「南区」③
その姿を視界に収めたことは一度もなく、ただ見られていたという感覚だけがある。過去の自分が向けられる視線に気づいていたという記憶ではない。今思えばその出来事の全体がそういう存在によって眺められていたにちがいない、そうでなければおかしい、というような、今の自分が記憶に対して抱く印象であって、融はこうした違和感を言葉にしないから繰り返し繰り返し、記憶のなかに猿の目をみるたびぶつかることになっていた。そもそも融の頭に言葉は「猿」とさえ浮かばなかったし、猿の姿も想像してはいなかった。ただその視線の主を人だとも獣だとも思わなかっただけだ。しかしそれはたしかに融の短い人生を俯瞰し、その後を大きく左右するいくつかの出来事の一切を見張っていて、それらにまつわるあらゆる記憶が、こうした目の存在をそれとなしに指し示していた。
だから半年前のその日はじめて訪れた佳乃の部屋、自転車で辿った学校から佳乃の家への道のりや、殆ど恐怖に近い期待をおぼえながら受けた午後の授業、今となっては苛立ちの種ともなりつつある佳乃の湿っぽく意味ありげな言葉遣いに目線、もうほとんど見ない制服のスカートから伸びた白くて長い脚のさきで空中に弄ばれる黒いローファーにさえ、こうして思い出せば猿の気配がついて回る。
その時すでに学校には週に二度も顔を出せば学級担任にも文句は言われない立場を得ていた佳乃からすれば、傍目にはルーティンのように見えていた、晴れの日には二限目の授業を半分くらいで遮る登校時間や中庭の端っこでとる昼食、同じくひとりそこに座っている融とのきれぎれの会話も、その日のいつもより早い早退や融に自分の家を教えて待ちかまえていた理由も、同じように単なる気まぐれに過ぎなかったのだろう。殆ど一方的な内容のない会話からも彼女のそうした性質を感じ取っていた融は、だから最初から、それ以上の意味をつとめて見いださないようにするつもりではあった。しかしそうした賢しささえ押しのけては人と人の間にあるすべてを付き従わせてしまうのが性行為というものだ。融の頭の中では、始まりがどうあれ大事なのは今なのだというような生半可な論理が、この異常な事態への違和感や、あの日中庭でわざとらしく目を細めた思わせぶりな仕草への苛立ちを、徐々に押し流しつつあった。
ベッドから垂らした足の甲が、強い光に焼かれているのを感じる。光は向こうの窓、カーテンの細い隙間から斜めに差し込んでいた。部屋全体が暗いから光の通り道は立体的に見えて、その中を浮遊する塵をみるうち、逆にその外、闇で満たされたこの四角い部屋のなかの空間を意識する。そのイメージはゼラチンで固めたように融の身体にまとわりついて、家具や壁、天井もその力でそうしてそこにあるようで、背後でドアが開くのなどは何か信じられないことに思えた。
「──水」
「……」
「ねえって。水」
頭上から降りてきて視界をゆがませた、透明なグラスを受けとる。その中身を無言のまま飲み干した融から、立ち上がる暇も与えずにそれを取りあげた佳乃は、机へそれを置いた。
「……すんません」
光は近づいてくる佳乃の背中に遮られて、融の足の上を離れた。でもそんなことはもう忘れていた。後ろから照らされたその身体の、痛々しいほどくびれた腹部の輪郭──融の手はそれに触れて、佳乃の手は融の頭を抱えた。回り込んで逆側の頬に触れる指も、額に触れる骨の浮いた胸もひどく冷たく、腹も融の指先と殆ど変わらない温度ですぐになじんでしまった。
「いいよ」
「……何が」
「ぜんぶ」
嘘つけ、と言える気がしなくてただの息が漏れる。マットレスの上へ右膝を踏み込んだ、佳乃の腰へと融は腕を回す。信じがたいほど細くて、強く抱くほどに細く絞られていくなっていくような気がする。痛いよ、と笑った佳乃は腕を解いて、俯いた融の両頬を両手で包んで持ち上げる。目が完全に薄闇に慣れるまで、佳乃はその顔をじっと見つめた。
「なんですか」
突き出した薄い唇へ、返事もせずにみずからの唇を重ねる。左膝もマットレスへ踏み込んで融の熱を貪るように肌を合わせた。お互いの存在をたしかめるみたいに、ふたりはベッドへ倒れ込む。
✳︎✳︎✳︎
(セックス)
(融の親の話)
(猿)
南区 東風虎 @LMitP
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