水曜日
地に足がついていない感覚。皮膚に空気が触れる感触がない。世界が一歩遠いところにいるような、見え方。
ああ、これは夢だ。何もかもがふわふわしている。
世界が、水彩画のように見える。
寝ている時に夢だと気づく時がある。今日は、どうやらそれのようだ。
視線がきょろきょろと動いて周りを見渡している、目線がいつもと違う高さだ。妙に、低い。これは、子どもの目線だろうか。
足元に視線がいくと、カラフルな靴を履いているのが見える。
私が小学二年生の頃大好きだったキャラクターの靴だ。
お気に入りだったので毎日履いていたら、一年も持たずに穴があいてしまって大泣きした記憶がある。
だとすればきっとこれは、小学校二年生の私なのだろう。
突然視界が揺れ出す。
景色が後ろに流れて行った。走り出したのか、何かに向かっているみたいだ。
何に、だろうか。
進む先に、誰かいる。
黒いランドセルを背負って、青いキャップを被っている。
小学校低学年であろう少年がいた。
――翔だ。
『ごめーん、おまたせ!』
『おそい! もうさきに行くとこだったぞ』
走りながら呼びかけると、子どもの翔が不機嫌そうに返事をした。
子どもの頃から変わらないのかと思うと、笑いが込みあげてくる。だが、子どもの私に今の私の反応は反映しないみたいだ。
『しかたないじゃない、日直のしごとだったんだから』
『はいはい、いいからはやく行くぞ』
私の手を掴んで翔は早足に歩き出した。一体どこに行くのだろうか。
『どうしておじさん二人で家にいてくれって言ったんだ?』
『んー、わかんない。とにかく家にいてって、朝出かけるときに言ってた』
てくてく。てくてく。二人で、歩く。
子どもなりに足早に歩いているのだが、歩幅が小さいからか進みは遅い。
『今日はおばさん家にいるのか?』
『うん。あそびにくるよっておしえたら、ドーナツつくってまってるって言ってた』
てくてく。てくてく。二人で、歩く。
家に帰ると、聞いていた通りドーナツの甘い匂いが私たちを迎えてくれた。
まだ作っている途中だったのか、エプロンをつけた母が、スリッパでパタパタと音を立てながらやってくる。
『おかえりなさい。奏、翔くん』
『ただいま』
『ただいま。おばさん、いい匂いかいだらお腹すいちゃった』
翔の言葉を聞いた母は、とても嬉しそうに微笑んでいた。
どうしてだろう泣いてしまいそうだ。
私たちが子どもの頃、母はこんなにも慈しむように私たちを見ていたのか。
宝物のように、見ていたのか。
『すぐに準備するから、手を洗ってリビングで待ってて』
良い子のお返事をして、手を洗ってからリビングに二人で向かう。
『おれ、おばさんのつくるおやつ好き』
『わたしも好き。あゆみさんのつくる白玉も好きだけど』
『かあさんは、おやつは得意じゃないからな。白玉は、多分おれがつくってもおいしいと思う』
当時は気にしなかったけれど、なんて言い様だ。この頃から本当に、翔は翔だ。
ドーナツを待ちながら二人で学校のことを話していると、中庭の方からガサッと妙な音がした。
『なに、今の音。……ネコかな?』
『……見てみる』
翔が中庭に面している窓に近づこうとソファから立ち上がった瞬間、ガラッと窓が開いた。そして、がさがさと音をたてながら視界いっぱいに緑色の何かが飛び込んできた。
『奏! 翔! ほら、見ろー! 笹だぞ! 立派な笹だぞー!』
笹だ。
確かに、立派な笹だ。一体どこから、いやその前に、父はまだ仕事の時間のはずだ。
『ほらほら、いくらでも願いを吊るせるぞ。短冊も飾りも用意しておいたんだ、存分に吊るせ!』
