カケルとすごした七日間

軒下ツバメ

月曜日

 街灯の明かりが妙に眩しくてイライラする。

 いつもだったら夜道を歩くのは嫌いじゃない。だけど、今日はもうどろどろに疲れていた。

 久しぶりにバイトで大きなミスをして、店長からこっぴどく怒られてしまった。ミスをしたのは、一限で提出するレポートを徹夜で書いていて寝不足だったせいだ。

 徹夜しないと書き終わらない状況になったのは自業自得ではあるのだが、怒られればどうしたって精神は削られる。

 ただでさえ睡眠不足の身体は重く、そこに精神疲労も重なればもう散々だ。週のはじめから本当についていない。

 地面に寝転がってしまいたい。

 うら若き乙女として大問題の考えが頭の中でぐるぐると回る。疲労で思考が極端な方向に振りきれてしまっている。これはよろしくない。そもそも一月の寒空の下で、一晩明かしたら命の危機だ。

 一秒でも早く帰らなければと足を急いだ。

 やっとアパートに着いて扉の前で鞄の中の鍵を探すと、部屋の中から、ガタッと、音が、聞こえた。

 背筋を撫でられたような嫌な感覚がした。鳥肌がたったのが分かる。

 ただの家鳴りならいいけれど、家鳴りであんな音がするだろうか。

 ――まさか、泥棒。

 ふと家の扉を見ると、どこか違和感があった。

 些細な違和感だけど、重大な問題だ。

 ドアノブに手をかける。少しの力を入れるだけで家のドアが開く。鍵が、開いている。

 朝出かける時に、間違いなく鍵はかけて出かけたはずだ。……記憶が正しければ。

 こういう時、どう行動するのが正解なんだろう。本当ならその場から逃げて交番にでも助けを求めるのが最善だったはずだ。でも私はもうドアノブに手をかけてしまった。今から逃げてもきっと遅い。

 少しドアが開いても中から明かりはもれてこない。

 鍵をかけ忘れていた、それだけなら良い。

 何も盗られていなければ最高だけれども、今は部屋に人がいなければそれで良い。……明かりはついていない、けれどわざわざ明かりをつけて家に入る不審者はいないだろう。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

「お帰り、奏。いつもこんな遅い時間に帰ってるのか? 危なくないか?」

 玄関から、聞こえてきたのは、聞き覚えの、ある、声、だった。

「鍵も開いてるし、無用心すぎないか? よく今まで無事だったな」

 パチンと、明かりがつき。目の前にいたのは、私がよく知る人物だった。

「おじさんおばさんが心配するわけだよ、気をつけろよ本当に」

 呆れた調子で彼は言う。相変わらず同い年のくせにお兄さんぶるんだなと、ぼんやりとした頭で考えた。

「…………翔。どうして、ここにいるの」

「どうしてじゃねえよ。今年は盆も正月も地元に帰ってこないから奏の様子を見てこいって、おじさんおばさんから指令が来たの。俺だって暇じゃないってのに。まあでも、ちょうど用事あってこっち来てたからついでにな」

 明かりがついた玄関にいたのは、背の高い男だった。

 冷たい感じのする顔立ちをしているのに、意外と面倒見の良い男。真島翔。

 子どもの頃からの腐れ縁で、私と長いこと付き合いのある人物だった。

 翔は、地元の大学に進学していたはずだ。

 地元からここまで来るのには、結構な時間がかかる。気軽に来れる距離ではない。他の大学はどうなのかよく知らないが、もう休みなのだろうか。

「連絡してくれればよかったのに。びっくりしたよ部屋から物音して、泥棒かと思った」

「携帯壊して、連絡先分からなくなってたの忘れてた。つーか泥棒かと思ったじゃねえよ、鍵開いててどれだけ俺が驚いたと思ってるんだ。無用心すぎ。帰ってくるまで玄関で見張ってたんだぞ、褒めてほしいわ」

