少女を蕩けさせるには、十二分な効果を持っていました。
まるで狩りでも楽しむように、少しだけ痛めつけて、追いかけっこをするのがお好きでしたよね。死骸はより過激に、煌びやかに飾り立てる。葬儀の献花のように並ぶ、紅の花弁。私たちの身体が薔薇や椿、彼岸花の如く咲き乱れる様は見応えのあるものでした。
先生が捕まらなかったのは、起こった殺人のすべてが、先生の仕業ではなかったからでした。殺人鬼はひとりきりではなかったのです。先生は気付かれておいでだったでしょうか?
雪野お姉様を殺したのは私。可愛らしい嫉妬ですわ。
先生がお姉様に目をつけていらしたのは知っていました。寄宿舎の室に忍び込んで情事に及んだり、夜半に連れ出したり。私は起きていたのに。女学生相手に大胆なことばかり。ほんとうに酷いひとですわ。夢見が悪い、というのは先生へのあてこすりでもあったのですよ。
先生が最初から私を見てくれたら、お姉様を手に掛けることもありませんでした。お姉様には悪いことをしてしまいましたね。先生にとってはよい刺激になったみたい。私のことは一層激しく愛して下さいましたから。
あれから何人もの私たちを愛してくださいましたが、先生が満ち足りることはありませんでした。寂しいですが、仕方ありません。私たちひとりひとりでは足りなかったのでしょうから。
先生の罪のひとつが暴かれて、ついに捕まってしまったときには、私たちもひどく嘆いたものです。しかし、さすが先生ですね。あのまま監獄で余生を過ごすことになるか、死刑が執行されることになるかというところ、気を違えた狂人を装って精神病棟に逃げていらっしゃるとは。ひとを騙す術を知り尽くした先生には感服致しました。
監獄とどちらが良いかという話は私たちには判じることはできませんが、先生が機会を伺っていらっしゃることは承知しています。狂人に身をやつし、雌伏して時を待つ。三十年も殺人を隠匿して、人混みで暮らしていた先生ならば児戯に等しいことでございましょう。この精神病棟でも、狂気の中で正気を保ち、五年、十年と過ごすことも可能でしょう。そして、世間が先生を忘れ去ったころに、
でもね、先生。どうか忘れないでください。
先生が如何に法の目から、人の記憶から逃れようとも。永遠の愛を誓い合った私たちとは、決して逃げることはできないということを。
いつでもお傍に。いつまでもお供します。毎夜、枕元に現れて、夢のなかで逢瀬の時間を繰り返しましょう。先生が忘れても、私たちが覚えています。先生が忘れようとしても、私たちが思い出させます。
例え、狂人を演じるうちに、真に気が狂ってしまったとしても。
私たちの愛の在り方が先生を狂わせてしまったとしても。
幾久しく、愛しましょう。
死が私たちを別つことはできないのですから。
ねぇ、先生?
悪夢の薫香 志村麦穂 @baku-shimura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます