木曜日

 携帯が、鳴っている。

 通知音として設定している、無機質な電子音が聞こえる。

 鳴り響いているそれを止めるために、私は携帯を操作する。

 画面に表示される名前を見て私は不思議に思う。

 電話をかけてくるなんて珍しい。何かあったんだろうかと。

 通話を押すと、私が話し出す前に、電話が繋がったことに気づいた相手がすぐに話し始める。

 話し出す。話し出す。話し出す。言葉が、耳を通じて脳まで浸透する。

 浸透した、言葉。その、言葉。


 詰めていた息を吐き出すようにして起き上がる。

 数回、あがった息を整えるように呼吸した。

 何か、何かとても怖い夢を見ていた気がする。

 呼吸が少し落ち着いたと思ったら、急激に寒気を感じた。

 寒い、のに、汗をかいている。そのせいで体温が一気に下がったんだろう。

 飛び起きるくらいに怖い夢を見たはずなのに、私は夢の内容を一切覚えていない。

 残っているのは身体が急速に冷え切った感覚だけ。

 手を握りしめていると、コンコンと、扉を叩く音が聞こえた。

「朝ごはん出来るぞ」

 翔、だ。

 翔の声だ。今日も、いるんだ。

 冷めて強ばっていた身体が少しずつ緩んでいくのが分かる。

「おはよう。すぐ行く」

「お、今日は起きるのはやかったな。いつもこうだと楽なんだけどな」

 翔の歩く足音がする。

 大丈夫、何も怖いことなんてない。

 何を見たかは分からないけど。ただの夢だ。

「おー、二度寝もせずに起きたな。偉い偉い」

「……ん。今日は朝ごはん何にしたの?」

「はやくに起きて暇だったから、パンケーキ作ってみた。ほら見ろ、ほらほら。お洒落だろ」

 自慢げに翔が言うから、のぞいて見る。

 宣言通りに、お洒落に盛り付けられたパンケーキが、テーブルの上に鎮座していた。

「えっと、よく、作った、ね?」

「凝り始めたら止まらなかった。写真撮って良いぞ」

 女の子がネットに喜んで写真をあげそうな立派なパンケーキがテーブルに置かれている。

 デザート系ではなく、パンケーキにスクランブルエッグとソーセージにサラダが添えてある、食事系のパンケーキだ。

 血迷って朝から生クリーム盛り盛りのパンケーキを作られなくて本当に良かった。

「それは遠慮しておく……」

 そうか? と、翔はちょっと不満そうに言いながら、椅子を引いて座る。私が喜んで写真を撮るのを期待していたのだろうか、ご期待に添えず申し訳ない。

「ここに来てから色々作ってるけどさ、翔いつの間に料理好きになったの? 作れるのは知ってたけど」

「んー、別に好きってほどでもないけど。嫌いではないし、作りだすと凝りたくなるんだよな」

 食べられればそこまでこだわらない私には、分からない感覚だ。凝り性なのは男性の方が多いと言われるが、それだろうか。

 いただきます。と、今日も二人で朝食を食べ始める。

「そういえば。翔、日曜日のいつぐらいに帰るの?」

 月曜日に「一週間泊めろ」と言われて以来、結局詳しくは聞いていなかった。

「あー、そうな。あんまり考えてなかったけど……日付が変わる頃には出てくかな」

 そんなに遅くては電車は動いていないだろう。だとしたら。

「夜行バス?」

「まあ、そんなところ。疲れるけど、新幹線より安いしな」

 私は夜行バスに乗ったことがない。

 危ないからと父から止められるし、バスの臭いがあまり得意ではないから、これからも自分から利用しようと思うことはないだろう。

「夜行バスって、そんなに疲れるんだ」

「長いしな。ここからだと五時間弱はかかるし、新幹線より窮屈だし。……良いとこって、安さくらいか?」

 五時間もバスに乗るなんて、絶対に私には無理だ。

「あれ? 翔ってバイトしてなかったけ? 実家だしそこまでお金困ってないでしょ。新幹線使えばいいのに」

「ちょっと、な、用事が……、遅くまでかかりそうなんだよ。仕方ない」

 用事、ねえ。

 最初もそう言っていたけど、翔がどこかに行っている様子を見ていない。私が大学やバイトに行っている時までは分からないけれど。

「用事って言うけど、何しに来たの? 一週間も用事って……就活、なわけないよね。もしそうだとしてもちょっとはやいし」

「色々あるんだよ。奏が気にすることじゃない」

 視線をそらして翔は言う。

 隠す必要もないはずだろうにと思うが、言いたくないなら仕方ない。勘弁してやろう。その代わりにしてほしいこともあるし。

「これ、書いて」

 ポケットから取り出して翔へ渡したのは、小さなメッセージカード。

「……何を?」

「亜由美さんのプレゼントに一緒に入れるの。一言でもいいから、亜由美さんにメッセージ書いて。おめでとうでも、いつもありがとうでもいいから。私の分はもう書いてるから、空いてるところ使って書いて」

