第三夜
あぁ、先生、私どうしたらよいのでしょう。
恐れていたことが起こってしまいました。私の悪い妄想が傾いて、不幸を呼び寄せてしまったのです。
可哀想な雪野お姉様。私が強く引き止めていれば、襲われることもなかったのに。私のせいなのです。なにもかも私が、視ていながら何もできなかった私の責任なのです。
雪野お姉様が、殺人鬼に殺されてしまいました。
酷い有様でした。親しかった私が御遺体を確認する為に呼ばれたのです。快活だった面影は陰惨に上塗りされ、人だと気が付くのにも時を要しました。亡骸の近くには血に塗れた礫が落ちていたそうです。貌を、美しかったお姉様の貌が、悉く潰されていたのです。眼窩は落ち窪み、鼻梁がへし折れ、頬骨が割れ凹む。無残に凌辱された雪野お姉様。私の罪過だと思うと、気を保っていられません。
ほんとうに狂ってしまえたらどれほど楽か。遺品を引き取りにくる御家族へ、私はなにをお話したらよいのでしょうか。
いいえ、先生。気休めを仰らないで。私は確かに視ていました。
お姉様が襲われるより先に、夢の中で視ていました。
そう、件の悪夢です。香を焚いてもらった日はよく眠れました。しかし、形が浮かび上がってくることを止められない。次第に克明に夢のあらましが視えるようになったのです。
丑三つ時の街路を裸足で逃げる人影。揺れるお
巷で騒がれている殺人鬼です。はじめ事件から掻き立てられた妄想がみせる悪夢なのだと思いました。しかし、それは真実ではなかった。
毎夜はっきりとした悪夢をみるわけではありません。徐々に近づいてくる。夜眠り、夢を見る度に、逃げる女と殺人鬼の距離が近づく。焦点が合わさるように、私の視る夢も鮮やかになっていくのです。虫の知らせなのでしょうか。私の悪夢のなかで殺人鬼が人を殺すと、翌朝新たな死体が見つかっているのです。
正夢、あるいは予知夢、というのでしょう。これもお姉様が教えてくれたことです。
荒唐無稽とお思いですか? 私も半信半疑だったのです。
私は空恐ろしくなって、眠らないようにしました。私が眠ることで人が殺されているのではないか。その因果に思い至ると、私の眠りなど問題にもなりません。とはいえ人の身、幾日も眠らぬことはできません。睡魔を断つために刺繍針で腕を穿っていたのですが、三日もするとうたた寝をしてしまいました。
その夢のなかで視た女の特徴が、雪野お姉様と似通っていたのです。
まだ遠くおぼろげな夢でも、肩に流した御髪が揺れていたのがわかりました。しかし、悪夢と殺人鬼の因果が確たるものでもなし、悪夢の人物がお姉様という証もない。私が悪夢の話を聞かせても、好奇心をくすぐられることはあっても、身の危うさを感じている様子はありませんでした。お姉様は楽天すぎるきらいがありましたから。そのような側面も、好ましく思っていたのですけれど。
当の私はというと、殺戮劇を視るという恐怖に押負けて、夢を遠ざけました。
眠らないように、悪夢をみないように。
ここ数日はお姉様が室を抜け出さないよう、扉の前に座り込んで寝ずの番をしていました。
匂いが……匂いが消えないのです。悪夢のなかで香る、あの匂いが。起きている間も鼻の奥に染みついて消えない。工場の排煙が濃霧のように垂れこめて、私の意識を窒息させていきました。
事件の起きた宵の口。あろうことか、私は眠ってしまったのです。
その眠りのなかで悪夢をみました。お姉様が襲われる悪夢を。彼女の死の瞬間は、悪夢のはずなのに、眼前の出来事のように鮮明に浮かぶのです。死の絶望に溺れる彼女の表情が。死後の静止ではありません。死にゆく苦痛の動態を、肌を合わせに感じ取ったのです。お姉様の肉が冷えていく変化さえ、揮発する血の咽かえる悪臭さえ。
私が彼女を殺したのではないか。悪夢から逃げなければ救えたのではないか。
彼女の苦悶が眩暈となって、私を襲うのです。
先生、どうしたら。私はどうすればいいのでしょうか。
さらなる凶行を止める為にも、より深く悪夢に浸かるべきなのでしょうか。それとも、二度と悪夢など視ないように、この頭蓋を割裂いて脳をすり潰せばよいのでしょうか。どの道、私は苦しまなければなりません。お姉様を見殺しにした罰を、彼女の無念を、せめてこの身に受けなければ。
先生は私を責めないのですね。罵り、なじって下さったらよかったのに。
お優しいです。優しくて、残酷なひと。お姉様の死から逃がしてはくれない。
いいえ、先生がおっしゃるなら、その通りにいたしましょう。先生が望まれるように。
夢も視ず、死体のように口をつぐんで眠る。なにも感じず、なにも視ずに朝を迎える。そうするために抱いて下さるのですね?
殺人鬼は官憲に任せるべきなのでしょう。予知夢など、他人からすれば世迷言ですもの。信じてもらえるはずありません。私も精神病棟に押し込まれたいとは思いません。
今夜だけ。この夜だけは溺れさせてくださいまし。仮初の温もりでも構いません。
独りきりの室には帰りたくありません。雪野お姉様のいない、ぽっかりと空いた虚が、私を呑み込もうと迫るから。
手を、手を握って?
死体よりも凍える私の手を、先生が温めて。
底冷えする夜が、私を静止させないように。
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