日曜日

 足を前に踏み出す、一歩。また一歩。

 絆創膏は、はがれてしまった。

 鈍い痛みがあるのが分かる。それでも足を、前に。


 翔が家にやってきたあの日、私はどろどろに疲れた身体をひきずりながら歩いていた。

 レポートを徹夜で書いていたからじゃない。

 前の日も、その前の日もその前も、その前も、食事も睡眠もまともに出来なかった。

 一日たつごとに身体が重くなっていっても、大学の友人に翔の話は出来なかった。

 だって、どう言えばいいんだ。

 どんな空気で、どんな言葉で、どんな表情なら話せるのか、話しても許されるのかを私は知らない。

 大事な、家族の一人がいなくなってしまったんだって。信じたくないんだって。向き合えないんだって。何をしても思い出してしまって、何も出来なくなってしまうんだって、どう伝えればいいの。

 普通の、大学の、友達に、どう相談すればいいんだ。

 亜由美さんやおじさん、お母さんやお父さんにも連絡出来なかった。

 彼女たちと話してしまえば私は翔がいない事実から逃げられなくなる。

 自分に思い込ませるように嘘を重ねて、普通のふりをして、何もないかのように、翔は今も当たり前に呼吸をしているのだと思って、毎日を続けた。

 だっておかしいから。

 私がこんなにも今まで通りの毎日を過ごしているのに翔がいないなんてそんな未来あるわけがない。

 皆が当然に過ごしている今が翔にはないだなんて、そんなのあっていいわけがない。

 私が生きてるのに翔がいなくなるわけがない。

 無理に、歪めた。事実を私の中で歪めた。

 そうしないと、もう、駄目だった。

 そうでもしないと、私は立ちあがることも出来なかった。

 自己暗示をすることで、どうにか私は冬休みが終わる頃には笑顔を張り付けることが出来た。

 外では、今までの私。家に帰れば、喪失感で死にそうになる毎日を、繰り返した。


 足を前に一歩踏み出す。


 たったそれだけのことが、苦しくて苦しくて。だけど――。


 家にたどり着く頃には、もう日付は変わっていた。

 ……翔は、まだ私の部屋にいてくれるだろうか。夢のように消えてしまっては、いないだろうか。

 扉を開けるのが、怖い。

 鍵を回した瞬間に恐怖が込みあがってきた。

 もしいなかったら。もしこの一週間が私の妄想だったら。もし二度と翔に会えないなら。私は。

「お帰り」

 開いた扉からもれた部屋の明かりが私の足元まで届く。

 俯いていた視線をあげると、光の中に、翔がいた。

 私の足音と、鍵が開いた音で帰宅に気づいたのだろう。扉の前でたちすくんでしまった私よりも先に、扉を開けてくれた。

 もしか、したら。ずっと待っていたのか。

「もう十二時過ぎてるんだぞ。あの街灯が少ない道を通って帰って来たんだろ。危ないだろうが」

「…………ごめん」

「何も言わないで出て行くし、夜になっても帰って来ないし。……心配した」

「…………ごめん」

 いつもの口煩い言い方と違う。本当に心配をかけたんだ。

 いつどこで何が起きたっておかしくないって、私より翔の方がよく分かってる。身をもって。

「今日はもう、風呂入って眠れ。何か話したいことがあるんだとしても、それは全部明日だ」

「…………うん」

 声が、優しい。翔のくせに私を泣かす気か。

 どうしても、まだ、泣くわけにはいかない。

 靴を脱ぎ、部屋に向かおうとする。けれど翔に言われた通りに就寝する準備をする前に、彼に言うべき言葉があるのを思い出した。

「翔」

 テレビのリモコンを持った、翔が振り返る。

「ありがとう。あと、ただいま」

 翔は、仕方ないとでも言いたそうな顔で、笑った。


 眠れないかと思ったけれど、一日中動き回っていて身体は疲れていたようで、横になるとすぐに眠気がきた。

 深い眠りから目覚め、意識が浮上する頃には、もう窓の外から明かりが差し込んでいた。

