第二夜

 先生、ごめんなさい。一週間と経っていないのに、またこうして夜分に押しかけてしまって。ご迷惑なのは承知しております。お詫びのしようもありません。けれど、今晩は先生の優しさに甘えさせてください。

 お仕事の途中でしたよね。獺祭とでも呼ぶのでしょうか、書机が随分散らかっているように見受けられます。お部屋も雑然として、お洗濯をなさる暇もないのですね。カフスが取れかけていらっしゃいますわ。よろしければ縫い直しましょうか? いえ、差し出がましいことを。お節介でした。

 はい、私の夢に関することです。それが……ここ数日、悪化の一途で。

 悪夢です。霞がかった夢が、徐々に近づいて来る。今迄では彼方にあって霞んでいただけ。それが一歩、また一歩と這い寄る。黄昏で闇が深まって行くように、段々と。こんなものは癖の悪い妄想で、影に怯えるなんて愚かしいと分かっているのです。

 寝不足のせいで講義の最中に舟を漕いでしまっても、悪夢を思い出して飛び起きる有様で。

 とっておきの匂い袋をもらいましたのに。情けない体たらくで、この身の不出来を恥じるばかり。先生に頼るしかない私に呆れられたことでしょう。愛想を尽かされても仕方ありません。

 悪夢の子細をお話しするのは、当然のことだと思います。診てもらおうというのですから。ですが、思い起こすと蘇るのです。なまぬらに生きた恐怖の吐息が。

 ええ、恐怖です。漠然とした鬼胎きたいではありません。

 私の胸のうちで明らかな怖れが、荊棘となって痛むのです。

 いえ、きちんとお話します。夢のことで支離滅裂な話でありますから、お聞き苦しいと思います。どうか、ご容赦ください。

 毎夜、同じ夢。毎晩、同じ恐怖。

 はじめは駆ける足音が薄らに聞こえてきます。次第に克明になり、砂礫の弾けるささやかな動態まで把握できます。誰かの逃げ惑う様子が手に取るように解る。

 ひゅうひゅうと、背後から、耳元から、病んだ野犬のごとき喘ぎが追ってくる。追いついている。泡の弾ける、涎の飛び散る。濁った黄色い目玉さえ想起される、おぞましい吐息です。どこを駆けているのか、なにが喘いでいるのか、皆目見当もつきません。

 暗澹とした泥に覆われた夢中で、物事を判別することはできません。ただ体表を覆う不快な痒みと痺れはその主張を増し、毛穴から血を絞り出そうとするかのような痛みにとって代わります。

 悪夢で視る情景と、夢の中で妄想する出来事が重なり合います。私にも悪夢なのか、私の妄想が夢中で具象化したものなのか、判断がつかぬのです。断片的な音、手触り、情動、自身の体感をもとに推し量るのみ。

 激しい動悸に襲われ、悪夢のうちでも、鈍重にのしかかる疲弊に抗おうとしています。自らの肉でそう感じるのです。

 逃げているのでしょうか。追われているのでしょうか。あるいは、私が追っているのでしょうか。

 自分すら失うほど、視野が泥で塗り固められてしまう。

 怯えです。目が覚めた私は、歯の根が合わぬほど青褪め震えているのです。

 悪夢の中で目が奪われ、わかったことがあります。私たちが瞳で捕らえている実像の背後には、実体を遥かに凌駕する衝動が潜んでいる。氷山の一角とでも言いましょうか。私たちはそれを、目にすることで覆い隠しているのでしょう。形と名前を与えて、正体を希釈しているのでしょう。無意識に蓋をしているのです。それが地獄の釜だと理解しているからこそ。

 やはり、不明瞭な話になってしまいましたね。幼い時分から、もうちょっとばかし文学に親しんでおくべきでした。私自身が、怯えの実体を言い表す語彙を持たぬのです。寡聞にして浅学なこの身をお許しください。とまれ、これらが私の悪夢なのです。

 なにか私に恐怖を催すものがあり、逃げるという印象を与えているのかもしれません。

 大枠は判然とせず、細部のみでありますが、夢から覚めたのちもはっきり覚えているという点において、矢張りただの夢とは異なるようです。

 手を握って下さるのですか。先生の前で震えるだなんて、お恥ずかしいところを。

 先生の手は温かいです。人肌とは、これほどまでに熱いものなのですね。

 わがままを言っても良いですか?

