土曜日

 高くもないヒールをカツカツと鳴らして歩く。

 カツカツ、カツカツ。……うるさい。

 些細なことですら気になってしまう。カツカツ、カツカツ。

 今の翔に睡眠という概念があるのか分からないが、横になって眠っている翔を起こさないように家を出てきた。

 もしかしたら起きていたのかもしれないが、呼び止められなかったんだから構わない。

 朝日に照らされた明るい世界で、当然のように翔と会うことは出来なかった。

 話すことなんて出来なかった。


 翔がいなくなってしまったのは、先月の、十二月のことだった。


 試験も終わり、休みまでの講義を怠惰に受講していた頃だ。

 年が明ければ就活がはじまる。学生を目一杯楽しめるのは、今だけ。

 そう思って、大学三年生である今年は、友人らと旅行をしたり、今しか出来なさそうなことをしていた。

 今の生活を、優先した。

 だから、地元に帰ったのは大学二年生の時のお正月が最後だった。

 最期に、翔に会ったのは、一年も、前の、ことだった。

 十二月のある日の夕方、翔から私へメールが送られてきた。

 着信時間は午後四時十六分。

 私がメールを見たのは、五限目の終わった六時。

 翔がスリップした車に巻き込まれて事故に遭ったのは、午後五時四十八分だった。

 私がそれを知ったのは、翔が息を引き取る直前。母親からの電話でだった。

 その電話で母は、震える声をどうにか押さえて事実だけを私に教えてくれた。


 それからは悪夢の中にいるようだった。

 着信音が耳に残っている感覚が消えない。それが聞こえるたびに母が告げる言葉が頭の中で反響する。


 落ち着いて、聞いて。翔くんがさっき事故に遭って。

 おちついて、きいて。かけるくんがさっきじこにあって。

 オチツイテ、キイテ、カケルクンガサッキジコニアッテ。


 事故に、事故に、事故に、事故に、事故に、事故に。

 重体で、重体で、重体で、重体で、重体で、重体で。


 たすからないかもしれないの。


 母から翔の事故を知らされた時、私は何も言わずに通話を切った。

 現実と向き合うことを私は拒否した。

 翔がどうなったのかは、三十分後には知らされた。留守番電話に残されたメッセージで知らされた。

 鳴り響く着信音。耳をふさぐ私。音が途切れ、怖々と携帯を見ると残されているメッセージ。

 操作して、恐る恐るそれを聞いた。

 ――ピー、一番目、の、メッセージ、です。

 ――午後、七時、二十七分。

『ついさっき、翔くんが亡くなりました。お通夜は明後日、お葬式は次の日です。奏、帰ってきなさい。お別れを、言いなさい。きっといつか後悔するわ』

 ――メッセージは、以上、です。

 ――もう一度、

 女性の電子音声を断ち切って、私はメッセージを消去した。

 母からは、翔の葬儀が終わる日まで何度も着信があった。その度に私はそれを無視して、後からメッセージを聞いた。

 メッセージはどれも、後悔するから会いに来いという内容だった。

 亜由美さんやおじさんからの連絡はなかった。当たり前だろう。

 一人息子が亡くなったのだから、友人の娘になんて構っている時間はない。

 心の余裕だって、ないだろう。

 母はメッセージで、何度も何度も何度も後悔すると言っていたけれど、後悔なんて、もうしている。

 これ以上何を後悔するというのだろう。

 全てを後悔しているのに、これ以上、何を。

 都会の大学に進学するよりも、翔の方が大事だったのに、どうして私は翔から離れてしまったのだろう。

 どうして私は翔と一年間も会っていなかったのだろう。