この人は、今でも私では手に負えない。父の行動はツッコミどころが多すぎて、小学生の私は何も言えなかった。
どうしよう。と、翔と目を合わせていると、後ろに人の気配を感じた。
『――あなた。ねえ、あなた。今日は平日よね、お仕事はどうしたのかしら。まだ働いている時間のはずでしょう?』
振り向いてはいけない。きっと笑顔の般若がそこにいる。
イタズラをしたり、食べ物を粗末に扱った時に見たそれが、きっと私の後ろにいる。
『どういうことなのか、まったく分からない私に教えてほしいの。ねえ、あなた。どうして笹を担いでいるのかしら』
母の剣幕に押されながらも、父は笹を担ぎながら弁明し出した。
『ほら、だって、来週七夕じゃないか。せっかくだから一度くらい家にどどーんと笹を置いて、好きなだけ願い事を吊るしてもらおうと思ったんだよ』
父の考えることは、二十一年間娘をしている私にもまったく理解出来ない。
そして母は父の奇行に慣れてはいるけど理解しているわけではない。と、前に言っていた。なので私は理解は別にしなくてもいいことなのだと思っている。
『それで、仕事休んで笹を取りに行っていたのね。でも今日である必要はあったのかしら。お休みの日に奏たちを連れて行っても、良かったんじゃないの』
『それじゃあ、願い事を考える時間が減っちゃうだろう。一週間はないと、笹いっぱいに願いは吊るせないぞ?』
どれだけ織姫と彦星に願いを叶えてもらうつもりなのだろう。そもそも一年に一度恋人に会える日に、わざわざ他人の願いを山のように聞かされるなんて不思議な風習だ。
『おとうさん、そんなにお願い事したら織姫も彦星もこまっちゃうよ』
『……奏! なんて心優しい子なんだ、良い子に育ってお父さんは嬉しいよ! 抱きしめたい気持ちだ! ああ、くそ! 笹が……! 笹を持ってなければ抱きしめられたのに!』
笹があって本当に良かった。
『もう、いいから笹は置いてきなさいよ。話はそれからにしましょう』
『……………………はい』
母にどうして父と結婚したのかと、昔聞いたことがある。
それに対する母の返答は「この人の面倒を見られるのは私しかいないと思った」だった。
世の中バランスがとれるようになっている。だけど、話はそれで終わらない。母は真顔で言ってからこう続けたのだ「突拍子もないことをする所が可愛くて仕方ないの」と。
その時の母の笑顔は、少女のような可愛さだった。
『奏、翔くん。はい、ドーナツ。お母さんは、ちょーっとお父さんに話があるから。二人はゆっくり食べててね』
にんまり笑って母は中庭に向かった。
君子危うきに近寄らず。私たちは大人しくドーナツを楽しむことにした。
『おじさん、すごいな。どこまで行ってきたんだろうな、あれ』
『朝から出かけてた。……ほんとにどこまで行ってたんだろう』
きらっきらの笑顔で父は朝「翔と二人で待っててくれ」と出かけていった。
張り切っていたのが笹を取りに行くためだったとは。
『帰ったら、おじさんが笹かついできたって、かあさんたちに話すぞ』
『……うん。笑ってもらってよ』
『とうさんがおじさんにたいこうして、笹とりに行ったらどうする』
『みんなで七夕しようって言えばいいんじゃない?』
もぐもぐ、もぐもぐ。話しながら二人でドーナツを食べる。
カラッと揚げたて、砂糖をまぶしただけのドーナツ。温かくてホッとする。おかあさんのドーナツ。
最後に食べたのはいつだろう。最後に作ってとお願いしたのはいつだろう。
気づけばこの日は、とても遠いあの日になってしまった。
私は、もう二度とこの場所には戻れない。
……戻れない?