 冬は日が昇るのが遅い。

 長い長い夜を眠れずに過ごすのは、苦しかった。

 だけど、もう。

「おはよう」

「おはよ。ちゃんと眠れたか?」

 彼が開けたのだろうカーテンの向こうから差し込む朝日に目を細める。

 翔の声が、優しい。……朝から泣きたくなってしまうじゃないか。

「うん。ぐっすり眠ったよ」

「そりゃ良かった」

 柔らかく笑う姿を見て、泣きたくなった心をぐっと飲み込む。

「……ねえ。今日は朝ごはん私が作るよ。元気が出るフレンチトースト、作る。味見してよ、せっかくだから」

 まだ、翔がここにいる内に。その言葉は声にしなかった。

「じゃあ、俺は他に何か作るか。……焦がすなよ」

 くつくつと笑いながら翔が言う。

 焦がさないよ。中学生の私じゃないんだから。

 卵を割って、かき混ぜる。やわらかく、やわらかく。くるくる。くるくる。

「なあ、奏」

「なあに?」

 お互いに手を動かしながら話す。顔は、見ない。

「明日からも、朝もちゃんと飯食べろよ」

 くるくると、やわらかく、混ぜる。

 混ぜるごとに、心がまとまっていく。

「……うん」

 卵に涙が混ざってしまわないように、少し上を向きながら、私は手を動かした。

 教えてもらった通りに作ったフレンチトーストは、まずまずの出来だった。

「これは、私、才能あるんじゃない?」

「何の才能だよそれ」

「フレンチトーストを作る才能」

「限定されすぎだろう、それ」

 私が作ったフレンチトーストと、翔が作ったスープとサラダを一緒に食べる。

「……作るね、また今度。ひとりでも」

「そうしろ、飯はちゃんと食べないと心が荒むからな」

 温かいスープが身体に染み渡る。

 美味しい。とてもとても美味しい。涙が出てしまいそうになるくらいに美味しい。

 目の前に翔がいるからだろうか。ひとりじゃないからこんなにも美味しく感じるんだろうか。

「不思議だよね。温かいご飯って、それだけでほっとするの。誰かと食べることもそう。適当に作ったものをテレビを見ながら、味も対して気にしないで食べるのが、ね。一人暮らししてから多かったんだ。普通の時も。これっぽっちも美味しくなかった。必要だから、食べてるだけで。何も感じなかったの。ただの作業みたいだった」

 翔は黙って私の話を聞いてくれている。

 ひとりが、苦しくなった。けど、だけど――。

「地元にいた頃は、そんなことなかったのに。ひとりで食べるご飯は、作業みたいだった。……だけど、ね。思うんだ。きっとこれからは――少なくともフレンチトーストを作って食べる時は、翔を思い出すよ。ひとりでも、作業みたいな食事じゃなくなるよ」

 きっと、そうだ。

 卵をくるくるとかき混ぜる時、これから先、思い出すのは得意気に笑う翔の顔だ。

「今度家に帰ったら、お母さんに料理教えてもらって、そう思えるレパートリーを増やすよ。そしたら、ね。……きっと大丈夫な気がするんだ」

 無理をしているわけではなく、自然にそう思えた。そうすれば、私はきっと大丈夫。

 まぶしそうに少し目を細めた翔は、そうか。と、顔をくしゃっとさせて笑った。


 決定的なことを話さずに、私たちは他愛のない話ばかりをした。

 大学で出来た友達の話。ゼミの愚痴。バイトであった面白い出来事。

 私たちが初めて喧嘩した日のこと。――翔が私のぬいぐるみを汚したせいで喧嘩になった。

 小学生。捨て犬を見つけ、うちで飼いたいとお願いしたけれど、どちらの親にも駄目だと言われて秘密基地で育てようとした。――だが準備しているうちに、犬はいつの間にかいなくなっていた。今思うと無謀な考えからの行動だったので、優しい誰かがいて本当に良かった。

 中学生。部活でスランプになった翔。サボっている翔を見つけた私が、驚きの熱さと溢れる青春パワーで説教した。――改めて話されると恥ずかしい。今となってはもう素面であんなこと出来ない。