 どうしてこちらの生活を優先してしまったのだろう。

 じわりじわりと、心から身体まで浸食されて。きっと限界はすぐそばまで来ていた。

 そんな、時に。


 私の目の前に、翔は現れた。


 夢なのか、現実なのか、ここ数日分からなくなってしまっていた。

 悪い夢にでも閉じ込められてしまったのではないかと思った。

 目が、覚めたら、翔が消えてしまっているのではないかと何度思ったか知れない、のに。

 翔は私の隣にいる。

 あの連絡を聞いてから、ずっと、ずっと、毎日祈るように眠りについた。

 夢でもいいから、そう思い眠りについた。

 けれど、翔は夢ですら会いに来てくれなかった。そのはずだったのに。

 翔はここに来てくれた。祈りが、現実になった。

 現実に、なって、しまった。

 後悔したのは、私だよ。――私だ。

 翔をここに呼んでしまったのは私のせいだ。

 ここに翔が来てしまったのは、きっと私の未練のせいだ。翔が私に未練があったわけじゃない。

 どうしていつだって会えると思ってしまっていたんだろう。

 どうして当然のように私の未来の隣に翔はいると思っていたんだろう。

 どうして翔はここにいるのに、死んでしまった事実は消えてくれないんだろう。

 向き合いたくない。

 向き合えない。

 自分で「翔は一ヶ月も前に死んだんでしょう」と言っておきながら、心の奥底で思ってた。

 ――ねえ、お願い。嘘だって言って。今までの全部を。

 ――全てが悪い夢だったことでもいい。まだ寝ぼけてるのかって。そう、言って。

 心のどこかで願ってたのに、翔は「そうだよ。もう俺は年を取らない」と言った。

 どうして、どうして、どうして。

 心の中に渦巻く感情を押しつぶすようにして歩く。カツカツ。カツカツ。

 きっと――カツ。

 翔は――カツ。

 私のことを――カツ。

 本当は――カツ。

「ねえ! ねえちょっと! 奏! 奏ってば!」

 声と共に肩を掴まれた。

 驚いて振り返り、私の肩を掴む手を伝って相手を確認すると、そこには静香がいた。

「考え事? 何かあったの? 真っ青な顔してる……」

「どうして、静香、ここにいるの」

 まだ朝のはやい時間帯で、しかも土曜日だ。

 偶然会うなんてことが起きうるんだろうか。

「私はこれからバイト。言ってなかった? 私、ここの駅近くでバイトしてるんだよ」

「そう、だっけ、か。忘れてた」

「奏、大丈夫? 体調でも悪いの? イトコさんと喧嘩でもした?」

 顔をのぞきこみながら静香が聞いてくる。

「ううん、違うよ。考え事してただけ。ごめんね、これからバイトなのに」

「いいよ、そんなの。……あのさあ、奏。私ね、木曜日にイトコさんに会ったんだけど」

「翔、に?」

「そう。駅で会ったんだけど。私に頼みたいことがあるって言われてね、それで――」

 頭の中が真っ白になって、考える前に身体が動いた。

 待って! と私を呼び止める静香の声を振り切り、その場から逃げ出した。

 どうして、翔が静香に。一体何を。頼むって、何を。

 ちょっと用事と言って出かけたのは、そのため?

 どうして私には何も話さなかったの。

 分からない、分からないよ。

 もう、何もかもが分からない。

 私の頭の中だけじゃなく、ちゃんと静香にも認識されてるのに、どうして翔はここにいないの?

 夢なの? 現実なの?

 どうしてここにいるの? 私の未練のせい?

 それとも、何か、やりのこしたことがあったの? でも、そうならどうして私じゃなくて静香に頼むの?

 ついこの前会っただけの、話もロクにしていないはずの静香に何を頼むの?