「お前と違って、俺は渡した後も、毎日、顔を合わせるんですけど。こっぱずかしいんですけど」

 これだから息子は。と言う亜由美さんの声が聞こえそうだ。

「いいから書く!」

「……はあ。分かったよ、一言でもいいんだよな」

「書いたらプレゼントの箱の中に入れておいて。翔が何を書いたのか読まないであげるから」

 意識せずとも口がにやけてしまうのが分かる。翔をからかえることは、あまりない。

「楽しんでるだろ、奏」

 勿論。無言でこっくりと頷くと、翔は苦い顔をしていた。

「とても楽しい」

「人で遊ぶな」

 嫌そうなそぶりをしても、翔はメッセージカードを手元に持っていく。結局良いやつなんだ。

「ふふふ。今日は、二限で講義終わって昼すぎには帰ってくるから」

 ごちそうさま。と言って、食器を流しにもっていく。

 かちゃかちゃと音を立てて運んでいると、翔が口を開いた。

「俺ちょっと用事あって帰るの夕方になるから」

「……分かった。今日もお弁当ありがとう、いってきます」

 用事って一体何なのだろう。


 朝九時から始まる一限目の授業。

 いつもだったらギリギリに起きて朝ごはんも食べないで出かけるのに、翔が来てから信じられないくらいに規則正しく生活している。

 やっぱり人がいるっていいものだ。ずっとだと疲れてしまうかもしれないけれど。

 時計を見ると、いつもより三十分も早く家を出ていた。

 そういえば今日は起きるのが早かったのに、いつも通りの時間で準備し出かけてしまった。

 このまま向かうとさすがにはやく着きすぎてしまう、どうしようか。

 はやめに大学に着いても問題があるわけではないけれど、せっかくだからいつも使わないルートで駅に向かってみるのもいいかもしれない。

 少しだけ、遠回り。

 朝から散歩なんて贅沢をしているような気持ちになる。

 足を進めていくと、駅と家の間に公園があったことに今更気づいた。

 三年も住んでいるのに、一本外れただけで見知らぬ土地のようだ。

 朝の公園だ。人もほとんどいないだろうとのぞいてみると、ベンチにおばあさんが一人座っていた。

 何をするでもなく空を眺めている。日向ぼっこだろうか。

 おばあさんは、ほんの少し目を細めて空を見つめている。手に持っているのはホットのお茶のペットボトルだ。

 じっと座っているけれど、寒くはないだろうか。それとも少し休憩しているだけなのかもしれない。

 着こんでいるし、手に温かいお茶があるから、大丈夫なのかな。

 吐く息は白いが、まだ弱い太陽の光だけど、日の当たる場所はほのかに暖かかった。

 朝からまったりとした時間を過ごせるっていいな。老後は縁側で茶をすするのが昔からの夢だ。それは――。

 ……それは、何故、思ったんだろう。

 テンプレートな想像だけれども、何か理由があったはずなのに。

 もう一度おばあさんの方に視線を向けると、朝日が目に飛び込んできて、どうにも眩しくて見られなかった。


 寄り道してもはやめに講義室に着いたので、前過ぎず後ろ過ぎないちょうど良い位置に座れた。早起きは三文の徳って本当だ。