 高校生。上京するか、地元に残るか悩んだ私。――背中を押してくれたのは、翔だった。うじうじと悩んでる私の背中を、痛いくらいの勢いで押したのは、翔だった。

 離れてた二年間のことだって、話題は尽きない。けれど全部の思い出を話し出したらそれこそキリがない。

 昼ご飯は、翔の作ったパスタだった。

 中学生の時に私に衝撃を与えたやつと同じだそうだ。

 あの日、私が来ていたことに翔が気づいてたというのを、七年ぶりに私は知った。

 私の母から、対抗するように料理の手伝いを奏がするようになったと聞いて、翔は密かに笑っていたらしい。

 何年もたってから知らされた事実に、あまりにも腹が立ったので、手近にあったクッションを全力で顔面に投げてやる。

 まさか投げつけられると思わなかったのか、綺麗にクッションは翔の顔に直撃した。

 うめき声をもらした翔はすぐに、子どもか! と叫びながら投げ返してきたが、来ると分かっているものを黙って待っているわけがない。彼とは違い華麗によけてやる。

「よけるな!」

「そう言われて聞く人がいると思うか!」

「いないけど、よけるな!」

「翔こそ子どもか!」

 お互いにパスタは避難させてからのやり取りである。

 子どもの頃と変わっていないことにおかしくなって、同時に二人で笑い出した。

「きっと、私たち親になっても孫が出来ても、二人になったらこのまんまなんだろうね」

「嫁とか旦那に呆れられるんだろうな。自分の子どもにも、大人げないって思われるかもな」

「じゃあ改めなよ」

「お前が変わらない限り無理だ」

「私だって翔が変わらない限り無理だね」

 話は平行線だ。私たちはきっといつかまた会う日も、同じようなことをするだろう。

 動いてお腹も空いたから、その後は大人しくパスタを食べた。

 やっぱり美味しくて悔しい。いつかは追い付けるだろうか。

「なあ、せっかくだからまだ見てなかったやつ見ないか?」

 パスタを食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいると、翔が金曜日に借りたDVDを取り出してきた。 