 拒むように、私は逃げた。


 足が、痛い。

 高くもないヒールを履いているはずなのに、走ったせいで靴擦れしてしまったのかもしれない。

 力なく、幽霊みたいにふらふらと歩く。

 どこに向かっているかも意識せずに歩いていたら、今自分がどこにいるのか分からなくなってしまった。

 分からない。本当に。全てが。

 痛い。

 足が、痛い。歩くのが苦しい。痛い。

 目のふちに涙が溜まって、今にも溢れそうだ。

 足が痛いから、泣いてもいい。

 足が痛いから、しゃがみこんでもいい。

 足が痛いから、立ち止まって動かなくてもいい。

 ぎゅっと腕で自分を抱え込んで、閉じ込めて、何も視界に入れたくない衝動にかられる。

 ずるずると歩いていると、いつの間にか見覚えのある景色にたどり着いていた。この間、早起きしたときに通りがかった公園だ。

 意識しないでいたけれど、ただ私は来た道を遠回りに戻っていたようだ。

 誰も、いない。

 ぽつりと置かれているベンチが、オアシスのように見えた。

 休んで、いい。

 私はここで休んでもいい。

 誰もいないここで。ひとりで、視界を閉ざしてもいい。

 投げ出すようにベンチに座ると、足の痛さから解放される。

 子どものように靴を放るように脱ぐと、膝を抱えて体育座りをした。

 自分の全てを守るように、腕で抱え込むと少しだけ安心した。

 そのまま、何時間そうしていたんだろう。

 閉じ込めて、考えることを放棄して。縮こまっている内に、気づけば眠っていた。――昨日からまともに寝られなかったのに、歩き回って疲れたからだろうか。

 同じ姿勢でずっといたせいで、身体が強ばっている。

 指先が、冷たい。

 首が、痛いなと思い、身体を動かそうとした。

 すると、近くに人の気配を感じた。顔をあげれば目の前に人が立っている。

「気分でも悪いの? お水でも買ってこようか?」

 目の前にいたのは、この前も見かけた、ひとりで公園のベンチに座っていたおばあさんだった。心配そうに私を見ている。

「あ、大丈夫、です。お気に、なさら、ず」

「そう? ああ、そうだ。これどうぞ。まだ開けてないから」

 手渡されたのは、温かいお茶のペットボトルだった。

「え? いや、あの。本当に、大丈夫なので、そんな」

「いいから。ほら、指先が冷えちゃってる。私が勝手に心配しているだけだから、貰ってくれる?」

 それ以上断る訳にもいかず、曖昧にお礼を伝えてペットボトルを受け取った。

 ……温かい。指先から温度が伝わっていく。

「よいしょ。今日はまた特に冷えるわねえ。春はまだまだ遠いみたい」

 当然のように、おばあさんが私の隣に座る。

「来月もまだ寒いのよね、多分。外に出たくなくなるわね」

「……あの。私、帰り、ます」

 まだ、人と話せるような余裕はない。

「あら、いいわよ。そこにいて。私の方がお邪魔だったかな?」

「いえ、そんなこと、ないです」

 それなら良かった。と微笑むと、それきりおばあさんは黙ってしまった。

 沈黙が、辛い。

 気にしなくて、いいのだろうか。話しかけなくて、いいのだろうか。

「ねえ、お嬢さん」

 穏やかな声で話しかけられる。思わず反射で返事をしてしまう。

「寒いけれど、今日は天気が良いわね。昨日の雨が嘘みたい」

「そう、です、ね」

「冬のお日さまは、柔らかくて優しいと思わない? 寒さに負けてしまわないように応援してくれてるのかしら」

「そうかも、しれないですね」

 ただ肯定する。気の利いた返事など思いつかない。それくらいしか返せなかった。

「寒いと、悲しい気持ちになる時があるのよね。あなたは?」

「え?」

「話せる範囲でいいから言っていいわよ。あなた、ひどく思いつめた顔をしている」

 労わるようでもなく、ただ自然に言われる。

 明日の天気でも聞かれたような、聞き方だったからだろうか。言葉がぽとんと口から転がり出てきた。

「…………おばあさん、は。幽霊を見たことは、ありますか?」

 突拍子もないことを話している、わけが分からないだろう。

「幽霊? 長いこと生きてはいるけど、幽霊は見たことないわね。怖いけれど死ぬまでに一度くらいは見てみたいけど」

「そう、ですか。……幽霊でも、いいから、会いたいとか、は。思ったことありますか?」

 何を聞かれているのか、意味不明だろう。おばあさんはきょとんとした顔をしている。

「ごめんなさい。違うんです、今のはこの前読んだ小説の話で……」

「あるわよ」

 言い訳みたいに話す私の言葉を止めるように、おばあさんは言った。

「あるわよ。化けてでもいから、会いに来いって思ったこと」

 静かな、声だった。なのに、私は縫い止められたようにおばあさんから目が離せなかった。

 おばあさんの瞳にやどる、寂しさの色。

「面白い話を教えてあげる」

 瞳の色は変わらないまま、微笑んでおばあさんは話し出した。

「私の会いたい人はね、五十年前にいなくなっちゃったの」

「……五十年」

「そう、あなたが生まれるより、ずっと前ね。……亡くなったかは、分からないの。いなくなってしまったの。突然、私の前から姿を消してしまった」

 それは、淡々と紡がれた。

「時代も、不安定な頃だったから。生きているとは誰も思っていなかったわ。だけどねえ、いなくなってしまう前に、あの人、私に言ったのよ」

 言葉とともに、花が開くように、おばあさんが笑う。

「何があっても、帰ってくるから。って」

「…………だけど、帰って、は、来なかったんですか?」

「結果的には、そうね。まだ帰って来ないわ」

 まだ、ということは。おばあさんは、きっと。

「待って、いるんですか……。今も……」

「ふふふ。馬鹿みたいでしょう? けれど、ほら。帰って来ると言ったのに待っていなかったら、あの人拗ねちゃうから。……それに、ね。絶対に最後には会いに来るはずだから」