 寝不足だったせいで、鍵をかけ忘れていたようだ。翔がいなかったら危なかった。

「ありがとう、ごめんなさい。以後、気をつけます」

「はい、よろしい。ここアパート来るまで街灯も少なかったし本当に気をつけろよ」

 何度も繰り返して、口煩い。近所のおばさんのようだ。

「はいはい、気をつけます。で、見張っててくれたのはありがたかったけど。翔、これからどうするの? 近くに友達でも住んでるの? 終電もうほぼないけど大丈夫?」

 私の言葉を聞いて翔が向けてきた笑顔。……厄介事の予感がする。

 彼がこんな風に笑う時にロクなことがあった試しがない。

 幼稚園の頃、鬼ごっこで囮にされた。小学生の頃、掃除当番を変わらされた。中学生の頃、告白してきた子を断る口実に使われた。高校生の頃、赤点回避の勉強に付き合わされた。数え出したらキリがない。

「なあ、奏。お願いがあるんだけど」

「嫌。どうせ面倒事でしょ、絶対に関わりたくない」

「昔からのよしみだろうが。だから家に泊めろ、一週間」

 子どもの頃からよく知ってるとはいえ、翔の倫理観はいつの間に破壊されたのか。

「駄目でしょ。普通に考えて駄目でしょ。親がいる家とは違うんだよ! 一人暮らしの女の子の家に泊めてとか、翔はいつの間にそんなふしだらになったの!」

「ふしだらとか、お前よく出てきたなそんな言葉。女の子じゃなくて、奏だろ? いいだろ別に。今更何か起こるような関係性じゃないし」

 何かあっても困るのだが、そう言わるとムカッとくる。

「それに、おじさんおばさんのことをよく知ってるのにお前に何か出来ると思うか? バレたら俺おじさんに殺されるぞ。……もしも、もしもな、もしもって億が一くらいのもしもな」

「早く言いなよ」

「だから、もしも。もしも、は、本気の本気じゃないと出来ねえよ。結婚まっしぐらコースだぞ、俺と奏の間で何かあったら」

 人差し指を私と自分の間で往復させながら翔が言う。

 私と翔の両親は、私たちが生まれるずっと前から仲が良かった。

 母親たちは、同学年の子どもが生まれて、それはそれは喜んだらしい。ことある毎に、寺田家と真島家は一緒に遊びに出かけた。

 ゴールデンウィークも夏休みも冬休みも春休みも一緒だった。

 遊園地でもキャンプでも動物園でも水族館でも牧場でも温泉旅行でも一緒だった。

 行事があれば、まるで六人で一つの家族のようだった。

 私の父親が仕事でどうしても運動会にこられなかった時なんて、翔のお父さんと私で親子リレーを走った。頑張っておじさんは翔と私とで、二回走ったのだ。

 他人の家族となんて、よく許可をもらえたものだと思う。

「営業で鍛えた口の上手さを、今使わずにいつ使うんだ!」と言っておじさんが先生の説得に向かった姿を覚えている。幼いながらも仕事で使いなよ、と考えたものだ。

 そんな関係だったから、周りからはしょっちゅう私たちは親戚なのだと勘違いされた。親のどちらかが兄弟で、私と翔はイトコだってよく思われていた。

 最初はちゃんと訂正していたけど、途中から説明するのも面倒になって、高校生になる頃には私と翔はイトコってことにしていた。

 思春期になっても、私たちの事情はお構いなしに親たちは仲が良く、嫌でも一緒にいたので周りから邪推されることも少なくなかった。

 クラスの子にからかわれる度にお互い一緒にいるのが嫌になっていたのだが、私たちが男女の違いを気にし出すのを察した母親たちが嬉々として、「付き合わないの? 付き合おうよ!」と言い出すので、毒気を抜かれてしまった。そんな風に言われて付き合うわけがないと思う。

