火曜日

『約束ね!』

 嬉しそうにはずんだ、女の子の声がする。

 何がそんなに嬉しのかは分からないが、女の子は幸せそうに、隣にいる男の子の周りをくるくる回っていた。

 そんなにくるくる回ったら、目も回ってしまうのに。

 目が……回って……。


 卵がじゅっと焼ける音と香りで目が覚めた。

 パンが焼けたのか、チン。と、トースターが鳴った音も聞こえる。

 朝ごはんがもう出来るのだ。お母さんが呼びにくる前に目を覚まさないといけない。

 カーテンを通して日が差しているのが分かる。目を閉じていても光を感じた。そろそろ朝のニュース番組が変わる時間帯だ。

 目を、開ける。ああ見慣れた、私の部屋だ。

 私の……部屋に……、どうして、お母さんがいるんだろう……。

「奏、朝ごはん出来るぞー。居候するなら料理作れって言ったのお前だろ、ちゃんと作ったんだから起きろ」

 違う。

 お母さんじゃない、翔だ。

 昨日、家に翔がいたのは、夢じゃなかったようだ。

 結局ダイニングで寝るのを条件に、翔を一週間家に泊めることになったんだ。

「おい、奏。いつまで寝てんだ、起きろ」

 言いながら翔は、コンコン扉をノックする。

 ……これが、日曜日まで続くのか。起きたらご飯が出来てる生活は素晴らしいけど、毎朝驚いて起きる羽目になりそうだ。

 私が現実逃避をしている間も、翔は「おーい、奏。どれだけ眠ってるんだよ」とノックしている。

 律儀に、部屋に入らないルールは守ってくれるみたいだ。

 ぼやぼやした頭でそんなことを考えていると、何度呼びかけても私の返事がないのにイラついたのか「開けるぞ」と、ドアノブに手をかける音がした。

「起きてる! すぐ準備するから待ってて」

「はいはい、さっさと来いよ」

 部屋の前からキッチンに戻る足音がし、すぐにカチャカチャと食器の音も聞こえててきた。


 翔が、いる。

 夢じゃない、翔が私の部屋にいる。


 家族でキャンプに行った時に私を起こすのは、そういえばいつも翔だった。……思い出に浸っている時間はない。早く支度をしないと、今度こそ翔が来てしまう。さっさと着替えよう。

 暖かい布団に未練を残しながら、冷たい空気の中に出る。

 日が出ていても、この時期は昼だって寒い。朝なら尚更だ、すぐに鳥肌が立つ。

 冬の良い点をあげるとするなら、布団から出ればすぐに目が覚めるというところだろうか。

 クローゼットを開け、さて着替えようと思い、ふと悩んだ。

 休みは、本当なら出かけるまでスウェットでいたい。けれど翔がうるさいから、もう外に出られるくらいの恰好をしなければいけない。何にしようか。

 ジャージやスウェットほどではなくても、楽な恰好がいい。翔相手に可愛い服装をする意味もないし。

 少しの間クローゼットを眺めて考えたが、最近よく着ている恰好をすることにした。

「おはよう」

「おはよう。相変わらず、起きるまで時間かかるな。朝飯冷めるから早く食べろ、よ……」

 手を止めて振り向いた翔が、私をじっと見てくる。何か気になることでもあったのだろうか。

 久しぶりに見た幼馴染が綺麗になってて驚いた、は、ないな。

 着替えただけで、顔も洗っていないスッピンの状態だ。翔じゃなかったら、こんな姿では会えない。

「その、ズボンだかスカートだかわからない服。最近着てるやつ多いけど……それの良さが、俺には、まったく分からない」

 顔をちょっとしかめながら翔が言う。そっちこそどうしてこの良さが分からないのか理解出来ない。

 テレビや雑誌でよく見かけるように、女子と男子の可愛いの基準はまったく違うらしい。だが女子の服装に文句を言うのなら、男は取りあえずスカートの種類を十種類以上理解してから出直してくればいいと思う。