何故そう思ったのだろう。どうして、戻れないのだろう。
地元に帰れば、父も母も。翔も亜由美さんもおじさんもいる。
食べたいと言えば、喜んでドーナッツだって作ってもらえるのに。
『短冊に、なに書くんだ?』
『お願いごと? 短冊いっぱいあったね。そんなにお願いごとあるかなあ、あまっちゃうかも』
父が束にして持っていた短冊は、一目でも厚さがあるのが分かった。一体何枚用意したのか。
『そっちは、なに書くの?』
『おれ? そうだなあ……夕飯のピーマンへらしてくれ、とか。サッカーする日は晴れますように、とか。あとは、ああそうだ――』
翔の口が動いているのに、声が聞こえない。
まだ話しているのに、途端に音だけ聞こえなくなってしまった。
……何? 何て言ったの翔? 聞こえないよ。
くすくすと二人で笑い合い、さっそく短冊に書こうとしているのか立ち上がり動き出す。
満面の笑みを浮かべた私がくるくると翔の周りを回り出した。
だけど、声は聞こえない。
とてもとても幸せそう。
とてもとても嬉しそう。
一体、翔は何て言ったんだろう。
「……で。……なで。おい! 起きろ奏」
部屋をノックする音がする。低い男性の声が聞こえた。
ずっと一緒にいたから、声変わりした時も知ってるけど。子どもの頃と比べると、こんなに声低くなっていたんだ。
「起きた。すぐ準備する」
「はやくしろよ」
……あれ? どうして翔の声なんて気になったんだろう?
頭が起き出すと、夢の輪郭がぼやけていった。
夢の内容が気になって着替えながら思い出そうとしても、翔じゃなくて父の顔ばかり思い浮かんだ。
「おはよう」
「おはよう。今日の朝飯は、ほとんど昨日の残りだから」
「ん、ありがと。朝にみそ汁飲めるの嬉しい」
朝からみそ汁の香りをかぐと落ち着くのは、やはり日本人だからだろうか。
「今日も寒いしな、みそ汁で内臓を温めろ」
「お気遣いどうも。いただきます」
みそ汁を一口飲むと、身体が起き出す。ご飯に煮物、昨日スーパーで朝食用に買った納豆。
一口、一口。食べると指先まで体温が通っていった。
「昼の弁当、作っておいたから出かけるときに持っていけよ」
どうしよう、至れり尽くせりすぎる。
「……ありがとう、本当に作ってくれるとは思わなかった」
「自分で言ったんだから作るだろ」
そうだ。昔から翔は完全に有言実行するやつだった。
「どうもありがとう。今日さ、バイトあって帰り遅いから夕飯はいらないよ」
「ふーん。帰り遅いって、何時くらいになるんだ」
「バイトは十時まで」
月曜日と水曜日は、バイトの日だ。
大学一年の終わり頃から始めたバイトは、辞めずに二年ほど続いている。
「バイト先はどこなんだ」
「大学の二つ隣の駅。だから、家に着くのは十一時くらいになるかな」
「暇だし駅まで迎えに行ってやるよ」
本当に調子が狂う。
昨日の反応を考えると面倒なことになるのが分かり切っていたので会いたくなかったのだが、そう思うと会ってしまうもので。講義の空き時間に静香に見つかった。
「おはよう、奏! 昨日一緒にいた人のこと教えてよー!」
「……静香、おはよう。あのさあ、昨日一緒にいたのは、」
くりくりした目が好奇心で輝いている。
今日も元気なのはいいけれど、少し声をひそめて頂きたい。完全に周りにも聞こえてしまっている。
内心焦っていると、ちょうど近くを通りかかった友人が静香の声に引き寄せられてこちらに向かってきた。
ああ、被害が拡大していく。
「どうしたの静香、奏がどうしたって?」
「おはよ、聞いてよ絵理ちゃん! 昨日ね、奏の彼氏に会ったんだよー!」
「そうなの、奏。今までそんな話したことないじゃん。なんだ、言ってよ」
何とかして止めないとこのまま話が広がっていってしまう。
「あのね!」
私がピシッと意志を込めて言うと「どんな人だった」「えっとねえ、仲良さそうに買い物に来ててね」と盛りあがっていた二人の話がやっとおさまった。
