金曜日

 子どもの泣き声が聞こえる。

 胸に迫る悲痛な声だ。

 泣き声を追って姿を探すと、その子は簡単に見つかった。

 子どもは、膝を抱えてうずくまって、声を押し殺して泣いている。

 声は子どもなのに、子どもらしくない泣き方だ。

 泣いている。泣いている。どうしようもないことを嘆いて、子どもは泣いている。

 子ども以外は、何も見えない。

 真っ暗な世界だ。それなのに、子どもの姿だけは、はっきりと見えた。

 ひどく悲しいのだろう。泣き声の痛ましさからそれが分かる。

 暗闇の中で子どもはひとりっきりで泣いている。

 可哀想だ。そんな思いが浮かびあがった。

 誰か親や兄弟は近くにいないのだろうか。けれど、この暗闇じゃ探していてもどこにいるのか分からないだろう。どうにか見つける方法を探さないといけない。

 子どもはその間も泣き続けている。

 泣いて、泣いて、泣いて。ふいに、その子が顔をあげた。

 頭が持ちあがり、隠されていた顔があらわになる。その、顔は。


 二十一歳の、私だった。


 雨の、音が、聞こえる。

 私が今住んでいる街では、冬でも雪はあまり降らない。地元なら、きっと今頃積もっているのに。

 ここでは、雪は降らない。

 ああ、それでも。ひどく寒い。

 息が白い、外気に触れると体温が奪われていく。

 呼吸する度に内臓が冷えていく。

「お、珍しく早起きだな。おはよう奏」

「おはよう」

 身支度をして部屋から出ると、翔はもう起きていた。

 いつも、翔は何時に起きているのだろう。起こされてばかりだから分からなかったけど、今日はいつもより一時間もはやく起きたのに。

「……雨だね」

「そうだな。……どうした? 体調でも悪いのか?」

 心配そうに翔が顔をのぞき込んでくる。ああ、きっと私は今とても酷い顔色をしている。

「珍しく早起きしたから、ボーっとするだけ。顔洗ってくる」

 洗面台に向かう。

 パシャパシャと顔を洗って、タオルで拭きながら鏡をのぞくと、血の気が失せた自分の顔がそこにあった。

 ダイニングに戻ると、朝食の支度をしている翔に手招かれる。

「せっかくはやく起きたんだ、ちょっと手伝え」

「いいよ。今日は何を作るの」

 六枚切りの食パンを手に持っているから、和食じゃないことだけは分かった。

「フレンチトースト。母さんにも評判良いんだぞ」

「亜由美さんに?」

「雑誌に載ってたのが美味しそうで作ってみたら、母さんが気に入ってさ。それからは定期的に作らされてる」

 作りたくなる美味しさだから。と、翔は卵を取り出して割っていく。

「母さんは、元気が出るフレンチトーストって言ってる」

「翔が作ってくれるのが嬉しくて言ってるんじゃない?」

「そうかもな、それもあるかも。ほら、これ混ぜて」

 渡されたボウルを抱えて卵をかき混ぜる。

 ぐるぐる。ぐるぐる。白身と黄身が混ざって均等になっていく。

「俺がいなくなっても、これ作れよ。美味いから元気になるぞ」

「まだ食べてないのに自信ありすぎでしょ」

「それくらい美味しいんだよ」

 牛乳を混ぜる、白が黄色と踊りだす。ぐるぐる。ぐるぐる。色が均等になっていく。

「あと、これな」

 翔が隠し味と言って混ぜる。ぐるぐる。ぐるぐる。良い香りだ。

「あとは、パンを浸して焼くだけ」

 フライパンに油をひいて、温まった所でひたひたにしたパンを入れる。じゅっと音がして更に香りが広がる。

 これくらいかな。と、翔がフライ返しでひっくり返すと食パンが綺麗なキツネ色に焼けていた。

「…………美味しそう」

 思わず言葉が口から出ると、翔が口の端をあげて笑っていた。……ちょっと悔しい。

「耳をちょっと強めに焼いて。……ほら、出来た。砂糖まぶしても美味いぞ」

 テーブルに置かれたそれは、キラキラして、見えた。

「いただきます」

「はい、召し上がれ」