「見てなかったのって、となりのトトロ?」

「そう、懐かしいよな」

「翔、となりのトトロ好きだったっけ?」

 そう言うと、呆れるような顔でこっちを見られた。そんなに変なことを言ったつもりはなかったのだが。

「好きなのはお前だろ」

「え、そうだっけ? 私そんなこと言ってた?」

「休みの日に、横になってるおじさんによじ登って『トトロ? あなたトトロって言うのねー!』って、メイちゃんごっこしてただろ」

 翔の似てない物まねを聞いたら思い出した。

 あの頃トトロが私の中で絶大ブームで、父や母や翔に付き合ってもらい、ごっこ遊びをしていたのだ。

「……してた。翔、お父さんによじ登る私を見て、羨ましそうにしてたよね。やりたかったの? メイちゃんごっこ」

「キャラじゃねえもん、しねえよ」

 やりたかったんだな。

「よーし、見るぞ。これ一緒に見るの十年ぶりか?」

「そうだねえ、それ以上かも。一番見てたの幼稚園の頃だし」

 久しぶりに見たとなりのトトロは、子どもの頃に見えてた景色と少し違って。不覚にも涙ぐんでしまった。

 見終わる頃には時刻が夕方に近づいていて、火曜日以来に二人で夕飯の買い物に出かけた。

 手軽な朝ごはんになるからと、翔が次々にカゴに品物を放り込んでいく。

「待って、待って。こんなに買ってどうするの、多分食べきれないって」

「消費期限長いやつだから大丈夫。それに家に何もなかった時、食べないで終わらすだろ、奏。これがあれば安心だ」

「否定は出来ないけど……、でもそんなにいらないよ」

「必要だ」

 期限が切れる前に、私はこれをちゃんと食べなきゃならないということだ。朝ごはんを食べないという選択肢は、半年分ほどの期間無くなった。

 買い物から家に帰ると、二人で騒がしく夕飯を作った。

「手際が悪い、本当に今まで料理してたのか?」

「してたよ。翔はどうして実家暮らしだったのに、すいすい料理が出来るの? 不公平だ、もともとの器用さが関係している。判定に異議を申し立てる」

「いつの間に裁判が始まったんだ」

 するすると翔が大根の皮をむいていく。厚さが均等だ。やはりもともとの手先の器用さの問題だと思う。

「……ねえ、翔。最後にくれたメッセージに返信しなくてごめんね」

「おう」

「お正月は帰ってくるのか。って、わざわざ聞いてくるなんてさ。見た時は驚いたよ」

 翔が最後に私に送ったメッセージは、とても普通の内容だった。

 帰省してくるのか? って質問。それだけ。

 日常の延長。そのすぐ後に日常が壊されることなんて知りもせずに、私は返信を後回しにした。

 返そうとすればすぐに返せるものなのに。

 もしも、すぐに返信していたら確認するために翔は立ち止まったかもしれない。

 一瞬だけでも足を止めていれば事故に遭わなかったのかもしれない。――だけど、そんなことを考えても現実は何も変わらない。

「おせちの作る量決めるから、母さんが奏に帰ってくるか聞けって言われたんだよ」

 嘘だ。亜由美さんだったら直接私に連絡してくる。

「そっか。私に会いたかったのかと思った」

「…………馬鹿」

 照れ隠しが下手だ。普段は小器用なくせに。

「翔って、器用貧乏だよねえ」

「貧乏は余計だ」

「まあ、それも良いとこだよ」

「ほめられている気がしない」

 話しながらも、順調に夕飯は出来ていく。

「お母さんと、亜由美さんの味付け違うのにさあ、私と翔の好きな味ってわりと似てるよね」

「二人の料理を食べて育ってるんだから、そうなるだろ。自分の母親の料理の方が、食べる回数多いにしてもさ」

 遊びにいって、そのまま夕飯をどちらかの家で食べることも少なくなかった。

「口癖も似てて、味覚も似てて、好き嫌いを把握してるって、それもう家族だねえ」

「……家族だろう」