 先生さえ許して下さるなら、しばらく握っていてくださりませんか。少しの間でよいのです。私の動悸が収まるまで。私の怯えを覆って、隠して。

 恐いです。近頃、街で事件がありましたでしょう。猟奇殺人だったとか。雪野お姉様は噂好きですし、級の方々も好奇に飢えていますから。この手の話は出回るのがはやいものです。当然、相応に尾ひれを伴っておりますけれど。死骸が華のように活けられていたとか。四肢がもがれていただとか。人の歯型で食い漁られた共食いカニバルだったとか。真実味のない脚色ばかり。みなさん、死体のもの静かさというものをご存じないのでしょう。

 一度、故郷で死体を見てしまったことがあるのです。熊に襲われた少女の死骸です。

 冬眠から目覚めたばかりの飢えた雌の月輪熊でした。痩せてこそいるものの、五尺にも届こうかという大物です。

 熊は本来臆病な生き物。まして、月輪熊が人を襲うなどありません。しかし、眠りを妨げられ、怒り狂った獣は牙を剥く。少女は熊の肩口の毛皮が濡れているのを見たのです。誰かが熊にちょっかいを掛けた。猟銃の玉が掠めた痕。

 少女は逃げることも儘ならず、昏い空に浮かぶ三日月をみました。

 爪の殴打を受けて千切れた鼻がぶらりとたれさがっているのです。熊の習性で、ひととおり腸を食い荒らすと獲物を隠します。不運なことに、少女は直ぐには死ななかった。顔を引き裂かれ、生白い腹を暴かれても、まだこと切れていなかった。覆い隠された穴の中から、弱々しく這い出そうとしたのでしょう。点々と血の落ち葉に滴る跡が続いていました。

 錯乱した痛覚が、空腹だと勘違いさせたのかもしれません。少女は発見されたとき、自らの指を食いちぎっていました。肉のある親指の付け根を齧るに足らず、人差し指の肉を食らい、血を啜る。壮絶な死にざまでした。しかし、それらは生前の様相に過ぎません。死んでしまえば、灰色の体が寡黙に腐っていくのみ。

 死体からは、その死にざまを想像できます。ですが、目の前にあるのは生命の静止。

 死に内包される刹那の熱狂は、死体という実像に覆い隠されてしまうのです。蓋をされてしまう。隠されてしまう。すべては過ぎた妄想だと冷や水を浴びせ、生者を押し黙らせる。手を合わせるのは、寡黙にされた私たちの言い訳なのです。死体に言葉を奪われた私たちの、せめてものあがき、でしょうか。

 非礼をお許しください。品のない話柄でした。気分を害されたことでしょう。

 つまらないことをべらべらと。先生と居ると、浅ましく舌を回してしまいます。普段はこうはしたなくありませんの。

 きっと、自分の記憶を掘り起こして不安に拍車がかかっているのですわ。

 血腥い事件なんて、ぞっとしませんもの。はやく犯人が捕まってくれるとよいのですけれど。

 私などとは違って、雪野お姉様は平然としたもので夜遊びをやめられないみたい。私が咎めても、蹴り飛ばしてみせるなどと勇ましいことをおっしゃって。乙女は腹のうちに刃を潜ませている、とはお姉様の口癖です。逃げ追い掛けの駆け引きも、遊びのうちと心得ているのでしょう。それでも、私は身の細る思いです。先生からも、一言お声がけしてあげてください。彼女に何かあったら、ほんとうに眠ることもできなくなってしまうでしょう。

 先生、それで……今日は香を焚いて頂けませんか。夢もみないほどの強い香りを。

 二度と目覚めない方が、幸せかもしれません。

 いえ、いまのはお聞き流してください。眠れないせいか、思考も曖昧で、よからぬことばかり考えてしまうのですわ。

 はい、ありがとうございます。

 先生も夜は戸締りをしっかりして、十分にお休みになって。お仕事を山積されていらっしゃっても、食事と休息は必要ですわ。我が身のことは疎かになりがちですもの、ご自愛なさって。

 先生さえ許して下さるなら、私が身の回りのお世話を致しましょうか。お掃除、お洗濯、お食事のお世話を。こう見えても炊事場に立ったとこもありますの。箱入りなばかりではありません。嫁入りに十分な女の手習いは身に着けていますわ。先生ご自身で確かめてみては如何かしら。

 あら、素っ気ないお返事。無論、小娘の戯言ですから。気を悪くなさらないで。

 ほんの悪戯。そう、ほんの児戯ですから。

 ありがとうございます、かぐわしい香煙ですわ。身体が軽くなるよう。これでぐっすり眠れると嬉しいのですけれど。

 先生も、よい夜を。

 きっと、眠れます。眠れますよ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る