 フォークを使って、食べやすい大きさに切られたフレンチトーストを口にする。すると、口の中をまず温かさが満たした。

 次に、卵と牛乳のしみ込んだやわらかさと、甘さがじんわりとやってくる。

 ほんのりと伝わる香りも美味しさを倍増させた。

「美味しい」

 自然と口角があがる。目尻がさがる。きゅうっと暖かい気持ちがこみあがってくる。

「そうだろ。母さんの発言は間違いなかったわけだ」

「……うん。親の欲目じゃなかったんだね」

 本当に、暖かい。美味しい。ほっぺたが緩む。

「作るの、簡単だっただろ。これからは、朝ご飯にこれを作れ」

「そう、する。本当に美味しい。なんか、なんかね……」

 言葉の途中でほろっと目から滴が落ちた。

「…………奏、調子悪いんじゃないか。単位やばくないなら今日休め」

「そんなことないよ、これは、これ、は、美味しすぎて、だよ。翔がこんなに美味しい物を作れるなんてって思ったら、つい」

「休め」

 意志をこめて翔が言う。こうなったら、私が折れるしかない。

「……分かった」

 これまで真面目に授業に行ってたから、一日くらい休んだって問題はない。

 明日は土曜日だし、たまにはこんな日があったっていいのかもしれない。

「映画とかドラマのDVDないのか?」

「プレーヤーはあるけど、録画でしか使ってない。録画したのも見たら消しちゃって、残さないんだよね」

「駅前にレンタルあったよな」

 上着を手に取りながら翔が言う。今から行く気か。

「そんなに急がなくてもいいよ」

「俺もう食べ終わったし、この時間でも開いてるだろ確か。せっかくだから見たかった映画二、三本借りてくるから待ってろ」

「……好きなの借りてきなよ、文句言わないから」

 返事をした翔は、鍵を手に取り玄関に向かった。

 靴を履く、その姿。ドアを開けて出ていく、その姿。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 パタンとドアが閉まり、鍵を閉める音が聞こえて、ドアの前から気配が消える。

 心配、を。かけてしまった。

 ダメだなあ、情けない、堪えきれないなんて。

 そろそろ、だ。ごまかしきれないんだ。きっと。

 終わらせなきゃいけない。もう堪えきれない。

 少し冷めてしまった、食べ残していたフレンチトーストを口に入れる。

 温かさは失われてしまったけれど、優しい味が口の中に広がる。

 甘い味だったのに、ほんのりしょっぱくなってしまったそれを、私はゆっくりと食べた。


 食べ終わり片付けをして、流れるテレビをぼうっと見ているとガチャリと鍵が開く音がして玄関が開いた。

 ちゃんと翔はこの家に帰ってくる。

 帰ってくるんだ。だけど、ねえ、翔、それは――。

「ただいま」

「お帰り」

 マフラーを外しながら、手に持っていたレンタルの袋を翔が「ほら」と渡してきた。

「どれから見る?」

 袋から出すと、借りてきたDVDは三作品。

 有名なハリウッドのアクション映画の続編と、前にも翔が好きだと言っていた監督の邦画と、となりのトトロ。

「あー、寒かった。見る順番、奏の気分で決めていいから」

「……翔のオススメは?」

「どれも見たかったから順番は気にしないけど、一番気になってたのは邦画かな」

 見たかったんだ、となりのトトロ……。

 翔が言う邦画のDVDのケースを手に取る。最近有名になった俳優が主役をやるというので、少し前に話題になっていた作品だ。

「好きなんだよね? この監督の映画」

「覚えてたんだ?」

「だって珍しいから、いつもだったらあんまりこだわらないじゃない」

 映画に限らず、作家や歌手も、翔がこの人が好きだというのを他に聞いたことがなかった。

「好きなんだよなあ、この監督。映画って人気なのはエンタメ作品が多いし、俺だって分かりやすく面白いのが好きだけど。……芸術とかは俺は分からないけど、この人の作るものは、分からなかったら分かりたいって思うんだよ」