 そうだね、今更だ。物心つく前から一緒にいて、育って、喧嘩して、仲直りして、ご飯を食べて、遊んで、一緒に泣いて、一緒に笑った。

「私が姉がいい。誕生日、私の方が先だもん」

「どう考えても、俺が兄で奏が妹だろう。誕生日は関係ない」

「関係あるでしょ。じゃあ四月一日と四月二日で学年変わるのとかどうするのよ」

「今それ関係ないだろ」

「大いにあるでしょ」

 反論すると翔が大きくため息をつく。

「ああ、もう。じゃあ双子ってことでいいよ」

「見た目似てないのに」

「男女の双子は二卵性だから、似てなくてもおかしくない」

 なるほど。それなら問題はない。……名字は違うけど。

「……本当に兄弟だったら、説明とか楽だったのにね」

「説明?」

「クラスの子とか翔の彼女とかへの」

「その節はすみませんでした」

 手を止めて翔は軽く頭を下げた。どれだけ迷惑をかけたか自覚があるのは良いことです。まあ、誤解される可能性があるのに、翔と距離をとれなかった私も悪いんだけれど。

 男の子じゃなくて、私にとっての翔は本当に家族なんだって他人に理解してもらうのはとても難しかった。

 嫌気がさして、翔と少し距離を置こうと考えてみたこともあったけれど、彼をただのクラスメイトの一人みたいに振る舞うのは無理だった。

 家族の距離感を変えることは出来なかった。

「もう、いいよ」

「……もし、奏に彼氏いたら俺はそいつと仲良く出来たかな。まあ変なやつだったら別れさせたけど」

「お父さんの前に翔チェックが入るのか」

「当たり前だろ。そうだ、正とかどうだ。それなら文句ない」

 私の意思は無視なのか。

「菅原? 翔の友達としてしか見てなかったから、考えたこともないよ」

「じゃあ、明日から考えてみれば? 良いやつだぞ、ちょっと面倒くさいところはあるけど」

 お見合いをすすめてくる人って、こんな感じなんだろうか。

「あー、もう焼き終わるねー。私、お米よそうわあ」

「なんだその棒読みは」

 夕飯の準備が整う。これが二人で食べる最後のご飯だ。

 サラダに大根のみそ汁。昨日の残り物の焼き鮭。それに、ハンバーグ。

 子どもの頃、私も翔も大好きだった亜由美さんの作るハンバーグ。

 翔の作ったハンバーグを食べてみると、亜由美さんが作ったものとそっくり同じ味だった。さすが器用貧乏。

「美味しい」

「それはどうも」

「私も作れるかな?」

「母さんに今度教えてもらえば、出来るだろ」

 そうだね。そうする、今度会いに行くからその時に聞くよ。

「ついでに俺の墓参りもしていけよ」

「……うん。……ねえ、翔。…………ううん、なんでもない」

「なんだそれ。聞いておいてなんでもないって」

 ここからいなくなったあと、翔はどうなるの。

 聞きたかったけれど、そんなこと翔だって分からないだろう。でも願っても許されるなら、どうか――。

「ごちそうさまでした」

 夕飯を食べ終わり片付けもすますと、またコーヒー片手に話しをした。テレビもつけずに二人で話しをした。

 他愛もないことを話した。明日もこの日が続くかのように。

 昔話にまた盛りあがっていると、カチリ、という音が意識にひっかかった。

 音に引っ張られるように、その先に目を向ける。

 夕飯を食べ終わった時間から、時計の針はだいぶ進んでいた。

 針が、十二時に近づいていく。もう少しで今日が終わってしまう。

「……もう、そろそろ?」

「もう、そろそろだな」

 針よ、止まれと思うけれど、時間は止まってくれない。

「気づいたらさ、ここにいたんだよ。お前が帰ってくる少し前に」

 あの日、翔があらわれた日の話だ。

「最初はここがどこか分からなくて、鍵開けて部屋から出ていこうと思ったんだけどさ。玄関に置いてある郵便物見たら、寺田奏さんのお宅にいるって分かってな。さあ、どうしようかと思って、適当に理由作って奏の帰りを待ってたってわけ」

