正体と差

 次の日、日曜日の昼間。市川さんの家に招待された。


 私が疲れを抜きたいのでとやんわり断ろうとすると奥さんがどうしても会いたいのよと言って来た。


「娘が二人いたけどな、どっちもこの家から去っちまってな。姉の方は去年嫁に行き、妹の方は今度の四月で社会人二年目だ。この家に二十代の女が来るのは正月に二人の娘が帰って来て以来だ」

「そうですか」

「ママが言ってたよ、休みの日は酒も飲まずにランニングして自炊してるって。そういう所がさ、俺の様なおっさんからしても好感が持てるんだよね」

「それはありがとうございます」

「それでさ、俺もこの年まで働き詰めでさ、医者からも結構体にガタが来てるって言われるんだよね」

「酒を控えろとか言われてませんか?」

「それはないんだよね、代わりかどうか知らないけど骨が弱いってよく言われててさ。そのせいか最近はおやつが煮干しばっかりでね」

「煮干しですか……骨だけじゃなく歯にも良さそうですね、今度もっと食べようかな」

「実に真面目だよね光江ちゃんってさ、それで光江ちゃんに見てもらいたいもんがあるんだけどさ、これ」


 市川さんはゆっくり立ち上がると、LWYのスポーツドリンクとコップ二つを持って戻って来た。


「あそこの店でもたくさん使われてるんだろ、LWYの健康飲料って。光江ちゃんの家にもたくさんあるんじゃないの?」

「はい」

「それなんだけどさ、実はさ、LWYが財務省のお偉いさんに袖の下を渡したって話を聞いた事ないかい?」

「はぁ?」

「そうかないのか。ならいいんだけど、これ見てくれないか」



 市川さんは自分が座っているソファーの傍らにあった封筒を私に差し出した。



 封筒の中にはLWYの社長自らの指示で厚生労働省の誰々にどれだけの額を渡したのかと言う事について非常に細かく書かれている。


 でも、一ヶ所だけおかしい所があった。日付が九年前だった。


「なんでこんな古い物を」

「九年前の九月、何が起こったか覚えてるかい?」

「いえ、何も……………」

「矢部健康に大スキャンダルが起きてさ、それまでLWYと業界を二分していたのが一気に凋落しちゃって」


 九年前の九月、私が全てに絶望していた中、世間では一つの事件が世を騒がせていた。矢部健康の社長自らが指示して他社の悪評を撒き散らし、業績を悪化させようとした事が発覚したのだ。

 しかもそのほとんどが事実無根であり、かつ十年以上前から同じやり方を続けて同業他社を経営不振に追い込み吸収合併していた事が発覚。

 社長の矢部は巧みに逃げ切って逮捕こそ免れたものの、矢部健康の株は暴落し会社は一気に没落。二年前、ついに倒産したのである。


「それじゃこの資料は……」

「完全なでたらめ。ただそこに書いてある名前は全部本当、そうやっていかにももっともらしい物を作る事によってLWYの評判を落とそうとしたんだよ」

「怖いですよね、それで矢部はその後どうなりましたっけ、逮捕はされなかったようですけど」

「全く、悪知恵だけは良く働くと言うかね、多数の手駒を使ってそれにそういう汚い仕事をやらせていたみたいでね、逮捕された社員は三人だけだよ。全体では二十人近い逮捕者がいたって言うのにね。それでさ、最後のページの一番下を見てよ」


 市川さんの指示の通り、最後のページの下を見るとそこには六角平太と言う名前があった。


 六角平太。双海光江と言うのも相当に特別な名前だが、六角平太と言うのも同じぐらいかそれ以上に特異な名前だ。


 まさか父が殺した六角平太と言う人物が、こんなでたらめな物を書いたとでも言うのか。


 父が六角平太と言う人間を殺したのは八月九日だから、この偽造レポートを書き上げる事は可能である。


「市川さん、これをどこで……」

「実はさ、この偽レポートは使われる事はなかったんだよ。これが矢部健康の社長に渡る直前に、このレポートを書いた六角って奴の素性がばれちゃったらしくてね」

「素性?」

「LWYのその時の専務で、今は社長をやっている女性がいるんだけどさ、彼女に偶然を装って近づいて、ハウスキーパーとして入り込んでさ」

「まさか産業スパイだって言うんですか?」

「どっちかって言うとハニートラップかな、六角平太ってのはけっこういい男だったらしいし、それでかつみじめそうな姿をしてたからなんとなく母性本能的に魅かれちゃったんじゃないかなって話だけど。それでその現社長の家に住み込みで働く事になって」