「前に翔と見たことあったけど、確かに分かりやすくはない作品だったね」

「分からないから、好きなのかもな。分からなくても、そんなの気にならないくらい、面白い……で言い方あってるか分からないけど。まあ、見たくなるんだよ」

 エンターテイメントとして作られる作品は、とても面白い。

 分かりやすく面白いものを作れるのは凄いことなのだろう。

 広く、大多数の人に面白いと思わせる作品などがそうだ。

 でも、大事に抱え込むような特別な物だって、きっと必要だって思う。

 翔にとっては、この監督の作品がそうであるように。

「そっか。じゃあ、これから見ようよ。これを見たい」

 ケースを開け、プレーヤーのボタンを押しながら私が言うと、翔は自分の発言に少し照れたのか俯きながら返事をした。

 再生が始まると、本編の前に予告情報が流れ出す。

 最近バラエティーやネットで見るものよりも、少し前の情報が流れていった。それによってこの映画のレンタルが始まったのが年末頃だったと気づく。

「年末からこれまで、翔も忙しかったの?」

「……そうだよ。俺だってお前と同じで、春が来たら就活が控えてるんだ」

「学生じゃなくなる自分。想像まだ出来ないな、翔のスーツ姿とか見たら笑っちゃうかも」

 笑いながら言うと、「お互い様だろ」と翔が私の髪の毛をぐちゃぐちゃにしてくる。

「うわ、止めてよ。私のキューティクルを破壊する気?」

「はいはい、すみませんね。……奏は、社会人になったら、失敗とかして、一度は泣きついてくるんだろうな。きっと」

 小学生の頃くらいだ、最後に思いっきり翔に泣きついたのは。いつまでも同じだと思ってるんだろうか。

「しません。ここ何年もしてないでしょうが」

「どうだか」

「しない。ほら、本編始まるよ」

 予告も終わりクレジットが出ると、それまでの言い合いを忘れたように、翔は食い入るように映画に集中し出した。

 隣で私も黙って映画を見たが、前にも感じたように、けっして分かりやすい作品ではなかった。

 緩やかに、抽象的表現もありながら、関係や心をなぞるような作り。

 優しいだけの話ではない、けれど、それを通り過ぎても残るのはバイオレンスなものではなく。

 丁寧に、丁寧に、掬いあげるように、綴られる。

 エンドロールが流れる頃には、私も翔も目を赤くしていた。

「翔が泣いてるの久しぶりに見た」

「わざわざ言うな」

「最後のシーンずるいね、泣くね」

 ずっと人の心に踏み込むことを恐れていた主人公が、はじめてごまかさずに自分の言葉を伝えるシーンで思わず涙がこぼれた。

「今まで見た中でも最高かもしれない、これ」

 鼻をすすりながら翔が言う。

「はい、ティッシュ。……子どもの、頃はさ。もっと楽に、考えずに、人と付き合えたのに。この年になったらさ、下手になったよね。色んなことが」

 自分もティッシュを一枚とり、翔と一緒のタイミングで鼻をかんだ。

「そうだな、……難しいよな。ごまかして、適度な距離で、いる方が楽だしな」

「なかなか、ね。出来ないよね。あー! 翔にだったら何でも話せたのにな! ……難しいよね」

 家族だって、友達だって大好きだ。でもだからって、何でも話せるかといったらそうじゃない。

 何でも隠さず話せばいいってものではないけど、遠慮とか、嫌われたくないとか、余計な思いで話せないのは、きっと。

「いつでも俺がいるわけじゃないんだから、難しくても頑張れよ」

「……分かってるよ。翔だって、次の彼女にはちゃんと頑張りなよ」

「あー、まあ、そうだな。そうしますよ」

 鼻もかんで落ち着いたのか、DVDを取り出しながら、次は何にする? と翔は聞いてくる。……話をそらそうとしているのがまるわかりだ。

「じゃあ、アクション映画にする」

「そういえば前作って見たのか? それより前のは一緒に見た記憶があるけど」

「見てないけど、話は分かるでしょ」

 シリーズものだが、順番通りに続けて見なくても、楽しめる映画だったはずだ。

「アクションがメインだしな」

 言いながら翔がプレーヤーにDVDを入れる。

 予告編が流れている間に、コーヒーを入れたりしていると、本編が始まった。

 さっきとは違って、設定を忘れている所があったので、翔と答え合わせをするように楽しんだ。

「誰だっけこの人?」

「Ⅱで出た主人公の兄。奏が前に見たやつにも出てたはずだぞ」

「嘘、覚えてない。こんな人いた?」

「いたよ。記憶をどこに落としてきたんだお前は」

 主に説明したのは翔だったが、久しぶりにわいわいと話しながら見る映画も楽しかった。

 半分くらいまで話が進む頃には、内容も思い出し、展開に集中し出してそれぞれ無言になっていく。

 つまらないわけではないのに、話さずに映像を見ていると、だんだんと内容が頭に入らなくなってきた。

 目がしょぼしょぼしてくる。視界がぼやけだした。

 これから、映画のクライマックスに向かうというのに……。


 涙の痕が残る私が、目の前にいる。

 周りは暗く、何も見えない。

 目の前にいる私しか、見えない。

 これは、今日の夢の、続き……?