「ガウチョパンツね。楽なんだよ、これ」

 ワンピースとか、スカートであれば可愛いと言う男どもに、これの良さは分かるまい。楽なうえに、お洒落にも見える。が、最強なのだ。

 ポケットに手を入れて裾を広げるように私がバタバタさせると「埃が舞うからやめろ」と注意された。この良さはやはり伝わらないらしい。嘆かわしいことだ。

「楽さに逃げていくことで、徐々に女子力がな、」

「はいはい、顔洗ってきまーす。すぐ戻りまーす」

 ごちゃごちゃ言い出す翔を遮り、洗面台に向かう。

 パシャパシャ顔を洗ってタオルで拭きながら鏡をのぞくと、最近見ていた自分の顔よりもスッキリした表情をしている気がした。


「ほれ、冷めるから早く食べろ」

「はいはい、ありがとうございます。頂きます」

 久しぶりにまともな朝ごはんを食べる。

 一人ではどうしても面倒くささが勝って、トースト一枚だけだったりお茶漬けですましたり。食べないことが、ほとんどだった。

 朝からおかずがあることに感動してしまう。

 スクランブルエッグにベーコンにトースト、インスタントだけどスープも用意されている。

「賞味期限昨日までだったぞ、卵。残ってたのは全部使ったからな」

「そうなんだ、気づかなかった。ありがとう」

「冷蔵庫見たけど、自炊ほとんどしてないだろ。期限ギリギリの卵とベーコンに、マーガリンしか入ってなかったぞ」

 最近買い出しもあまりしていなかった。レポートが忙しくて自炊してなかっただけで、いつもはもうちょっとまとも、な、はずだ。

「たまたま、忙しかったの。普段はしてる」

「……まあ、いいけど。今日は買い物の帰りに、スーパー連れて行けよ」

「うん。今日の夕飯煮物食べたい」

「自分だと作らないからか」

 当たり前だ。我が家にみりんは存在しない。

 無言で私が頷くと、ため息をつかれた。

「仕方ない、作ってやるよ。作るの意外と楽なんだぞ」

「知ってるよ、でも一人だとあんまり作る気にならないの」

「早く彼氏でもつくれ」

「うるさい」

 そんなお手軽に彼氏ができたらとっくにいる。そもそも彼氏つくれって言い方はなんだ、粘土でもこねればいいのか、完成した作品のタイトルに彼氏とつければいいのか。

「眉間に皺を寄せるな」

「翔がうるさいからじゃん」

 ポンポンと会話を交わしながらも食べすすめる。

「買い物付き合えって昨日言ってたけど、何を買いに行くんだ?」

「亜由美さんの誕生日プレゼント」

「母さんの? はやくないか、まだ先だろ」

「時間ないからって、妥協したのをあげるのが嫌なんだよ。亜由美さんだって毎年私に可愛いのくれるし」

 私のもう一人のお母さん。大袈裟ではなく、亜由美さんは本当にそんな存在だ。

 お互いの母が忙しい時には、それぞれの家にお邪魔してご飯を食べていた。自分の母と喧嘩した時は亜由美さんに相談に行った。

 地元を離れてからも、母の日に贈るカーネーションは、お母さんと亜由美さんへの二つ。私の誕生日には、寺田家からと真島家からの二つの荷物が家に届く。

 真島家からのプレゼントの中には、気づかれないように翔からのものもいつも入っていた。

 亜由美さんもおじさんも可愛いラッピングをしているのに、そっけない袋に入ったのが隅の方にあるのだ。