「昨日、静香が会ったのは私のイトコ。彼氏じゃないの」
「…………ん?」
「なんだあ、そうなの? 静香のはやとちりか。やっと奏からそういう話聞けたかと思えたのに」
静香はまだ納得がいっていないようだが、絵理はすんなり話を呑み込んでくれたようだ。
「すみませんね、ご期待に応えられなくて」
「残念。そのうち、いつかあったら聞かせてね。じゃあ私、次授業あるからもう行くわ」
「うん、またね」
ひらひらとお互いに手を振り、私は絵理を見送る。が、まだ静香は眉間に皺を寄せて唸っていた。
どうしたものかと思っていると、静香が急に「そうか!」と言って私の肩を掴んだ。
「大丈夫。私……分かってるから。幸せになるんだよ!」
それだけ言うと、静香はヒールを鳴らして去っていった。
何が分かったのか、不安が残るところだ。
いつもの水曜日より、バイト先のレストランは混んで忙しかった。けれど今日はミスすることなく一日を終えられた。
「今日、調子良いみたいだね寺田さん。月曜日は体調悪そうだったけど」
「すみません。この間は加藤さんにミスの対応をお願いしてしまって」
加藤さんは、バイトの先輩だ。
さばさばした性格の女性で、フリーターの彼女はアルバイトの中だと、一番の古株で頼りになる。
「いいの、いいの。それくらい大したことじゃないし」
「月曜日はレポートが終わらなくて、徹夜で……。だから、ちょっと疲れてたんですよ」
「そうかあ、大学生も大変だよね。そろそろ店内も落ち着いてきたから休憩いっていいよ」
「ありがとうございます」
休憩中に食べたまかないは美味しかった。いつもと変わらない味だった。
けれど、どうしてか少し物足りなく感じてしまった。
バイトも終わり、最寄り駅に着いて改札を出ると、翔の姿が見えた。
柱に寄り掛かって俯いていたが、人が降りて来たのに気づいた彼は顔をあげる。
始めは私のことを探すように視線をさ迷わせていたが、すぐに見つられけたようで、こちらに向かって歩いてきた。
「おかえり」
「……ただいま」
寒かったのか翔が手をさすっている。
……あ、翔がつけてるマフラー。私が一昨年誕生日にあげたやつだ。
「遅い、身体冷えた」
「なんで携帯持ってないのよ、あれば連絡したのに」
「だから壊れてそのままなんだよ」
「代替機とかあるでしょ。変なとこ面倒くさがりなんだから」
二人で、家までの道のりを歩く。
途中で大通りから外れる帰り道は、この時間帯は人通りが少ない。
静かな夜。
聞こえてくるのは二人の話し声と足音くらいだった。
ザッ、ザッ、ザッ。カツ、カツ、カツ。
同じ速度で二人で歩く。たわいないことを話しながら。
話している最中に翔の顔を見ようとしたら、昔より更に視線を上にしなければいけないことを今更ながら実感した。
ヒールを履いているのに、私は翔の身長には、まったく届かない。
子どもの頃は同じ目線だったのに、いつから私たちはこんなにも違ってしまったのだろう。
身長に差があるから、歩幅だって違う。今は翔が歩くスピードを合わせてくれてるから、同じ早さで歩けてるけど。
そうじゃなかったら私は翔に追いつけない。
「急に黙って、どうかしたか?」
「んー。小腹空いたから、帰ったらおみそ汁飲もうかなあって考えてたの」
嘘じゃない。本当に小腹は空いていた。
「ちょうど一人分残ってたはずだから、温めればすぐ飲めるぞ。まかないは食べたんだよな?」
「食べた。でも今日はバイトそこそこ忙しかったからちょっとお腹減った」
「そりゃ良かった。おばさんがいつもちゃんと食べてるか心配してるからな」
友達も言っていたが、親が電話の度にご飯を食べてるか聞くのはどこの家庭でもお約束らしい。
「翔が美味しいご飯を作るから、太りそうなくらいですよ」
「そうかそうか。太れ、太ってしまえ」
「レディになんてことを言うんだ」
「どこにレディがいるって?」
カチンときたので、偶然を装って翔の足を踏もうとしたが、避けられた。残念。
「ヒールで踏むのは止めろ」