 鏡のように目の前にいる私が、口を開き、私に向かって話し出す。


『気づいているくせに』

 ――だから、何?


 髪もぼさぼさで疲れ切った表情をしているのに、もうひとりの私は強い視線で私を見てくる。


『ねえ、いつまでごまかすの?』

 ――いいじゃない、別に。


 視線が、声が、圧迫してくる。逃げることはもう許されないのだと、私が私を追い詰める。


『夢は、いつか覚めるんだよ』

 ――違う!


 喉が裂けそうなくらいに叫んだ。

 夢じゃない、夢じゃない、夢じゃないから。今は、このまま続くはずなんだ。


『このままでいられるわけないって分かってるんでしょう』

 ――うるさい! うるさい! うるさい!


 お願いだから、その口を閉じて。あなたも私なら、どれだけ私が今にしがみついているのか分かってるでしょう。


『約束、忘れてしまったくせに』

 ――約束? 何の話?


 どうしようもなく悲しそうな顔を私がした。


『ほら、忘れてる』

 ――だから、約束って何の話?


 彼女の頬に、また涙が一筋流れる。


『七夕の、あの日。約束したでしょう。翔と』

 ――七夕……? ちょっと、それって。


 トントンと包丁が食材を切る音がした。

 意識が浮上していく。

 テレビは何も映していない。アクション映画を見ていたのに、途中で寝てしまったようだ。

 暖房がついているにしても温かいなと思ったら、毛布がかけられている。

 包丁の音を追いかけるように、台所に視線を動かすと、翔の背中が見えた。

「……どのくらい、寝てた?」

「一時間くらい。まだ夕飯出来ないから、もうちょっと寝てていいぞ」

 起きぬけのぼうっとした頭の中に、浮かぶ記憶。言葉。

 七夕。あの日。何か思い出があっただろうか。

 何か、何か――。

「……昔さ、一回だけ、うちの父親が笹担いで帰ってきたことがあったじゃん。好きなだけ願い事書いて吊るせって言って」

「ああ、懐かしいな。すぐにおばさんに怒られてたな、おじさん」

 七夕で覚えている思い出はこれくらいだった。他には特別な思い出なんてない。だけど、この日もそれ以外に特別なことなんてなかったはずだ。

「わざわざ仕事休んで、笹取りに行ったらしいからね。……その時に、どんな願い事を書いたのかを、ね、私覚えてないんだよね。……忘れるくらいの、願いだったのかな」

 覚えていない。私は、覚えていない。

 時間がたってしまえば、大切だったはずのことも忘れてしまう。

 忘れてしまう、のだ。

 時間が過ぎて、過去になって、しまえば。

 忘れて――。

 かけられていた毛布を掴む力が、自然と強くなる。力をこめたせいで爪が白く染まった。

 翔は、私に背を向けている。顔が見えない。

 お願い、こっちを向いて。

 顔を見せて。ここにいるという証拠を見せて。

 もう、限界なんだ。きっと。

「翔は、さ、もしも願いが叶うなら。……何を、お願いする?」

「そうだな……、何だろうな? 宝くじ当たれとか……、まあ、そんなもんかな。俺は自分の願いは自分で叶えるし」

 手を動かしながら、翔は答える。私の方を見ない。

 翔、翔、ねえ、お願い。今だけ私の話をちゃんと聞いて。

 振り向けという思いを込めて、呼吸をする。私の返事がないのを不思議に思ったのか、翔が振り向いて私を見る。

 視線がぶつかる。

 昔からずっと一緒にいた。

 お互いに成長して、少しずつ変わっていったけど、変わらないところもたくさんあった。

 よく見知った瞳がそこにある。

 それなのに、ねえ、翔。

 身体全体が重力に押しつぶされているんじゃないかというくらいに重い。

 だけど、もう、ごまかしきれなくなってしまった。

 毛布をきゅっと掴む、温かさにしがみつくように支えられて、私はやっと口を動かす。

 私は、つかの間の夢を終わらせる言葉を吐き出し始めた。


「ねえ、どうして翔はここにいるの」

 ――夢のようだと思ったそれは。

「どうして私に会いに来たの」

 ――嘘みたいな。

「翔は一か月も前に死んだんでしょう」

 ――出来事だった。

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