「ところが素性がばれて捨てられたんですか?」

「いや、彼女は邪な志を捨ててくれるならばって事で守ろうとしたみたいだけど、本人が自ら出て行ったみたいだな、この偽造資料を売り込めば矢部は報酬をくれるだろうと思って。でも実際には正体が露見した事を理由に矢部はレポートの受け取り、正確に言えば報酬の受け渡しを拒否したんだ」

「どうしてそのインチキレポートが市川さんの手元にあるんですか?」


 私としてはそれを聞かねばならない。どうしてLWYを貶める為だけに作られた汚れたレポートが、健康飲料業界と全く関係のないはずの市川さんの手元にあるのか。


「実はその後、俺のとこに六角がこのレポートを持って来てさ。無職の自分が発表しても説得力がないからって言ってさ。余りにもしつこかったもんでコピーならば受け取ってもいいって言ってさ」

「これがまがい物だって気付いたのはいつですか?」

「三日で気が付いたよ、狙ったようにこの前後に大きな出費があった人間の名前ばかり並んでいたんだからな。まあ民間企業と言えども出世すると役所との付き合いも増えるもんだからね。うちは厚労省とは関係のない会社だけど、知り合いの役人のそのまた知り合いの名前がずらりと並んでいたからね」

「警察に出さなかったんですか」

「出したけどコピーじゃ証拠能力がないって言われてね。やはり原稿じゃないと決定打にはならないようでね。それで一応預かってはくれたけど原稿が手に入ってしばらくしてもし良ければって事で返されてね」

「原稿はいつ警察の手元に入ったんです?」

「このコピーを受け取った四日後に、六角平太が殺されたんだ。それで彼の持っていたCDに原稿が入っていたらしいんだ。そして他に三部ほどコピーも入っていたらしい」


「市川さんが動く様子がないので、他の誰かに売り込もうと……でも残念ですね、LWYの社長さんは改心してくれる事を期待したのに。そんな形で死んでしまうなんて」


 私はこの時このレポートの書き手である六角平太と、父が殺した六角平太さんは同一人物であると確信していた。

 だとすれば、いかに非道な行いに与していたにせよ、父により命を奪われた被害者である以上悪し様に言う訳には行かない。


「本当に優しい女の子だね、君は」

「人間死んだら終わりですよ、いくらでもまだやり直す機会はあるはずだったって言うのに、えーといくつでしたっけ」

「二十八だよ」

「ほら、まだまだどうにでもなる年齢だったじゃないですか」

「何か随分必死に擁護してるけど、どうしたんだい一体」

「いえその、私はただ単に正論を言っているだけです。それでその、その人の葬儀はどうなったんですか」

「さすがにそれは知らないけどね、と言うか何故六角平太にこだわるんだい?教えてくれてもいいんじゃないのかな。ママの為にならないよ」

「…………私の事を遠ざけないのであれば、今後ともご贔屓にしてくれるのならば」

「わかったわかった、何でも話してみなよ」


 自分の為と言われてもさほど気にならないが、武川さんの為と言われると正直手の打ちようがない。

 市川さんも武川さんと同じように私と長い付き合いの身、私を動かすコツを掴んでいたらしい。



「わかりました…………六角さんを殺したのは私の父です」



 私は遂に観念した。ここで真相を話して市川さんに突き放されるのならば、それは私のどうにもならない宿命。


 私は、私の深く、そして永遠に消えない傷を私は市川さんに開いて見せた。


「確か十日前に死んだって言う」

「はい、その人です」


 市川さんは表情を全く崩す事なく、異物を嘔吐し終わったかのような有様で頭を垂れている私のつむじをじっと見ていた。


「さっきは嘘を吐いてすまなかったな。実は六角平太の遺骨は引き取り手がなくて、無縁仏として埋葬されたんだ。あの事件の後彼の祖父の兄の孫、要するにまたいとこが俺のとこにやって来てね。六角平太の事を語ってくれたんだ」

