梓弓 オリジナル

天音 いのり

第1話

 遡ること、千年前。片田舎に、一人の男が住んでいた。彼の名前は、あづさという。女癖が悪い、と有名な男であった。


 ある時梓は、風の噂を耳にした。男たちが一人の女性に夢中になって、争いごとを起こしているというのだ。どうやらその者は、自分と同じ町に住む、つきという女性らしい。梓は、噂になる女性がどれ程のものなのか気になった。そして、体が何とも知れない存在に操られたと思える程必死になって、家を飛び出したのだった。


 自分は生まれてから一度も、人を好きになったことがない。どんなに美しいと謳われる者でも、心から美しいと感じたことがない。愛、というものが何なのか分からない。もしも、月という女性を目にしたら、好きになれるだろうか。恋をすることができるだろうか。梓は走りながら、まだ幻想でしかない月と、これまで出会った者たちとを比べていた。


 この男は、恋に恋していたのである。女癖が悪いと言われているのは、この為だった。


 どれ程の間、走り続けただろうか。気が付けば辺りの空気が一変していて、足の力が抜けた。息を切らしてようやく辿り着いたのは、彼女の家の裏側と思われる場所であった。そこで、男の荒々しい声が聞こえた。


「おい、男。そいつを寄越しな。そいつは俺の、許嫁なんだ」

「ああん?なんだてめえ、月さんのことをそいつとか言いやがって。そんな奴にやれっかよ」

「やんのか、こらぁ」


馬鹿馬鹿しいと思った。どんぐりの背比べじゃあないか。


「おい、そこを退きな。他人ん家の前で、みっともない。あんた等が欲しいのはその女性でなく、地位と財産に過ぎない。俺にはそう見えるんだが、違うか?」

「「…。」」


図星だったのか、男たちは黙り込んだ。


「そ、そうだそうだ」

「お月さんから離れろ」


さっきまで野次馬をしていた者たちが、自分の肩を持ち始めた。

そして、気まずくなったのか、男たちは逃げ去ったのだった。


 トントン。自分の右肩が、何者かによって叩かれた。振り向くと、そこに居たのは老婆であった。


「あのぉ、助けてくださって、ありがとうございました。ここ数日ずっと騒がしくて、困っておりました。お詫びと言ってはなんですが、ご存じの通り、家には月という娘がおりまして。彼女をあなたさんのお嫁に差し上げます」


そう言って老婆は、一度家に戻って月と思われる女性を連れて来た。


「私が月でございます。お助けいただき、感謝いたします。どうか私をお嫁にもらってくださいませ」


 突然のことに、頭が回らなかった。が、この人となら恋ができるかもしれない、好きになれるかもしれないと、思った。


「頭を上げてください。感謝されるようなことをした覚えは、ありません。こんなに素敵な娘さんを頂戴しても、良いのですか?」

「ええ、もちろんでございます。あなたのような殿方になら、安心して娘を嫁に出せます」

「では、ありがたく頂戴いたします」


 こうして梓は、月を嫁にもらってきたのだった。とはいえ、月はまだ結婚できる年齢でもなかったので、そのときが訪れるまで待つことにした。月はというと、十も離れた自分の下へ嫁入りするということに対して、嫌な気一つなさそうに、振舞っていた。一度、彼女に尋ねてみたことがある。


「本当に、俺のところで良かったのか」

「ええ、あなた様が良いのでございます」

「なぜだ?俺なんかよりも立派な男など、山のようにいるだろうに」

「いいえ。あなた様以上の殿方など、おりません。こんなにもお優しい方に嫁ぐことができて、月は幸せです」


 こんなにも、自分を想ってくれる人が居たのかと、嬉しくなった。そして同時に、恋に落ちた。初めて、人を美しいと思った。一生大切にしようと、心に誓った。


 しかし、この誓いも一時の夢となってしまった。


 梓のもとに一通の文が届いたのだ。宮中からであった。そこに書かれていた内容は、次のようである。


『梓殿

この度、宮中の屋敷に仕えてもらうことが決まった。直ちに都へ参るように。』


 このとき、梓の脳内を巡ったことはただ一つ。月と離れたくないということであった。しかし、自分の意思ではどうにもならない。


 梓は、都へ旅立った。愛する月を残して。


…………………………………………………………………………………………………


 あれから、三か月が経った。月は、毎晩毎晩、天を見上げては梓の帰りを待っていた。だが、彼が帰ってくることはなかった。


 ある日のことである。近頃、月に心を寄せる者が現れた。その男が、


「今夜、逢おう」


と言ってきた。月は、日が沈むまで、頭を悩ませた。その結果、その男と逢うことにした。梓のことを忘れた訳ではない。そんなこと、一日たりともなかった。だが彼女には、その道を選ぶ以外に、どうしようもなかったのだ。


 男が家までやって来た。満月の光が、二人の影を映し出した。夜が明けまで、お酒を呑み交わし、歌を詠んで過ごそうとしていた、丁度そのとき。かの男が再び現れたのだ。

 コンコン。


「扉を開けてください」


月の手は、扉の方へ伸びかけたが、止まった。ここで開けてしまっては、私の未来がなくなってしまう、そう思った。扉を開ける代わりに、歌を詠んだ。


『三年の間、あなたのことを待ち続けたのですが、待ちくたびれてしまいました。丁度今夜、新しい旦那様と新枕を交わすのです』


『弓にも色々あるように、多くの歳月を重ねて私があなたを愛してきたように、あなたも新しい旦那さんを愛してください』


そう詠んで、梓は立ち去ろうとした。


『あなたが私を愛していらっしゃろうが、いらっしゃるまいが、昔からずっと私の心はあなたに寄り添っておりましたのに』


月はこのように詠んで、梓を引き止めようとした。しかし、梓は帰ってしまった。

月は悲しかった。男を家に置いたまま、梓の跡を追ったけれど、追いつくことはできなかったのだった。


 ふと、気が付くと、月は清水の音を耳にした。目から滲み出てくる涙を隠すように、倒れ込んでしまった。


 そこにあった岩に、血の付いた指でこの歌を書きつけた。


『私が想っても、想ってもらえずに、遠ざかってしまう人を留めておくことができなくて、私の身は今、すっかり消え去ってしまったようです』


 そうしてその場所で、月の命は、絶えてしまったのだった。

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