原風景

 ちょうどその日は土曜日だった事もあり、彼女は家にいた。


 この村の中ではかなり真新しく見えるコンクリ二階建て四部屋ずつのアパート、それでも築十年は下らないであろうその建物の一階、103号室がその女性の住居だった。


「どちら様ですか、ってああ蕎麦屋のお婆さん?」

「違います、東京から来たんです」

「東京から……何しに来たんですか?」

「別に何でもありません、単に話がしたいだけで……」

「まあいいですよどうせ今日は休みなので、ああちょっと待って下さい」


 その女性がどうぞと言ってドアを開けたのは五分後だった。その2DKのアパートには休みであったはずなのに書類が目立ち、そして女性の化粧は私よりも濃かった。また台所には食べたばかりと思われる煮物が乗っていたと思われる器と、ご飯とみそ汁が入っていたと思しき茶碗が水の貼られたボウルの中に浮いていた。隣の部屋にはベッドの横に通販会社の物と思われるダンボール箱が積まれている。


「結構広いんですね。床の段差もなくて過ごしやすそうですね」

「まあ、元々は不動産会社が独居老人を当て込んで作ったアパートですからね。でもこの村の人たちは親子仲が大変いいせいか全然そういう人が入らなくて、八部屋ありますけど入ってるのは私を含めて四部屋だけで、そして私と同じようによそからこの村に来た人間だけです」


 そのアパートの家賃は月三万円だと言う。地理的条件に大差があるとは言え、こんなアパートが東京で駅から十分と言う場所に建っていたら、倍以上の家賃を取っていたとしても全く驚けない。


「県庁所在地からこちらに赴任して来たそうですけど」

「ええ、この村の産業を振興し過疎化を防ぐために派遣されたんですけど、ここは知っての通りこんな村でしてね。人口が減る様子なんて全然なくて、そのせいか二年目からはこの村がどうして安定を保ち続けているのか調査せよと言う事になりましてね……」


 美人であるかないかと言われれば、彼女は間違いなく美人だった。そして、全くの初対面なのにどこか見慣れた顔付きをしていた。


「この村に赴任して三年ですけど、正直疲れましたよ、色々と」

「さっき蕎麦屋でこの村の人と結婚して離婚したって話を聞きましたけど、どうして」

「……まだ離婚はしていませんよ。ったく、これだから嫌なんですよここは」


 我ながら実に無遠慮な、普段ならば絶対しないだろう物言いを私は初対面の相手に向けてぶつけている。相手の女性が苛立つのは至極当たり前だ。それなのに今の私は平然とそれをやっている。そして謝る気になって来ない。


「ああ、どうして結婚しているのにこんな所に住んでるのかって言いたいんでしょう?わかります」

「そうです、どうしてそれなのに」

「私がさっき、あなたの事を何て呼んだか忘れたんですか?」

「蕎麦屋のお婆さん……」

「その時、あなたは何か思う事はなかったんですか」

「いえ、さっきも言ったように蕎麦屋さんで話を聞いてここに来たので。それでその際にその蕎麦屋の奥さんの顔も見て来たので、間違えられるのも無理はないかと思って」

「あなたお年はいくつですか、まさか三十代なんて言わないでしょうね?」

「三十七歳です」

「ああ、そうですか!」


 おそらく、私の顔色は微塵も変わっていなかっただろう。家主の女性の顔色がどんどん紅潮し語気が荒くなって行くのとは好対照を描いていたはずだ。そしてそれが尚更相手の神経を逆撫でし、なおさら頭を熱くさせたのだろう。そうでなければ、私の顔から最も想像しやすいであろう三十代と言う年齢に対してああいう物言いをするはずがないし、そんなに声を荒げる必要もないはずだ。


「悔しくないんですか?お婆さんと呼ばれて!」

「最初に呼ばれた時は驚きましたよ、でも実際に会ってみて話を聞いたら納得しました」

「私はあなたより二つ下ですよ、それなのにお婆さんって言われたんですよ!さっき離婚なんかしてないと言いましたけどね、今でもそれさえ撤回してくれればいつでもよりを戻してもいいって気持ちは残ってますから」

「どういう事ですか」

「相手の人が十七個上で既に孫がいる事は知ってたんです、そして私の年を鑑みてくれるとも言ってくれたんです。ところが彼の息子さんもその嫁も全く人の話に耳を傾ける様子がなくて、三十五歳の私に向かってお婆さんお婆さんって一人息子に言わせて……どんな教育をしてるんだかまったく呆れますね。

 確かに戸籍上では私はその人の息子の義理の母、つまり息子の子どもから見れば祖母ですが、ようやく結婚したと同時にお婆さん呼ばわりされる筋合いはありません。おばさんならば百歩譲って許せるとしてもです!ったく、こんな所で男に飢えてその挙句あんな無遠慮な人間に魅かれるなんて、我ながら一生の不覚でした」

「私は一度も結婚していないんです、お婆さんどころかお嫁さんにすらなれていないんですよ。恋人もいませんし」

「ああ、そうですか……」

 二歳ぐらいの差で見た目が変化する物でもないはずなのに、目の前で顔を真っ赤にして声を荒げる三十五歳公務員の初婚と思しき女性と、三十七歳蕎麦屋の店主の妻で既に孫を持っている古川さんにはかなり年齢の開きがあるように思えて来た。ただ、目の前の女性は顔のパーツやその他の要素は年齢相応のはずなのだが、その割にどこか老けて見える。私と同い年か、さもなくば四十越えぐらいか。一方で古川さんは同い年の私よりもずっと若々しく、肌が艶やかに見える。三十歳ちょうどでも通りそうだ。


