悪夢の薫香

志村麦穂

第一夜

 私、矢張りどこか病んでいるのでしょうか、先生。

 このところ生気が凪いでいるといいますか、床に就いても草臥くたびれたままなのです。熱帯夜が布団に根を下ろしたようで。眠っている間中、手足がむず痒い、痺れるようなもどかしい疼きが纏わりついていますの。

 いえ、きちんと眠ってはいるのです。夜更かしもいたしません。洋燈ランプの油がもったいないですから。夜中に目が覚める、ということもありません。臥床ねどこは乱れなく、輾転てんてんとした気配もない。夢のうちで起きている、とでもいうのでしょうか。

 身体は微睡みのなかで正体をなくし、意識だけがさやに冴えている。暗闇のなかで研ぎ澄まされ、些細な物音も耳鳴りに変るのです。同室のお姉様の寝息。鼠による配線の味見。見回りで舎監の立てる床鳴り。眠っているからには指先ひとつ動かせず、耳を塞ぐことも儘ならない。眠っているのに、辺りの音が気になるなんておかしな話だとお思いでしょう。とまれ、夜明けまで耐え忍ぶしかないのです。

 朝になると、この身が眠っていたことを知ります。夢の中で苛まれていたのだと気が付くのです。

 しばらくは眩暈で起き上がることもできません。溶けた鉛が胸の奥を埋め尽くして、ひたすらに神経を衰弱させるのです。まるで駆け回っていたように身体が重く泥と崩れてしまう。っと横になっていれば、恢復するのですが。

 目覚めると夢の出来事を忘れる、といいます。しかし、此度の夢は違いました。

覚えているのです。夢の中で感じていた、鬼胎きたいとあの匂いを。

 明晰夢、というのでしょうか? お姉様が怪談めいたお話をなさるから……申し訳ありません。このような要領を得ぬお話を先生にお聞かせしてしまって。雪野お姉様は良くも悪くも楽天家ですし。故郷を離れて、他に頼れる知り合いもありません。

 具合ですか? 少々頭痛がして、日差しを眩しく感じる程度でしょうか。生まれつき丈夫な方ではありませんでしたから、脳貧血を起こすことも数々しばしば。このぐらいは良い方でして、すこぶるどこか悪い、というお話ではありませんの。

 ええ、きっと。馴染めない寄宿舎の暮らしで、気が細っているだけなのですわ。

 それで、不躾なお願いになるのですが、聞いてもらってもよろしいですか?

 以前、先生から頂いたお香を思い出して、もしよろしければまた頂けませんか。

 先生の郷里で作られている香草、でしたか。あの香りを吸い込んだ夜、気の張りも和らいでぐっすり眠れたことを思い出したのです。あの頃は上京したばかりで、街にも人にも怯えていました。不眠症に陥り、故郷の情景に思いを馳せて袖を濡らす。みっともない限りでした。お姉様は気を遣って触れないでくださいましたが、赤く腫れた瞼をみれば誰だって気が付いたことでしょう。

 思えば、あの頃からでしょうか。変った夢見をするようになったのは。

 お香を焚いて頂いた夜、ぐっすり眠れたのに、不可思議な夢を見ました。素より眠りは浅く、夢見の悪い性質だったのです。とはいえ、起きてしまえば薄明に霞みとほどけてしまうような淡いものばかりで、はっきりとした形を覚えていることはありませんでした。しかし、あの晩は違っていて、とある匂いが染みついて離れなかった。

 熟れて地に落ちたイチジクの実のような。溽暑じょくしょが去らぬ立秋、土熱れにゆだされた雨粒が空に上がり、ほのかな腐臭と喉をいがらせる甘い匂いを引き連れる。先生のお香は、夢の匂いと似通っているのです。

 他に覚えていることですか? 私の夢に興味がおありなのですね。それともお気を遣わせてしまいましたか? 先生はお優しいから。

 精神医学の観点から、ですか。

 そういうことにしておきましょう。ですが、ご期待に沿えず、申し訳ありません。夢といいましても、会話や場面のような事物の記憶があるわけではないです。漠然とした薄暗さと、あの匂いがあるだけなので。どう、ということもできません。

 星もない、広々とした夜の海に、小舟で浮かんでいる心地といえばよいでしょうか。

 雪野お姉様ですか? 彼女は私に善くしてくださいます。仲違いなど杞憂ですわ。ただ、女学生にしては、悪い遊びを覚えていらっしゃるようだけれど。週末には寄宿舎を抜け出して、活動寫眞やカフェー、私に言えぬような処にも足を運んでいらっしゃるみたい。何度か遊びに誘われたことがありますが、もちろん行ったことなどありません。本当ですよ、先生。

 先生は告げ口するようなことは致しませんよね。お優しいですから。

 拗ねないでください、先生。ほんの、冗談です。気を紛らわしたかっただけの、悪戯心です。

 私を許してくださいますか? もちろん、雪野お姉様のことも、大目にみてくださいませ。私のせいで罰を受けられたら、悔恨の念に堪えず、却って眠れなくなりそう。

 先生とお話していたら、気分も上向いてきましたわ。毎日、こうしてお時間がとれたらいいのですけれど。先生もご多忙ですし、私が先生を独り占めしたら他の子たちの悋気を煽ってしまうかもしれません。

 あら、匂い袋を下さるのですか。いい薫り……胸がくすぐられるよう。

 そう、先生のとっておきなのですね。

 先生が私などに気をかけて下さる。それだけで歓喜に胸が震え、正しく夢見心地なのです。

 今宵はよく眠れそうですわ。

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