「失礼なこと言うからでしょ」
立ち止まった翔を置いていくように先に進む。
「はいはい、すみませんでした」
見なくてもどんな顔をして言っているのか想像がついた。
「あのね! 投げやりに、『はいはい』って言うの止めなよ。悪い癖だよ、それ」
「は?」
まぬけな顔だ、私の今の発言の何がおかしかったというのか。
「いやいや、何言ってんだよ奏。それを言ったらお前もだろうが。お前だってよく使ってるだろ」
「……使ってないよ」
「使ってるだろ、会話録音して聞かせてやろうか」
使って、いるだろうか。自分では分からない。
「……今から気をつけるから、翔も気をつけて」
「分かりました。気をつけますよ」
また、歩きだす。もう少しで家に着いてしまう。少しだけもったいない気持ちになった。
昨日もそうだったけど、翔とこうして二人で歩くのなんて、どれくらいぶりだろう。
黙々と歩いていたら、突然翔が笑い出した。
ビックリした。一人だったら不審者ですよ、翔さん。
「なあ、奏。面白いよな」
「何が?」
「俺たちさ、兄弟でもないのに口癖とかそっくりなんだぞ。どれだけ今まで一緒にいたかって話だよな」
意識したことはないけれど、きっと色んな所が私たちは似ているのだろう。
「最初に会ったのがいつか覚えてないくらい昔だもんね。……よくあれだけ一緒にいたよ。普通だったら疎遠になったりとかするでしょ」
「普通だったらな」
「あれだけ親たちが仲良いってのもなかなか珍しいよねえ」
もともとは、私の父と、翔の母の亜由美さんが友人だったらしい。
「昔さ、父さんに、おじさんと母さんに対して嫉妬したことないのか? って聞いたことがあるんだよ」
「へえ。おじさん何て返したの?」
「それが『途中から馬鹿らしくなった』だってさ。父さんも最初の頃は母さんと仲良いおじさんに対して嫉妬してたらしいんだけどさ。ほら、おばさんに向けられてるおじさんの好き好きオーラが凄まじいだろ。それ見てたら心配するだけ時間の無駄だって悟ったらしい」
父さんは、いまだに一日一回はお母さんに「愛してるよ」「好きだよ」と言う人だ。ちなみに私にも言う。思春期の頃はさすがに勘弁してほしかった。
「あー、それは……。とても納得する理由デスネ」
「憧れるけど、あそこまでは出来ないよなあ。俺、日本人だもん」
「お父さんだって日本人だよ」
愛情表現は、ちょっと……、そこそこ……、だいぶ、オーバーだけれども。
「あれは、規格外だから別」
…………規格外とまで言われましたね、父よ。今度会った時にでも伝えておこう。
「子どもの頃の写真をこの前見返したらさ、アルバムに入ってるの寺田家の皆様も一緒に写った写真ばっかりなんだよ。笑えるだろ、二世帯家族かっての」
「二世帯家族じゃ意味違うじゃん」
どこに出かけるにも一緒のことが多かったんだ。思い出の写真だって自然とそうなる。
「なあ、奏。はやく彼氏つくれよ」
「はあ? また、それ? そんなにお手軽につくれたら苦労してませんが」
「お前にベタ惚れの彼氏をはやくつくれ」
茶化すような言い方じゃなかった。いつもと違う。それに調子が狂うような顔をしないでほしい。
空気を変えたくて夜なのに私はついつい大声を出してしまう。
「あんたは、私の、父親か! 心配しなくても、最高に私のことを好きな人を見つけるよ。それで幸せな家庭を築いてみせます! これで満足?」
私の言葉に翔は笑った。最近よく見る得意げな笑い方じゃない。子どもの頃見ていた笑い方とも違う。
本当に嬉しそうに、慈しむように笑った。
「ん。それで満足」
歯を食いしばって、私は言葉に出来ない感情を内側に押し留めた。
手が冷たい、息が白い。
夜の暗闇にぽっかりと、白い塊がふたつ浮かんでは消える。
帰り道の残りの時間。家に着くまで、私たちはもう何も話さなかった。
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