南区
東風虎
「南区」①
子供というものは案外すぐ利口になる。これは単に人間の成長のめざましさを喜ぶべきか。あるいは、人の持ちえるひととおりの利口さというものが一般に思われるよりも遥かに貧しいので、そんなものを身につけたことをいつまで経っても誇っているわれわれの傲慢さの方を正すべきなのかもしれない。どちらにせよ
融の誕生日の翌日、十月十四日は文化祭の二日目にあたる。こうした年に一度の行事というのは、まだ始まりもしないうちから湿っぽい空気が漂うものだ。いつかのホームルームで文化祭の話題が出たそのときから、この学校での文化祭はあと三回、二回、一回だけなのだから、と思うようになる。するとそこから誰一人として我に帰ることなく、それぞれの終わりに向けて着々と準備は進んでいく。そうして迎えた十月十四日の日暮れはほかのどの日よりも物悲しく、そのために待ち遠しかった。
その日、校内に立ち込めていた熱気はだから、それを毛嫌いする数人の生徒たちの思うような、単なる子供じみた熱狂ではなかった。むしろそれは早すぎる成熟の結果の、老人じみた趣味であるともいえる。いずれやって来るこの楽しい一日の、この青春の、もしかすればこの生の、終わりが気にかかるからこそ今が惜しいのだ。そして成熟は数少なく気難しい彼らにも平等だった。どれだけ周囲と距離を置いた気でいようと、二日目の昼を過ぎた頃にはふと、何か自らの人生に欠けてはならない、決定的なものを取りこぼしつつあるような感じが彼らを捉える。そうしてそのひとりめが、何を取り返すつもりか、そろそろと校内を彷徨いはじめたころ、融は学校を出た。
前輪、後輪と校門のレールをまたぎ、その衝撃がハンドルから両手、サドルから腰へ伝わる。その感覚にふと、知らぬ間に俯いていた顔を前へ向けて、融はやっと自分の怒りに気づいた。悲しみや寂しさのような感情は、その行き場のなさが知れてしまえばどこか滑稽さをともなうので、自覚した時点でもうある程度癒やされてしまうものだが、怒りはその限りではない。もしも怒りが漠とした広がりのように感じられるとしてもそれは単に、絶え間なく枝分かれしては内へ外へと無数に矛先を増やしているからにすぎない。怒りには必ず矛先がある。
ペダルは回っているのでなくただ気に喰わないから足蹴にしたものが返ってきたのをまた踏みつける、その繰り返しの直線的な動きに感じられる。繰り返し、繰り返し、繰り返し! 融の怒りはつねに反復へと向かうものであり、それゆえにかならず、その矛先はまたしてもそうして憤りに身を任せてしまっている自分自身にまで届くのだ。
追い抜かしていく車も追い抜かされていく景色も、さっきまで顔を突き合わせていた学校の生徒たち、に背を向けているおれ自身、その怒り、にもかかわらず性懲りも無くまた向かう、その先に待ち受けているものさえ、そこの溝に落ちているふやけた古雑誌、向こうの小さな畑に蹲る老人の体とおなじく昨日の反復でしかない、いや、それのみならず昨日よりさらに腐っていく。
己を罰するつもりか、やはり単なる苛立ちのあらわれか、融は長い登り坂を一度も休むことなく漕ぎきり、その頂上で大きく息を吐いた。頭上は雲の白色の映える秋晴れだが顔を上げないから気分が晴れない。下り坂はゆるやかに曲がりくねりながら少しずつ、右手に見える駅前の街の景色を離れ、畑の中央を横断する。次の角を右に曲がれば国道の下を通る小さなトンネルを抜けて、背の低い民家の間を縫う通りへ入る。瓦屋根を載せるにはあまりに頼りなさげな煤けた壁、もう誰もいないのに土埃のにおう小さな工場、鯖の目立つトタンで囲われたガレージと続くその通りは、自転車で抜けていけば一分としないうちにその、のっぺりとした濃緑の壁に突き当たる。そこまでの風景に慣れた目では、その大きく清潔な壁もやはり民家の外壁でしかないことは勿論、その右下の角にある三角形の切れ目のような部分が玄関であることもすぐには理解できないだろう。その壁に沿わせるように駐めた自転車のスタンドを、スニーカー越しに痛みが伝わるほど強く蹴った、融は来た道をふと振り返る。
不自然だった。外から見てそこでの暮らしを想像することすら忌まわしいようなあの家々に纏わりついている粘っこい生活感のようなものが、同じ通りにあるくせにこの家からはまるで感じられない。じっと睨んでいても、まるで金持ちに向けた広告のように、手触りを剥ぎ取られた幻影が瞬くのみだ。しかもこの家の中で営まれている暮らしの実態はそんな幻からさえかけ離れている、それをおれは知っている。
融は玄関へ向かうまでの十数歩を、己の憤りを表明するかのように激しく、滑らかな駐車場の白いアスファルトに叩きつけた。インターホンも押さずに大きなドアノブを掴むと一気に引いた。
歯医者みたいなにおいがする。ゴム製のサンダル二足だけが行儀良く並んでいる玄関に乱雑にスニーカーを脱ぎ捨てた。大理石の冷たさが靴下を貫く。埃ひとつない短い廊下の突き当たりには上品な焦茶のドアは広いリビングへとつながっていて、ドアの中央に嵌め込まれたすりガラスの向こうに充満する真昼の光は大理石の床をたどって一直線に融の足元まで届いていたが、それをほとんど視界にも入れないで、右手にある階段へと目を向けた。
幅の広い階段は打って変わって乱雑で、右の壁際を得体の知れない段ボールや山積みの紙類、小さなゴミ袋がいくつも続き、踏み出すたび足の置き場を逡巡したが歩調はゆるまなかった。勢いのまま倒れ込むようにたどり着いた、階段のうえ廊下の先のドアノブの冷たさに融の身体はみずからの熱さを知る。汗が噴き出した。すぐにぬるまったドアノブを回して開いたその扉の先、乱雑な机と荒れたベッドの間、部屋のちょうど真ん中、革張りの黒いデスクチェアの上で、もうひとつの身体は待っている。ワンピースのように着た大きなTシャツから伸びる白い足は空中に遊んでいたが、融が部屋に踏み込むや折り畳まれて座面へもどっていく。膝を抱えた指も白ければ腕も白く、首も顔も白くて、血の通っているのか疑わしい唇は三日月型にゆがんだ。細められてもなお円い瞳が、はっきりと融を捉えていた。唇がひらく。
──来るんじゃん、やっぱり。
駆け寄る、融だって本当はこんなことばかりしていてはと考えてはいて、それは
その吐息が、深く沈んでいた佳乃の意識にまで届いたことに、融は気づかなかった。見開いたままで乾いていた目をゆっくりと、閉じて開いて融に向けた。時間を気にしているのだろうか、時計が掛かっている向こうの壁をじっと見ている、融の横顔は逆光になっていて、表情がわからない。ただカーテンの隙間から差し込む西日が、長い睫毛とまっすぐな鼻筋を赤く照らして、唇から顎への輪郭線を明確なものにしていた。まるで恐れも傷も知らずに生きてきたかのようなその均整を、佳乃はたびたび疎ましく思った。逆光で見えないその首筋の赤黒い跡、ついさっき自分が与えた傷の証拠を、佳乃自身も忘れていたのだ。
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