「もし、私が幽霊だってことに怯えて逃げたらどうするつもりだったの」

「それはそれ、まあ、何とかしたさ。実際お前は俺が生きてるってことにしたわけだし」

「そう、だけど。……どうして私の我儘に付き合ってくれたの」

 不思議だった。どうして翔は何も言わなかったのか、どうして私が聞いてしまうまで、翔が生きていると信じて振る舞う私に付き合ってくれたのか。

「だって、その方が自然に一緒にいられただろ。奏と普通の日常を過ごすために俺はここに来たんだ。だから俺にとっても都合が良かったんだよ」

「日常、を?」

「そう。だって、寂しいだろ。あれだけ一緒にいたのに、最近のお前のことあまり知らないんだ」

 ひどく単純な理由。唐突なさよならが寂しかった、それだけ。

「それ、だけ?」

「それだけって……、大事だろうが、それが、一番」

 悩んでた私が馬鹿みたいに、当然だとでもいうように翔が言う。

 でも、そうだ。確かにそうだ。翔が正しい。

 私たちはずっと一緒にいた。普通の毎日を一緒に過ごした。だからほんの些細なことでも私は翔を思い出す。

 ぬいぐるみを見れば、喧嘩したあの時のことを。

 犬を見たら、小学生のあの時のことを。

 部活をする学生を見たら、翔に説教をしたあの時のことを。

 受験の時期になれば、あの日私の背中を翔が押してくれた時のことを。

 ああ、私、やっと分かった。

 おばあさんの言葉の意味が、全て。

「あと少しで、今日が終わるな」

「……そうだね。翔は夜行バスで、帰るんでしょう?」

 自分の発言をすっかり忘れていたのか、そんなこと言ったなと、翔が笑う。

「ほら、四十九日。今日で、終わりだから、もうここにいられないんだよ」

 実体のある幽霊なんて、不思議な存在なのに、そんなところは常識を守るのか。

「お前、葬式来なかっただろう。なんてやつだ、お別れに来ないなんて」

 未練が残るところだった。

 だから、きっと、せめて期間限定でもって。願いを叶えてくれたんじゃないか? って、笑っているような、泣いているような顔で翔が笑う。

「奏。なあ、奏。最後にさハグさせろよ」

「……どうして?」

「いいだろ別に、気にするあれじゃないし。最後なんだから――いいだろ」

 ……最後って、言うな。

 頷かないでいると、手をとられてそのまま翔の腕の中におさめられた。

「お前さあ、この一カ月ちゃんと食べてなかっただろ。骨じゃねえか」

「…………食べてた。お腹空いたら、少しは」

 反論すると、翔が苦笑したのが気配で分かった。

「せっかく教えたんだから、ちゃんと作って食べろよ」

「うん」

 食べたら元気になれるから、疲れていても料理する気になれそうだ。

「母さんに、生きてる時に相談したんだって言って。プレゼント渡してくれよ」

「そうする」

 カードに書かせた翔のメッセージは、亜由美さんにどう説明しよう。

「父さんに、は、いいや。いつか父さんがこっちに来たら、自分で謝る」

「おじさん元気だから、だいぶ先の話になるかもね」

 亜由美さんとおじさんはきっと長生きするだろう。

「おじさんとおばさんには、ありがとうって言っておいてくれ」

「……伝えとく」

 お父さんもお母さんも、翔のことが大好きだった。

 ああ、本当に、最後なんだ。

 本当だったら聞けなかったはずの、お別れの言葉を私は今聞いている。

 ……もう、堪えられない。

 口を開いてしまったら、言葉と共に感情も溢れ出してしまいそうだ。

 嗚咽を飲み込むために、私は口を閉ざした。


「……………………奏」

 ――うん。

「じいちゃんになれなくて、ごめんな」

 ――本当だよ。

「たった七日だけで、ごめんな」

 ――本当だよ。

「俺がいなくても、ばあちゃんになれよ。しわくちゃの可愛いばあちゃんになれよ」

 ――先のことなんて分からないけど、頑張ってみるよ。

「理想は、さ。俺らの両親みたいに、なることだったんだけどな」

 ――私もだよ。

「お前の旦那と、俺の嫁と。その息子と娘と過ごせたら……最高だったのにな」

 ――翔がいなきゃ叶わないじゃない、ばか。

「ちゃんとご飯食べて、睡眠もとって、笑ってろよ」

 ――本当に口煩い。お母さんみたいじゃないか。

「高校卒業してからは、あまり近くにはいなかったけどさ。俺の人生は奏との思い出だらけだよ」

 ――私も、だよ。

「いままで、ありがとう」

 ――こちらこそ。


 二人分の涙が溶け合う頃には、翔はもうここにいなかった。




 遠い遠い日の、約束。

 忘れてしまった約束を守るために、翔は最後の七日間を私と一緒にすごしてくれた。

 七夕の日の思い出。

 お願い事を何にするって考えてたとき、翔は言ったんだ。


『じいちゃんになっても、カナデと一緒にいますように』


『カケルとカナデはいつも一緒。いくつになっても、おじいちゃんとおばあちゃんになっても。ずーっと、ずーっと、一緒だよ』


 翔がそう言ってくれたのが、嬉しくて嬉しくて。私は翔の周りをぐるぐる回って、目が回りそうになった。

 翔は、目を回す私を見て笑ってた。そして二人で指切りしたんだ。


『『約束』』


 おじいちゃんになった翔を見られないのが、とてもとても寂しい。

 いつかまた会うその日には、しわくちゃの可愛いおばあちゃんになった私を見て、翔に笑ってもらおう。


 卵をかき混ぜる、砂糖と牛乳を適量混ぜる。

 そして、ほんのちょっとだけバニラエッセンスを垂らす。

 混ぜた卵をほどよくパンに馴染ませて、フライパンでうっすらと色がつくまで焼く。

 耳の部分が少しカリッとするように。

 鼻歌を歌いながら作る。何度も作っているうちに、手際はよくなった。

 あるこう。あるこう。わたしはげんき。あるくのだいすき。どんどんいこう。

「よし、完璧」

 翔に教えてもらったフレンチトーストは、私が一番美味しく作れる得意料理になった。

 元気の出るフレンチトーストは、名前のままに、疲れている時。へこんだ時。寂しい時。悲しい時。

 私を支えてくれる魔法になっている。

 この魔法は、きっといつか出逢う私の娘か息子にも、教えるつもりだ。

 どんなことがあったって、元気が出る魔法を翔がかけていったから。

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