 大学に入ってからは、おめでとうのメールも送ってきたことないのに。カードも添えずに、プレゼントだけそこに入っていた。

「何を買おうと思ってるんだ?」

「去年は肌のケアセットにしたんだ、だから今年は残る物にする。亜由美さん、最近何か欲しい物の話とかしてた?」

 メールで聞いても、亜由美さんは欲しい物を教えてくれない。

 子どもの頃に学習したのだが何度聞いてみたって亜由美さんは「奏ちゃんが私にあげたいと精一杯考えてくれた物を貰うのが嬉しい」と言うのだ。

「何か、何かねえ……。ああ、手袋無くしたって言ってたな」

「いつ?」

 最近のことであれば、有力候補だ。

「……十一月くらい」

「それもう買っちゃってるんじゃない? 新しいの使ってるところ、見てないの?」

「気にして見てないから、覚えてない」

「同居してるのに、信じられない。親不孝者め」

 唐突に、今まで軽快に続いていた会話が途切れた。翔が妙な顔をしているが、舌でも噛んだのだろうか。

「どうしたの? 卵の殻でも入ってた?」

「…………それは中学生の奏だろ」

 嫌なことを思い出させる。翔に対抗して料理をはじめた頃、私は料理でよく失敗したのだが、何もかも母から翔に筒抜けだったんだ。

「……はい、ごちそうさまでした! 化粧してくる」

「お粗末さまでした。はやくしろよ」

 話を中断させるように食べ終わり、食器を流しに置いて部屋に向かう。

 最後に苦い思い出を話されてしまったけれど、久しぶりに誰かと食べる朝ごはんは、とても美味しかった。


 地元から上京して驚いたのは、平日でも、老若男女問わず街に人が溢れているところだ。

 まだ、私が住んでいるのは都心よりも外れなので、渋谷や新宿ほどの人混みではないのだが。閑散として、人の姿を見かけても年配の人くらいしかいない地元とは全く違う。

 駅ビルに来ると、混みあってるとまではいかなくても少なくない人で溢れていた。

「さすが都会、平日の昼間でもこんなに人いるんだな」

 ……感想がまったく同じで少し複雑だ。

 私と翔だけでなく、だいたいの人がいだく感想だということにしたい。

「そうだね。……まあそんなことより、はやく探しに行くよ。良いの見つけたいんだから」

 苦笑した翔が私に返事をし、二人とも足を進めようとしたところで、横から私の名前が呼ばれた。

「奏だ! 買い物?」

 くりくりした目の女の子。綺麗に染められた茶色い髪をなびかせて走り寄ってきたのは、大学の友達の静香だった。

 最寄り駅は違うけれど、近くに住んでるのは知ってた。だけど、今まで学校以外で偶然会うことなんてなかったのに。どうしてこのタイミングで会うのだろう。

「……静香。そう、ちょっとね。……買いたいものがあって」

「そうなんだ。私も休講になって暇だから、買い物しに来たんだ。じゃあせっかくだから一緒にさ……」

 ぐいぐい話をすすめていた静香がピタッと止まる。

 私の隣に人がいることにやっと気づいたのだろう。視線が翔に向いていた。

 買い物に付き合えなんて言うんじゃなかった……。

「ねえ、隣にいるの奏の彼氏? 聞いてないよ、いつから?」

 パーソナルスペースという言葉は静香にはない。ぐいぐい私に近づいて問い詰める。そして、聞いておきながらも私の返事を待たず、全て理解したとでも言いたげに彼女は話を続けた。