「機嫌良さそうだな、寺田」

 テキストの用意をしながら講義が始まるのを待っていると、後ろの席から声をかけられた。

「そう? 川島の気のせいじゃない?」

 話しかけてきたのは、ゼミが同じになり話すようになった男友達の川島だった。

 黒渕眼鏡をかけると、お笑い芸人にいそうな顔をしているやつだ。だけど本人はお調子者ってタイプじゃない。

 誰それに似ていると言われるたびに、笑いながらも不本意そうにしているのをまま見かけたことがある。

「橋本が、昨日騒いでたみたいだけど。……実際どうなんだよ」

 静香のあれを見ていたのか。それとも誰かから聞いたのか。だがこの言い方だと中途半端に見聞きしたようだ。

「昨日の、だと。静香が私に彼氏がいたって勘違いしたやつでしょ。あれね、静香が見たのは彼氏じゃなくてイトコなの。はやとちりだったんだよ」

 用意していたようにすらすらと答えた。

 似たようなことを中学の頃も高校の頃も何回も説明したことがあるのだ。

 翔の彼女だという女の子にも何度説明したことか。

 時々、イトコだと言っても中々納得してくれない子もいて。その度にこんこんと、どれだけ私たちの間には男女の関係が存在しないかを話した。

 それでも納得してくれなくて。一度、当時の彼女が私たちの小学校からの同級生にまで話を聞いて、本当はイトコではないことがバレてしまった時は大変だった。 「なんでそんな嘘つくの」と泣いた彼女の言葉は正論すぎて、私は何も言えなかった。

 どうにかその場は翔が謝り倒しておさまったが、数日後二人は別れてしまった。ままならないものだ。

 振り返っても、当時のことを申し訳ないと思う。だけど、恋人以外で一緒にいられる関係性の名前を他に見つけられなかったんだ。

「…………へえ」

「何その不満そうな返事」

 どうして皆、人の交遊関係だの恋愛事情だのをそんなに気にするんだろう。

 少し疲れてしまう。

 昔からだから、余計に。

 私と翔の間に恋愛感情は存在しない。それなのに、周りはいつだってそれを前提に話してくる。

 いけないことなのだろうか、家族でも、親戚でもない男女が一緒にいることは。

 関係を明確に言葉に出来るものにしないと、詮索されてしまうのはどうしてだろう。

 どうして、皆にも当てはまる関係性でなくてはいけないのだろうか。

 他の人とは違う出会いで、違う距離で時間を過ごして、違う関係性を築いているというのに。どうして私たちを自分たちの常識でくくろうとするのだろう。

「別に。妙に元気になってるから、あやしいなって思ってるだけだよ」

「………………そんなに、この前会った時と違う?」

 食は充実してるし、翔が起こしに来るから生活リズムだって整った。

 ひとりでいるより健康的な生活は送っているが、そこまで顕著に一目で分かるほどの違いがでるものだろうか。

「違うよ。全然違う。前会った時は……、今にも死にそうな顔してた」

「何それ、死にそうって大袈裟じゃない? 川島と前に会ったのって先週だよね。確かにあの時はレポート終わらなくて疲れてたし機嫌も悪かったけど、死にそうな顔は言い過ぎでしょ」