「それ、は?」

「もしもあの人がこの世にもういないとしても。私の最後のその日には、ちゃんと迎えに来てくれるはずなの」

 こんなのちっとも特別じゃないとでも言うように自然に紡がれるおばあさんの言葉を聞いたら、目の奥が熱くなるのを感じた。

「迎えに、来て、くれるんですか?」

「ええ、来るわ。あの人約束は守る人なの」

 穏やかにおばあさんは笑う。

 どうしてそんなに穏やかに彼のことを話せるのだろうか。長い長い時間がそうさせるのだろうか。

 私も時間が経てば話すことが出来るようになるのだろうか。

「……寂しい、とか。どうしていなくなったの、とか。側にいてほしい、とか。思いませんか? だって、一緒にはいないわけじゃないですか」

「そうねえ、これまで何回も思ったわね。だけど――」

 だけど、いないけれど、いるから。

「え?」

「毎日一緒にいられたら、きっととても幸せだったけれど、それは叶わないから仕方ないわよね。だけど、ね。側にいるだけが全てではないから」

「それは……」

「ちゃんと、考えれば分かるわよ。大丈夫。化けてでも会いに来いって思うくらいに、大切な人のことでしょう?」

「……はい」

「大丈夫よ。それに、私みたいに馬鹿な人もいるって覚えていてね。愛する人を忘れないことは、立ち直れないことは、少しも悪いことじゃないのよ」

 握りしめられた手から熱が伝わる。

「あの、おばあさ……」

 何か、伝えたい。そう思って口を開いた途端まぬけな音が鳴り響いた――私のお腹から。

「あらあらあら、可愛い音。少し気持ちが落ち着いたら、お腹が空いてることを身体が思い出したのかしら?」

「あの、その、ええと……。はい、きっとそうです……」

 恥ずかしくて、おばあさんの顔を直視出来ない。

「ふふふ。暖かい場所で温かいご飯を食べていらっしゃい。本当は女の子が身体を冷やしては駄目なのよ?」

「……はい」

「私はもう少しだけ、ここにいるわ。ご縁があったら、またいつか会いましょう。可愛いお嬢さん」

「はい。……あの、ありがとうございました」

 これっぽちも気持ちを伝えきれはしないけれど、深く深く礼をする。

「見知らぬおばさんが、勝手に世間話をしただけなのに。ありがとう。どうか元気でね」

「はい、ありがとうございます。またいつか会いたいです」

 靴を履き直し、立ちあがった。

 別れる時にお互いに手を振りながら、ベンチから離れる。

 カツン。カツン。

 高くもないヒールを鳴らして歩く。

 たくさん、考えなくてはいけないことがある。向き合わなければいけないことが、翔と話さなければいけないことがある。

 だけど、まずは。


 気づけばお昼の時間もとうに過ぎていて、休日だが、入ったレストランはあまり混んでいなかった。

 何時間、私は公園のベンチにいたのだろう。

 反射したガラスで見えた自分の顔色は、ひどいものだった。ついおばあさんが声をかけてしまうのも分かる。

 席について注文を終え、落ち着くと、思考が回り出した。

 翔は、私の妄想なのか。現実にここにいるのか。

 静香が姿を見ている。買い物をした時だって、店員さんは翔を認識していた。

 いるけど、いない。

 事故が起きたことが悪い夢なのだと思った瞬間もあったけど、翔自身がそれを否定した。

 だから、いるけど、いない。

 どうして翔は私のところに来たのだろう。亜由美さんやおじさんじゃなくて私のところに来たのだろう。