(そう言えば、みんなこんな顔をしてたな……)


 私は彼女の面相に不思議な親近感を覚えた。

 誰だって、接する相手がしかめっ面をしているより笑っている方がいいに決まっている、にも関わらずだ。

 古川さんの様に何一つ憂いのなさそうな顔をした人間を、私は東京で見掛けた覚えがない。みんな目の前の彼女のように、どこか憂いを含んだ顔をしていた。もちろん私とてその一人であり、私の目の前に座る女性がこういう面相をしながら東京で歩いていた所で、私は全く注目しなかっただろう。それなのに、今一対一で向き合っているとは言え、そういう東京ではありふれた人間であるはずの彼女の存在が、異様なほどに大きくなっていた。


「本当に東京から来たんですか?」

「はい、生まれも育ちも東京で、東京からほとんど出ないで過ごして来ました」

「はあ…………疑ってすみません。いや、東京って本当にいい所なんですね」

「まあ……私は生まれも育ちも勤務先も東京で、他は全て行く先でしかありませんから」

「東京では一日中激しく人や物が動いているんでしょう?何か私、こんな所で取り残されている気分になって来るんです。故郷の県庁所在地にいた時にはまだともかく、ここでは未だに一匹の猫の話題が大手を振ってるんですからね」

「男の子の三毛猫ですか」

「そうですよ、二年半も前ですよ。確かに珍しいらしいですけど、そりゃ以前はよそから見に来る人もいましたけど…今じゃすっかり忘れ去られた存在で、最近誰かが種付けができないかどうか試してるって話を聞きましたけど…ってああ嫌だ、そんな半年も前の話題を持ち出すなんて」

「あのダンボールは」

「通販で買った化粧品です。東京だと化粧品店なんて歩けば当たる物なんでしょう、ここから一番近い化粧品のお店はここから歩いて二十五分の駅から電車で五駅先、都合一時間以上かかるんですよ、しかも品揃えも貧相で。髪に関してもここには四代目の家業だって言う床屋ぐらいしかなくて、この髪型だって延々一時間以上かけてさっきの駅の側の理髪店で、化粧品の買い物と合わせると丸一日かかるんですよ……いいですよね、東京は」

「確かに数は多いですよ。でも量が多いと質が低い物も多くて」


 三十代後半の女同士で他愛のない身の上話をしている間に、彼女の顔から赤みが消え険が取れていた。しかし笑顔になった訳ではなく、溜め息を吐く音が聞こえて来そうなほどに頭を垂れており、そして彼女の目に輝きはなかった。


 一人の祖母となった女性とほとんど同じ顔をした同い年の私、同じ村に住む二つしか違わない彼女。東京であればさして浮かない存在であるはずの私たち二人。

 三十代独身女性の身の上が楽な物ではない事はよくわかっているが、それにしても先程までここならばともかく東京ではありふれていた彼女の顔は、今や東京でも見た事がないぐらい淋しさに満ち溢れていた。


「ここでは孤独になる事もできないんです……」

「申し訳ありません」

「謝らなくっていいですよ、別にあなたとは関係ありませんから……」


 彼女はだんだんと泣き声になっていた。

 確かにこの村で孤独になるのは相当に難しいだろう。兄弟姉妹が多く生まれている上に、二十歳にもならない前に婚姻してそのまま親の家業を手伝ったり継いだりするとなると、生涯親兄弟の視線を受けながら過ごさざるを得なくなる。

 孤独になるなら民宿のおばさんの次男の様に村を出て行くしかない。それができない彼女の苦渋を、私は感じる事はできても代わる事は出来ない。


「お邪魔しました……唐突な訪問でご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえ結構です、あなたの様な東京の人とお話できて、今日の私はラッキーです……」

 その言葉に、誇張はあっても嘘はなかった。

 彼女は、ずっと苦悩していたのだろう。誰だって、自分と合わない人間より会う人間の方がいいに決まっている。

 だからこそ、私が本当に自分の気持ちを受け入れてくれるか試しにかかって来たのだろう。上から目線その物の思考であるが、そう考えると彼女が実に愛しく、そして懐かしく見えて来た。







「お発ちになるんですか」

「ええ、大変申し訳ありませんけれど、急な仕事が入っちゃって……」


 私は、この村を早急に去る事に決めた。その為に、二日間予約していた民宿に断りを入れ、仕事があると嘘をついて駅へと向かった。

 田舎と言いながら、人口六ケタの都市を結ぶ線に駅があるせいか電車は案外と多く、終電は午後十時二十八分だった。ここに来る前にあらかじめ調べておいたから間違いない。



(ここは、こういう場所なんだろうな……そして私にとって、あくまで異邦人として来るべき場所……)



 骨の髄まで東京が染み込んでいる私にとってここは異世界であった。たまに触れるにはいいかもしれない、でも東京の感覚を持ち込んだまま生きられる場所ではない。


(いい人、見つけなきゃな……)


 東京で一生を終える、その事を認めてくれる人。それが今の私が結婚相手に求める唯一最大の条件。

 それとて低いハードルではないつもりだが、見通しが立った事だけは間違いない。それだけでも、この二日間には意味があったはずだ。


 飾りっ気のない情と緑が青々と萌える山から、私は電車と言う文明の利器に乗って去って行き、虚飾が溢れかえる文明の塊である東京へと帰って行く。




 そう、私にとっての原風景へと。

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三十路のババア @wizard-T

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