ある雪の日に。
しんしんと雪が降っている。
昔は、雪が嫌いだった。積もる時は特に。
傘は重くなるし、長靴を履いていても足は冷たくなる。何より歩くだけで重労働なのだ。だけど、雪の降らない街で生きるようになってからは、雪の降らない冬を寂しく思うようになった。
人ってひどく勝手な生き物だと思う。
手から離れた途端に惜しくなるのだ。
空気は冷たいのに、雪道を歩いたおかげで汗が出るくらいに暑い。
吐き出す息の白さが体内と外気の温度差を教えてくれる。
雪が積もっているといってもくるぶし程度の積雪なのだが、最近とんと雪道に縁が無かったので妙に疲れてしまう。
三十分はかかる距離。車で連れていくというのを断って、歩いてきた。どうしても、自分の足でここまで来たかった。
音を吸い込む雪の日でも、一等静かな場所。
時期が外れているのもあって私以外に訪れる人はいなさそうだ。人の気配がまったくない。
さくりさくりと足跡のついてない道を歩き、目的地へと向かっていく。
雪が昨日降りだしてから訪れる人はいなかったのだろう。誰にも踏みにじられていない真っ白な雪が積もっている。
景色の全てが白く塗り替えられる様は、浄化にも似ていた。
ここに来るなら本当なら華のひとつでも持って来なければいけないのだろうけれど、あえて何も持たずに来てしまった。
だってそんなの私たちには似合わない。
身一つで会いに行った方がとても「らしい」。
到着する手前で傘に積もった雪を降り落とす。
手袋をし忘れた手がかじかんでいる。ポケットに入れていた左手で触るとひどく冷たい。皮膚が痛むほどの寒さを感じるのも久しぶりだ。
立ち止まった先、視線の先にあるのは、大好きな人の眠る場所。
「来たよ。翔」
雪で白く染められている墓石に触れる。
手でさっと薄く積もった雪を払うと熱く感じるくらいに冷たかった。
溶けた雪で手が濡れる。
雪を払いきると勝手に満足してハンカチで手を拭いたが、そうしている内にまた雪がちらちら積もってきた。まあ、仕方ない。
「明日で、一年だよ。……はやいね」
ぽつりぽつりと話し出す。いっぱい聞いてほしいことがある。
「翔が来てくれたあの時に、それまでに言いたかったことは全部話したから。今日は、あれから先の話をしに来たんだ」
あの日からの私のこと。聞いてほしい、翔に。
「ちゃんとフレンチトースト作って食べてるよ。翔にも負けないくらいに上手になったんだから。……いつか食べさせてあげるね」
静香にも好評だった。一度写真を見せたら食べたいって言われて作ってあげたんだ。
「それでね、就職も決まったんだ。玩具会社。駄目元だったんだけど受けてみたら受かってさ、私、来年から社会人になるよ」
スーツを着て、満員電車に揺られて出社して、仕事をする自分はまだ想像できないけれど。
「ねえ、翔。喜んでくれてる? ……そういえば、翔が就職先どうしたいかって聞いたことなかったね。希望とかあったのかな? あんまり考えてなかったとかでも翔らしいけど。それでもどこかしら就職出来ちゃいそうだしね、翔なら」
要領の良いやつだもん。上司とも上手くやれそうだし、後輩からは好かれそう。
「就職活動大変だったよ。卒論書くのも大変だった。学生生活最後の一年間はやることがたくさんあったよ。忙しかった。だけどご飯はちゃんと食べた、睡眠もちゃんととった。友達と卒業旅行にも今度行くんだ。……私、さ、ちゃんと幸せだよ」
ほんの少しだけ声が揺れる。
本当は今でも、寒い日には翔を思い出して少し泣いてしまう。
帰り道に伸びるひとりぶんの影を見て寂しくなってしまう。
心がすうすうしてしまう。
でも、そんな時もあるけれど、安心してほしい。
「仕事がはじまったらさ、きっとめちゃくちゃ大変だと思う。私が思ってる以上に働くことって大変だと思う。学生だったら許されてたことが社会人になったら完全に自己責任になるだろうし。嫌になることもいっぱいあると思う。私が思ってたような仕事じゃなくて落胆したりとかもするかもしれない」
だけど、と私は言葉を続ける。
「私は幸せになる努力を絶対やめない」
泣いてしまっても寂しくなっても、それを全て包み込むような優しい思い出が私にはあるから。
「いざとなったら、お母さんにお父さん。亜由美さんにおじさんも私の味方だしね。勿論、翔も」
そうでしょう? と自信を持って聞く。返事は当然ないけれど翔の答えは想像がつく。
「明日、また来るね。皆と一緒に」
私が今から翔のところに行ってくると両親に言うと、雪の日なのにわざわざとか。どうせ明日も行くのだから。とは二人とも言わなかった。
父が「送っていこうか?」とそれだけを私に聞いてくれた。
……ああ、手が、凍りそうに冷たい。
手袋を忘れたのは完全に失敗だった。
手をポケットの中できゅうっと握るとじんわりとだけど温かさを感じる。
「ああ、そうだ。……もし、もし、どうしても耐えられない時はここに泣きつきにきてもいい?『一度は失敗して泣きつきに来るんだろうなあ』って言ってたもんね?」
たった一週間だったけど。たくさんの話をしたね。一緒にご飯を食べて、歩いて、笑って。
こんなにも寒い場所にいるのに、心だけが暖かい。
次第に、熱が移ってしまったのか喉も目元も熱くなってきた。
温かい物がこぼれるけれど、はらはらと落ちたそばから風にさらされて冷えていく。
「…………ねえ。ねえ、翔」
寒さのせいだけでなく、鼻をすんっとかむ。吐く息がさっきよりも白い。
「わたしね、生きてるよ」
返ってくる言葉はない。
ドラマみたいに、翔の存在を感じられるような不思議なことは起こらない。
だけどそれでも構わない。ちゃんと見守ってくれているはずだから。
頬を袖口でぬぐって傘を持ち直す。
手も耳も頬も外気に触れている部分は熱を持ったようにじんじんと熱い。
気持ちを落ち着かせるように息を吸ってから「また、明日」と言って翔に背中を向ける。
来たときの自分の足跡を子どものように正確に踏み直しながら、そこから離れていった。
雪を踏みしめる自分の足音だけが聞こえる。さく、さく、さく。一歩、もう一歩。さらに一歩。
歩いて行ったその先に、一体何が待っているのだろう。今は強がりではなく明日が楽しみだから、きっとまた翔に言いたいことが出来るだろう。
またね、翔。
カケルとすごした七日間 軒下ツバメ @nokishitatsubame
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