 やっぱり、私が呼んでしまったからだろうか。

 考えていると、すぐに注文した料理がやってきた。

 去年までは、気に入ってよく食べに来ていたオムライス。ふんわりと湯気が出ている。

 デミグラスソースのいい匂いをかぐと、またお腹がきゅうっと鳴いた。

 まぬけな音に笑ってしまう。

 視界を塞いでいた頃だって本当はそうだった。

 何があったってお腹は空くし、思わず笑ってしまう瞬間はある。

 スプーンでオムライスをすくい口に入れる。……温かい。

 喉を通ってオムライスが胃にたどり着くと、少しずつ身体に体温が戻っていった。

 温かい。美味しい。

 だけど、どうしてだろう。ほんの少しだけ寂しい。

 大好きだったオムライスなのに、ご褒美にしてたくらいなのに。目の前に誰もいない、それだけで、心も味覚の感じ方もこんなに違う。

 どうするの? 翔。私、一人でご飯食べられなくなっちゃったよ。

 美味しかったはずなのに、お腹が空いていたはずなのに、オムライスは半分しか食べられなかった。

 食べ終え、温かい飲み物を飲むと、ベンチにいた頃よりはずっと心も頭も正常に動くようになった。

 冬は日が暮れるのがはやい。その頃にはもう外は緩やかに日が落ち始めていた。

 会計をすまし、店から出て、薄暗い道を歩く。

 もう引きずるような歩き方にはならないが、軽快には歩けなかった。

 途中で薬局に寄って足に絆創膏をはったので、靴擦れはもう、痛くない。

 だけど前に踏み出す足は軽くない。

 きっと今、私を追い抜いて歩いて行った男性は、重い足取りの私にイライラしただろう。通り過ぎる瞬間に小さく舌打ちしたのが聞こえた。

 ごめんなさい、けれど情けないくらいに歩みの遅い今が、私の精一杯なんだ。

 人の姿を避けるように、駅近くから大通りから離れるように、歩く。

 少しずつ、気配と音が遠のいていく。

 やっと誰を気にすることもなく、ただ自分の速度で歩くことが出来るようになった。

 静かな場所へ、音がしない場所を目指して、重い一歩を踏み出すことを繰り返す。

 思考はまだぐちゃぐちゃのままだ。

 心はもう決まっているはずなのに、言葉の形にはなってくれない。

 側にいるだけが全てではない――。

 おばあさんの言葉は、どういう意味なのだろう。

 だって、どうしたってもう会えなくなったら、そこから先には何もない。

 過去だけになって、今も、未来もなくなってしまう。

 残るものは、ただ過去の思い出だけ。それだって一日一日が経つごとに、どんどん風化してすり減っていってしまう。

 顔も、声も、体温も、思い出も、全ての輪郭はぼやけていってしまう。

 なのに、どうしておばあさんは、あんなにも柔らかな心で待っていることが出来るのだろう。

 どうして、隣にいないのに、隣にいるような穏やかな顔で笑うことが出来るのだろう。

 いないけど、いる。

 今の翔の状況と逆だ。いないものは、いないじゃないかと駄々をこねる子どものような思いがわく。

 考えれば本当に分かるのだろうか。……本当は、あやふやでもどこかで分かっているのかもしれない。

 だけど、言葉にしてしまえば今を完全に手放さなくてはならなくなるから、分かりたくないのかもしれない。

 見覚えのない景色。

 道路も家も木も、どこも造りはそう変わらないはずなのに、迷路に迷い混んでしまったような気になる。

