「南区」②

 いかなる出来事もこうして起こっているからには必ず過ぎ去っていく。だから佳乃にとってはたいしたことではなかった。逃れえない苦痛でも待つことだけは許される。どうあれ一時間も経てば部屋にひとりでいるのだと思えば、母親からの制裁がもう決まってしまった日の帰り道でもそう深くは絶望せずにすむのだ。そうして佳乃は、当時の親からすれば不気味だったろうほど、どんな日でも同じ様子で学校へ通い、そして同じ時間に帰ってきた。

 どんな危機も時計で測れてしまえるならば恐るるに足らないと思っていた。いかに恐怖や痛みに塗り潰されていようが一日は二十四時間を超えず、比較的平穏な日と同じ長さのそれは、耐え忍ぶまでもなく待っていれば過ぎていく、──などと、そんな考えを持つことがこれまで許されていたのは、ただ単にこれまでこの身に降りかかってきた危機がすべて決められた時間にすぐさま降りかかるたぐいのものだったからなのだ。病室のベッドに横たえられた祖母の、まだ死んでいないだけの身体を目にしたとき、佳乃はそう悟ると同時、奇妙な感覚におそわれた。目に映る全ての線、輪郭と境界線、ふと目を落とした自分の右掌の皺までもが鋭くなってこちらへ迫ってくるようなそれはかつてないほど強烈な不安だった。昨日までのような生活が今から失われる、それがいつなのか最後まで明確にはわからないだろうという、不安──まだ小さかった身体が反復によって慣らされ忘れていたその感覚は、当時より五十六センチ大きくなった同じ身体を、瞬く間にすっぽりと包み込んだ。

 病室を出ても不安はおさまらない。血の気の引いた手足が徐々に冷えていくのを感じながら下る、階段を上がってきた父親の顔を見たとき、佳乃は恐怖よりもそれを呼び寄せた不安が去っていったことに対する安堵のほうを強く感じた。しかし不安はより強くなって佳乃を苛んだ。父親は驚きこそすれ、それ以上の関心を佳乃に示さなかった。ただ、もう帰るのか、と呼びかけるでもなくただ呟くと、足を止めもせずに娘を見送ったのだ。

 総合病院にほど近い駅の待合室で電車を待つ十数分、窓の向こうに人影の見えるたび佳乃の肩は跳ねた。やはり気の変わった父親が追いかけてくるのではないか、私をこのまま家へ連れ帰る気にちがいない。佳乃はやはりこの不安から逃れたいがために、そうした恐るべき終わりをどこかで待ち望んでもいたが、両手で数えきれる程度の往来はみな、待合室の傷だらけのガラスの向こうに少女の存在をみとめもせず、それぞれの道を急いでいった。けっきょく誰に妨げられるでもなく乗り込んだ電車のなか、佳乃はこのまま誰も知らない場所へ運ばれてゆきたいと夢見たが、二両編成のローカル線がゆく先は終着駅でさえ、祖母のいなくなったあの緑の家からは歩いて三十分も離れてはいなかった。


   ***


 祖母との二人暮らしは穏やかだった。一階でほぼ常についているテレビを種にきれぎれの会話とささやかな家事手伝い、二階の寝室ではつけっぱなしのラジオに耳を傾けるうち眠りに就く、その日々の美しさは今思えば、始まった頃からいつ終わってもおかしくないことを知っていたからで、一年半も続いたのは奇跡と思えるほどだった。母親のいた頃はおろか父親との二人暮らしの時期についてすら、佳乃は殆ど話さなかったが、そのことによってむしろ融はその日々の陰鬱さをありありと想像して、幼い頃の佳乃を憐れまずにはいられなかった。融がそうした憐みを口にすることはなかったものの、話題がみずからの家族のことになってしまったときの後ろめたそうな態度に滲み出た、それは佳乃にも見て取るように感じられたがとくに訂正もしなかった。実際その通り、思い返せば自分のことながら憐れでたまらなかったし、融がそんな苦しみを知らないことを申し訳なく思うのも当然と感じていたのだ。

 ただ、いくら融が自分を偽ることに不得手だとはいえ佳乃には想像力の限界というものがあって、そうした憐れみがほんとうはどこから来ているのかなど知るはずもない。 佳乃の部屋で会話が絶えたりふとひとりになると融はよく思い出した、アスファルトを黒くぬらす血液の赤い照り、目の前の高層マンションは道路沿いにベランダがあって各階で金属製の手すりが光っている。二階には布団が干してあってそれどころじゃないと思う。白い手。地面に広がる長い髪。背後ではすでに何事か察知して集まってきた何本もの脚が融を取り囲んで見下ろしている。走って逃げたような気がした。その記憶はまとまりのない断片だった、──とはいえ記憶というのが本来そういうもので、人の語る思い出がもつ流れや抑揚というのもそうしてあとになって思い出す過程で勝手に付け足されているにすぎないが──それならば尚更、融の記憶も反芻するうち自然と順序立ってきそうなものだったがそうはなっていなかった。

 融はその日もベッドに座ったまま、点検するようにその記憶と佳乃の証言を反芻した。ひとつ上の佳乃が小学五年生のとき。南区、大きな公園の近く。とはいえ融はそのマンションの位置もはっきりとは覚えていないし、時期については一年や二年前後にずれていてもおかしくない。未だ伏せられている佳乃の母親の死因が自殺だとも限らないし、そもそも佳乃はその女の生死についてすらはっきりとは語らないのだ。子供は案外すぐに利口になる、当然融にだって、目に見えるすべてを関連づけてしまわない程度の分別はついていた。今のところはどれもこれもありふれた偶然でしかない。それでも疑うことをやめられなかった理由はいくらでもあったが、そもそもそんな不確かな記憶をこうして大事に抱えている理由はたった一つしかなかった、──猿が見ていたのだ。

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