「そっかそっか。冬休み明けてから妙に暗かったのは、彼氏と喧嘩してたからかあ。その様子だと仲直り出来たんだね、良かった!」

 両手を広げた静香が私に抱きついて言った。

 勢いのままに飛びついてくるからよろけてしまう。

「デートの邪魔してごめんね、じゃあまた今度! 彼氏の話聞かせてねー! バイバイ」

 いつも通り弾丸のような子だ。自分で納得して、走り去ってしまった。

 素早く立ち去っていく後ろ姿が、人にぶつかりそうで見ているとハラハラする。

 二人きりにしてあげようという優しさかもしれないが、人通りが少なくないところだし、静香は華奢なヒールを履いていた。ぶつかったら転ぶんじゃないかと心配になる。

「嵐みたいな子だったな」

「……まあ、いい子だよ」

 いい子だと言いきるには、少しパッションが強すぎるが。思い込みが少々強いけれど、優しい子だ。

「ふうん。……暗かったのか?」

「何が?」

「お前が。さっきの子が言ってただろ、冬休み明けてから妙に暗かったって」

 そういえば、言っていたな。

 あんな感じだけれども、静香は人をちゃんと見ている子だから、気づかれていたんだろう。

「昨日までレポート提出に追われてたから、それで、かな?」

「そんなに大変だったのか」

「……うん、時間かかっちゃって。終わらなくて……、それで……」

 いつもの倍は時間がかかった。進まなかった。パソコンに向かおうとしては中断しての繰り返し。

「だから昨日、あんなに疲れてたのか。悪かったな、忙しい時に来て」

「いいよ、もう。……終わる前に来てたら、本当に追い出してたけどね」

 少し冗談めかして言うと、翔は含みなく笑った。懐かしい、笑い方だ。

「来たのが昨日で良かったみたいだな、凍えずにすんだ」

「たまたまタイミングがあって良かったね、それと私の寛大なる心に感謝しなさい」

「はいはい、どうもありがとうございます。さて、そろそろ店見に行くか。帰りスーパーだって寄るし、良いの見つけたいからはやくプレゼント探しにいくんだろ」

 さっきの私の発言をさらっと使われる。でも実際その通りなので反論せずに、駅ビルに向かった。

 二人で意見を出しあって、何軒か見て回った最後に、亜由美さんにあげたいプレゼントは見つかった。

 私と翔は趣味はあまり似ていないから、ああでもないこうでもないと言い合うばかりだったが、その中で二人とも良いと思える物が見つかったのだ。

 春休みに、プレゼント片手に会いに行くのが楽しみだ。きっと亜由美さんは喜んでくれるだろう。


 買い物も終わりご機嫌で向かったスーパーでは「米はさすがにあるよな?」という翔の問いに即答できなくてまた説教された。

 聞かれて始めて、最近炊飯器を使っていなかったことに気づく。

 あっても困らないし、人手があるうちに。と翔は食材と一緒に米を十キロ買った。そしていつの間にジェントルマンになっていたのか、帰り道で翔は私には軽い物しか入っていないレジ袋を持たせた。

 家に帰って確認すると、一回分にも足りない米があったが、最後に炊いて食べたのがいつだったのかは思い出せなかった。

 火曜日の夕飯は、煮物と焼魚にミニサラダだった。

 煮物は、子どもの頃食べた亜由美さんの味と同じだった。「いつ教えてもらったの?」と聞いたら「教えてもらわなくてもこれくらい出来るだろう」と返される。

 ちょっとムカついた。

 だけど、煮物が美味しかったから「さすが翔様ですね」と返してあげた。

 得意そうに笑ったのを見たら、やっぱりちょっとムカついたから、バレないようにみそ汁の中にトマトを入れてやる。翔は気づかないで飲んで、目を大きくしてから、むせた。

 思いもしないところで思いもしない味がすると、とても驚くものなのだ。

 その姿を見たら、少し溜飲が下がった。が、すぐにめちゃくちゃ怒られた。

 だけど最後には怒るのも馬鹿らしくなったのか「お前これ小学生の頃もやっただろ」と翔は笑いだした。「翔だって私にしたでしょ」と言って、一緒になって私も笑う。

 ご飯を食べた後は、二人でテレビを見ながら、デパ地下で買ってきた評判のデザートを食べた。

「そういえば。翔、昔は甘い物あまり好きじゃなかったよね。味覚変わったの?」

「今だって別に好きなわけじゃないけどな。好きじゃなくても、食べたくなる時はあるんだよ」

 私にはあまりよく分からないが、まあそういうこともあるのだろう。

「それに、せっかくのデザートを一人で食べるのも寂しいだろうが」

 ……本当に、一体どうしたのだろう。

 いつの間に、こんなにも気の遣えるやつになったんだろうか。

 翔の言葉にどう返したらいいのか分からなくて、私はちょうどテレビで流れていた人気だというドラマの話題に話を変えてしまった。

 少しぎこちない空気を断ち切るように、その後も当たり障りない会話を少し続けるが、しばらくすると調子を取り戻すことが出来た。

 一年ぶりに会ったんだ、一日一緒にいるくらいじゃ会話はつきない。けれど、そろそろ夜も深くなる頃には、どちらともなく話を切りあげ、お風呂に入って寝る準備をし出した。


 お風呂にも入って、部屋に戻ろうとした時。扉を閉める直前に、「おやすみ」と声が聞こえる。

「……おやすみ」

 明日も、起きたら翔はここにいるんだ。そう思うと、何故だか安心して眠ることが出来た。

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