 静香といい、加藤さんといい、川島といい。どれだけ私はこの前まで疲れていたんだ。

「……まあいいよ、元気そうならそれで」

 どういう意味だと聞こうとしたタイミングで、教授が「おはようございます」と講義室に入ってきたため、話は中断された。

 講義が終わってからも、川島がすぐに「お疲れ」とだけ言って次の講義に向かってしまったから、本当は彼が何を考えていたのかも聞きそびれてしまう。

 少しのもやもやが残ったけれど、そこまで重要なことでもないだろうと諦めて私も次の講義へ向かった。

 二限目が終わってから、大学で翔の作ったお弁当をひとりで食べた。

 高校生の頃に翔が食べてた亜由美さんのお弁当にそっくりで、冷めてても美味しい。

 彼が作ったお弁当は、ひとりで食べてるのに、美味しかった。


 講義が終わってからはもう用事もなかったので、本屋に寄り道することにした。

 今年に入ってまともに本屋にも寄っていなかったから、好きな作家の本が新刊コーナーの端に置いてあるのを、のぞいて見てやっと気づく。

 遅れてしまったけれど待ち望んでいた新刊を見つけ、思いもしなかった喜びが湧く。

 帰ってから読むのが楽しみだ。

 浮きだった気持ちを本と共にかかえて帰宅した。

「ただいま」

 玄関のドアを開け、翔が来てから癖になってしまった帰宅の挨拶をするが、彼からの返事もなければ姿も見えなかった。

 用事があると言っていたが、本当に出かけたようだ。

 テーブルに目を向けると、亜由美さんへのプレゼントがリボンを綺麗に結ばれて置いてあった。

 出かける前にちゃんと書いていったようだ。偉い偉い。

 にやける顔を抑えられず、気分良く荷物を床に下ろした。

 だが手を洗おうと洗面台に向かおうとした瞬間だ。

 電子音が、鳴り響いた。

 内臓が冷やりとする嫌な感覚がした。

 携帯に着信があっただけだ。なのに、一体私は何に驚いているのだろう。

 ああ、そういえば最近レポートのためにずっとマナーモードにしていたから、携帯が鳴るのが久しぶりなんだ。だからかと、自分に呆れながら携帯を手にとる。

 誰だろうと相手を確認すると、珍しい相手からの電話だった。

「もしもし、亜由美さん、どうしたの? 電話してくるなんて珍しい」

『もしもし、奏ちゃん? …………久しぶり』

「本当に久しぶりだね、話すの一年ぶりかな?」

『そう、ね、あの。…………忙しいとは思うんだけど。……春休みに、翔に、会いに来てくれないかな』

 いつも会った時とは違う、どこかよそよそしい言葉で亜由美さんが言った。

 亜由美さんは、何を言っているのだろう。会いに行くどころか、翔は私の家にいるのに。

 もしかしたら、翔はどこに行くか話していなかったのかもしれない。

「亜由美さん、もしかして翔から何も聞いてない? 翔ね、今週私の家に泊ってるんだよ。あ、先に言っておくけど、付き合いだしたわけじゃないから」

 息を、吞んだような音が聞こえてきた。

 本当に何も話していなかったのだ、翔は。

 仕方のないやつ。

『……そう。奏ちゃんのところに、翔、いる、の。……ごめんね、迷惑、かけて』

「昔からだし。平気だよ、慣れてる。あと翔は関係なく、次の休みには帰るからさ。亜由美さんに会いに行くよ」

『いつも、ありがとうね。そう、そう、なの。じゃあ…………待ってるから』

 またね。と、言いあって通話を切った。

 妙に歯切れの悪い言い方をしていたけれど、翔はどんな風に家を出て来たのだろう。喧嘩でもしたのだろうか。それとも今更反抗期にでもなったのだろうか。

 通話を終え、しばらくすると鍵を開ける音が聞こえた。

 ちょっと用事。が終わって翔が帰ってきたんだ。

「お帰り、翔。亜由美さんから電話あったよ」

「母さんから? へえ、そう。……何か、言ってた?」

 自然に聞いてきたが、私はごまかせない。

 途中で耳を触った。

 その仕草が、動揺を隠したい時の翔の癖だって私は知ってる。

「……翔。私に隠してることある?」

「……………………どうしてそう思ったんだよ」

 私の目を見ない。これは、言いたくない時の癖だ。

「言いたくないなら、いいけど。亜由美さんに心配かけさせないでよね。翔が私の所にいるっていうのは、教えたから」

「……ん」

 自分は、私のことをあれこれ言うくせに、困ったやつだ。

「今日の夕飯は?」

「…………豚のしょうが焼き」

「楽しみ、お味噌汁もあるよね?」

 こくり、と翔が頷く。

 こういう時だけ喋らなくなるんだから、仕方のないやつだ。

 だけど、これはお互い様。昔からそうだ。

 翔が黙ると、私は何も聞かずに隣にいる。私が黙ると、翔が何も聞かずに隣にいる。

 子どもの頃からずっとそう。

 幼稚園で私がお母さんの鏡を割っちゃった時も、小学生の頃に翔がおじさんと喧嘩した時も、中学で部活がうまくいかなくて落ち込んでいた時も、高校で翔が彼女とひどい別れ方をした時も。

 私たちは何も聞かずにただ隣にいた。


 ちょっぴり口数の減った翔だったけれど、夕飯を食べる頃にはいつも通りに復活した。

 無心になって翔が作っていた夕飯は、今日もとても美味しかった。

 テレビを見ながら、二人して昔の話や最近の話をだらだらと話した。

 ただただ、普通の時間を過ごす。

 それだけ。それだけ、が、とても居心地が良くて。

 翔と一緒にいる今が、手放せなくなりそうで、来週からどうしようなんて思いながら私は眠りについた。

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