 私は翔が嫌いじゃなかったし、翔だって私を嫌いじゃなかった。

 昔から一緒にいたからお互いをよく知っていたし、側にいて誰より楽だった。だからイトコという距離感はとても居心地が良かった。

 イトコという言葉は、誰からも文句を言われずにすむ最高の免罪符だった。

「だから、泊めろ。それとも家主の帰りを待って家の番をしていた俺を放り出すのかお前は」

「私がどうとか、翔がどうとかじゃなくて、常識的な話をしてるの私は! こっちの知り合いに見られたらどう説明すればいいのよ!」

「いつもみたくイトコでいいだろ」

 自分が厄介事を持ち込んでいるくせに、あっけらかんと言う翔に苛立つ。いつもそうだ、そして私はそれをいつも突っぱねられた試しがない。

「……私に彼氏が出来てたらどうするつもりだったのよ」

 ふてくされるように言うと、翔は笑い出した。失礼なやつだ。

「もし彼氏がいるなら、隠すのが下手な奏はすぐにおばさんにバレてるだろ。そうしたらおばさんが、ぽっと出に奏を持っていかれていいのか。と俺のことを説得しにくるわけだ。それがないんだから、いるわけない」

 確かに、私は物事を隠すのが上手じゃない。それにしても……。

「お母さんまだそんなこと言ってるの?」

「言ってるよ。うちの母親も言ってるよ。奏ちゃんはいつになったらうちのお嫁さんに来るのかしらって。煩い煩い」

「いい加減諦めたのかと思ったのに……」

 はじめに付き合わないのかと私たちに聞いてきてから、これまで。母親たちは何かイベントがあるたびに、「奏と翔はいつになったら付き合うの?」と聞いてくるようになった。

 ふざけているような聞き方をいつもはするけれど、時折本気で「付き合ってないの?」と聞いてくるのをみると、母親たちは本当に私たちにくっついてほしいらしい。

 うんざりするが、最低限の配慮はしているようで、私たちが本気で文句を口にする手前で騒ぐのをやめるので、怒りきることも出来ない。

 流石母親と言うべきか、そこの見極めは上手いのだ。

「諦めないだろ。どちらかが結婚するまでは諦めないな、あれは」

「翔、高校の頃とか彼女いたでしょ。どうなの最近は」

「いつの話をしてるんだよ、卒業前にとっくに別れた」

 私にはどこがいいのか分からないのだが、翔には今まで何人か彼女がいた。

 本人は母たちにはばれないように付き合っていたつもりらしいが、翔の母親の亜由美さんから「彼女いるみたいなんだけど、どんな子?」と聞かれたり、母から「翔をその子から奪って来い!」と言われたりしたので、まったく隠せていなかった。

 今まで何人かいた翔の彼女は、ふわふわして、恋がよく似合う女の子ばかりだった。好きなタイプがとても分かりやすい。

 付き合う時は、女の子から告白されたり翔からだったりまちまちらしいが、別れる時はいつも女の子から切り出されているらしい。

 翔は教えてくれなかったのだが、彼の悪友が教えてくれた。こうと決めたら何を言われても絶対に引かないやつだから、きっとどこかで見せた頑固さによって振られてしまうのだろう。