 あてもなく歩くごとに、また気持ちがバラバラになっていく。

 どんな思いで、翔は私と過ごしていたんだろう。

 翔は、本当はどこにいたかったんだろう。誰といたかったんだろう。

 命が終わるその瞬間、翔は何を願ったのだろう。

 翔の願いを踏みにじって、私は彼を自分の側に絡めとってしまったんじゃないか。本当はもっと違う場所にいたかったんじゃないか。

 ああ、だけど。たった五日間だけど、翔はたくさん笑っていた。

 私の心配ばかりしていた。それは――。

 ……帰巣本能みたいなものなのだろうか。気づけばまた、さっきの公園に戻っていた。

 おばあさんの姿はもうなかった。

 他にも人がいる様子はない。それはそうだ、休日の夜にわざわざ公園に来る人は少ない。

 ベンチにまた腰を下ろす。だけど、最初のようにすがりつくようにではない。もう一度立ちあがるために座った。

 絆創膏がとれかかっているのが見なくても分かる。どれだけの時間と距離を歩いていたのだろう。

 それでもまだ、翔と会って何を話せばいいのか分からない。どんな顔をすればいいのか分からない。

 後悔。罪悪感。寂しさ。苦しさ。

 悲しい。

 ここにいて。

 明日も明後日も来年もずっとここにいて。

 一緒にご飯を食べて。

 一緒に歩いて。

 未来に、隣にいてよ。

 顔がどんどん俯いていく――自分のことばっかりだ、私。

 最低だ。

 結局、自分が寂しいから見ないふりをしている。だけど、黙っているのも自分が苦しいから、翔に聞いてしまった。

 どうして翔は、私みたいな最低な人間の所にいてくれたんだろう。

 逃げてばっかりで、最後、会いにも行かなかったような最低な私の側に。

 外はもうすっかり暗くなってしまっている。

 少し離れた場所にある街灯が、ぼんやりと周りを照らしていた。

 時間だけを浪費してしまった、一体今は何時だろう。

 携帯を見ればすぐに分かるはずだが、そうする気力もわかない。

 今日、このベンチで何時間過ごしたのだろう。

 自分に心底嫌気がさして爪がてのひらに強く食いこむくらいに握る。

 みっともなく泣きだしそうになった瞬間、遠くを車が走る音しかしなかった静かな空間で、着信音が鳴った。

 内臓がひやりとする。

 大丈夫。私のこの恐怖心は、過去の記憶のせい。

 今じゃ、ない。

 今から何かあるわけじゃない。

 深く息を吐いて気持ちを落ち着けながら、通話ボタンを触った。

「……もしもし」

『菅原です。菅原正。寺田の携帯で合ってる、よな? 久しぶり。高校の卒業以来、だよな。翔の……、に、寺田来てなかったから』

 高校の頃、連絡先は交換していた。だけど、あくまでも翔の友達だった菅原と連絡を取り合ったことは、高校時代を含めてもなかったはずだ。

 それなのに、どうして、今。

『聞いてほしい話が、あって、電話した。あの、さ。この前、翔に会ったんだって言ったら。寺田は、俺の頭がおかしいって、思うか?』

 息が、止まるかと思った。

 翔は、私以外にも会いに行っていたんだ。

 もしかしたら用事というのはそのことだったのかもしれない。……最低だけれど、少し安心して、そしてがっかりした。私だけじゃなかったことに。

「……思わない」

『ありがとう。話を聞いてもらえそうで良かったよ。木曜日にな、俺の家の前に翔がいたんだよ。帰って来るのを待ってたって言ってさ。俺、葬式も行ってたからさ、翔の顔見た瞬間血の気引いちゃって』