「大学ではどうなの?」

「あー。付き合った子もいたけどやっぱり別れた。今はいない」

 まあ、常識的に考えて、いたら私の家に泊るとは言わないか。

「彼女いるのに、別の子の家に泊まるほどあんたの倫理観が破壊されてなくてよかった」

「じゃあいいだろ、泊めてくれ。俺、ここら辺詳しくないから追い出されたら野宿だぞ。事件にあったり事故にあったり凍えて死んだら、お前のせいになるからな」

 大袈裟なことを言う。本当に追い出したって、野宿せずに上手いことどうにかするくせに。

 翔の要領の良さは私が一番よく知っている。

 そして、私が最終的には折れるのも翔が一番よく知っている。

「……ダイニングまでだから。私の部屋には入らないって約束して。それと、お父さんとお母さんには私の家に泊ったって絶対に言わないで。また煩く言われるから」

「はいはい、分かりました。それでいいですよ」

 こうなるだろうと分かっていたような返事。したり顔をするのにムカつく。

「泊めてあげる代わりに、家にいる間、ご飯は翔に作ってもらうから。普通に料理出来るんだって知ってるからね」

「はいはい、朝ごはんもお昼のお弁当も夕ご飯も俺が作りますよ」

 実家暮らしのくせに翔は料理が上手い。

 亜由美さんたちが泊まりで出かけた時、困ってるだろうからと母に言われて見に行ったら、さらっとパスタを作っているのを目撃した時の衝撃は忘れられない。まだ中学生の頃の話だ。

 危なげなく翔が料理する姿を見て、私は声もかけずに家に帰り、包丁もロクに使えない自分を振り返って、それ以降母の手伝いをするようになった。

 いつか絶対そのことで馬鹿にされる日が来ると思ったのだ。

 そのおかげで一人暮らしがはじまっても私は料理で苦労をしたことはない。良かったのか悪かったのか、当時の自分の心境を思うとそこは微妙なのだが。

「明日は、大学の授業ない日で休みだから。ちょっと買い物とかも付き合ってもらうよ」

「はいはい、分かりましたお姫様。何でも付き合いますよ」

「約束守らなかったらすぐに追い出すから」

 私が次々重ねるように言うと、少しうんざりしながら翔が返事をする。

「はいはい、分かりました。守りますよ」

「さっきからその言い方! 流すように返事しないでよ、そういうところ本当に腹立つ」

「お前もそういうしつこく念押ししてくるところ、本当に昔から変わらないな」

 何がおかしいのか翔がにやにやしている。嫌な感じではなくて妙に嬉しそうに笑う姿に、怒りがしぼんでいった。

「……はあ。なんかもう、疲れた。今日はとりあえずもういい。ダイニングに布団用意する」

「ありがとう。ところで、お前の言ってるダイニングってもしかしなくてもここか?」

 後ろを振り返り、玄関の奥を指差しながら翔が言った。

 私の部屋は玄関から一続きにダイニングキッチンがある。

「当たり前でしょ。外れの方だけど都内一人暮らしで、そんなに広い部屋に住んでるわけないじゃない」

 私の住んでいるのは、普通より少しだけ広目のダイニングキッチンと、ワンルームがある家だ。

 父がなるべく安全で住みやすい家をと、一緒に探してくれたお気に入りの部屋。

「……これさあ、布団敷けるのか? 奏ならともかく俺だと手足伸ばして寝られないよな、これ」

「ギリギリ布団は敷けるよ。……翔、文句があるなら」

「雨風しのげればそれでいいです、文句言ってすみませんでした」

 言葉を遮って慌てたように翔が言う。

「はいはい、それでよろしい。ああ、お風呂とかの使い方だけ説明するから、こっち来て」

「おー、ありがと。でも洗濯は近くのコインランドリーとかでやるし、あんまり気にしなくていいぞ。自分のことは自分でやる。あと、お前の分の飯も作る。スーパーの場所だけ教えてくれ」

「……翔。いつの間にそんな気遣いを覚えたの、実は翔じゃない? 顔だけそっくりさん?」

 面倒見はいいけれど、いつも上から目線で言うことが多かったのに。

 翔がこんなにも殊勝な発言をしたのを、私はこれまで聞いたことがない。

「馬鹿か。俺は昔から気遣い屋さんだよ。ほら、疲れたんだろ。いつまで玄関にいるつもりだ」

「翔が、妙に殊勝なこと言うからでしょ。そうだよ、今日の私は疲れたの。はやく休みたかったの!」

「気遣い屋さんですみませんねえ。じゃあ今日からよろしくな」

 妙なことになったなと思いながら、私は密かに翔と久しぶりに会えたのが嬉しかった。こんなに一緒にいることになるのは久しぶりだ。


 そうして私と翔の七日間が、はじまった。

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