 そりゃそうだろう、私だって今も本当に現実なのか確証はもてない。

『それなのに、あいつ。普通に話しかけてきたんだよ、高校の頃みたいに、毎日当然会ってるみたいに気軽に「よう、お疲れ」って。それ聞いたらさ、ああ、こいつ翔だ。って思えて。怖いっちゃ怖かったんだけど、こっちもなんとか会話出来るくらいには落ち着けた。それで聞いたんだよ、どうしたんだ? って』

「よく、落ち着けたね。……翔は何て?」

『頼みたいことがある。翔は俺にそう言った』

 別れの挨拶ではなく、頼み? 翔と菅原は中学高校と同じで、よく一緒にいたようだが、だけど遺言めいた頼みとなるとまた話が違ってくる。

 わざわざ、背負わせてしまうようなことを翔が友人にするだろうか。

「何を、頼まれたのか。私は聞いていいの?」

『ああ。むしろ他のやつには話すことじゃない』

「……何を、頼んだの?」

『――寺田のことを、だよ』

 菅原が何を言ったのか、よく分からなかった。

『あいつさ、言うんだよ「俺は約束を完全には果たせないから。だから、もし奏が困ってたら、どうか助けてやってほしい。些細なことでいい、無理はしなくていい。だけど、ほんの少しでいい、たまにでいいから。ちゃんと笑っているか俺の代わりに確認してくれないか」って。馬鹿だよな、そんなに心配なら置いてくんじゃねえよって』

「……やく、そ、く?」

『したんだろう? だから、ここにいるっていってたぞ。七夕がどうこう言ってたけど、詳しいことは話さなかったな』

 あの日見た、夢の続き。

 聞こえなかった言葉のその先。

 私はそれを、知っている。

「うん。……そうだ、約束、した。……ありがとう」

『だから、さ。困ったことあれば連絡してくれよ、何でも解決できるわけじゃないけど』

 笑いながら、菅原が言う。

「…………ありがとう、菅原。ありがとう、翔の友達でいてくれて。信じてくれて、ありが、」

『お礼を言われることじゃない。……じゃ、またな』

「うん、……またね」

 通話を切ると、画面がホームに戻る。

 決意を込めるように携帯を見つめていると、いつの間にかメッセージが届いていたことに気づいた。

 静香からだ。

 怖々と操作し、メッセージを開く。


『バイト終わったからやっと連絡出来たよー! 話の途中で行っちゃうなんて、奏ってばそんなに急いでたの? そうなら、呼び止めてごめんね。それで、イトコさんから言われたんだけどね――』


 最後まで目を通した瞬間、胸が詰まってどうしようもなくて、心臓を手で押さえつけた。

 そうしないと、心が喉を通って、口から溢れ出てしまいそうだったのだ。


『イトコさんね「奏はきっと静香さんのことが好きだから、おせっかいやいても、踏み込んでも、嫌いになんてならない。どうかこれからも一緒にいてやってくれ、俺の分まで」って言ってたんだけど、俺の分までって、どういうことだろうね? 喧嘩でもしたの? 大丈夫?』


 震える手を、どうにか押さえて返信し、携帯を鞄にしまった。

 もう、夜は深くなっている。今日が終わってしまう。

 翔がここにいると言ったのは、明日、までだ。

 約束、あの日二人でした約束。

 翔に、会いに、行かないと。

 まだきっと、翔は待ってくれている。

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