「どんな人だったんですか?」

「メディア関係の会社を片っ端から受けてほとんど不採用、辛うじて三流ゴシップ雑誌を発行している末端企業に採用されたけど、上司や同僚と噛み合わず一年で退社して借りていたアパートも引き払ってその後はそのまたいとこの家に転がり込んでいたらしいんだ。家賃とか言ってお金は渡していたからまたいとこも承知していたらしいけど、どうもその頃から怪しい仕事に手を付けていたらしくてね。一応元報道関係者だったし、その肩書を使っていろいろ危ない事をやっていたそうで」

「それで遺骨の引き取りを拒否したと」

「ああ。またいとこなんて核家族化が進んでいる世の中ではほとんど他人だよ。家の外だけじゃなく家の中でも相当な迷惑をかけていたらしく、死んでくれて清々したと言っていたよ」

「ではそのまたいとこの方の家を教えて下さい!」



 六角平太さんの身内がいたと言う話、それは私にとって蜘蛛の糸であった。父が犯した罪をようやく懺悔する事が出来る機会が訪れたのだ、逃す訳には行かないとばかりに垂れていた頭を全力で持ち上げて声を張り上げた。


「光江ちゃんを目の前にして言うのは何だけどね、女性ってのはたくましくて強いもんだよ。うちのカミさんなんかこの紙くずをこんどメモ代わりにしようかなっつっててさ」

「あの、えーと」

「光江ちゃんに見せるまではまっさらなまま置いとくけど、光江ちゃんに見せ終わったらメモ代わりに使い倒してそれから捨てるってさ」

「シュレッダーとかかけないと」

「そこは大丈夫だよ、俺の私物の奴があるから」

「いやそうじゃなくて私は六角さんのまたいとこの方の住所を」

「光江ちゃん、君って案外幼いんだね」

「幼い……」

「ママから聞いたよ、お父さんの葬式でずいぶんつっけんどんな態度取ったんだって?」

「身内に甘くよそ様に厳しくでは誰も歓迎しませんよ。市川さんだって専務さんになるまで出世するからには」

「光江ちゃんってナルシストなの?」

「ナル……シスト?」


 自分にしてみれば渾身の思いで六角さんのまたいとこの住所を聞いたつもりなのに、市川さんはまともに答えようとしない。


 そればかりか、幼いとかナルシストとかそんな言葉を市川さんから聞かされるとは思ってもみなかった。


「教えてあげてもいいけど、その場合もう二度と俺は123には通わないよ」

「そんな……!」

「光江ちゃんのお父さんの葬式には光江ちゃんを含めて六人の参列者があったよね、それに対して六角平太の葬式の参列者はゼロだった。意味が分かるかい?」

「…………ええ」

「六角平太ってのはそういう人間だった。今更それを殺めた人間の娘が頭を下げに来た所でこっちの方がそんな人間のせいで人生をぶち壊しにして謝りたいぐらいだとか、今さら謝られても何も答えようがないとか、あるいは忘れたかった嫌な過去を思い出させてとか、要するに尚更不愉快にさせるだけだよ」

「……………………」



 私は一応、あの事件が起こるまでは父親として慕っていたつもりだった。


 それに対して最大限の背信行為をされたからこそ、私は双海真二と言う人間を誰よりも厳しく扱って来た。

 その一方でそのまたいとこにとっての六角平太は、希薄な血縁をふりかざして自分のテリトリーに勝手に入り込み、公私ともに踏み荒らして去って行ったただ迷惑なだけの存在であった。


 確かにそんな迷惑なだけの存在の副産物と言うべき私がのこのこ姿を現した所で愉快な気持ちになどなりはしないだろう。被害者への補償などと言う綺麗事のオブラートに包まれた全くの自己満足であり、神経の逆撫でである。


「…………………わかりました、これからも123をよろしくお願いします」

「これからもよろしくな」


 ちっぽけな自己満足を得てその代わりに失う物の大きさを考えられないほどに幼くはないつもりだった。自己満足を捨てて得る物があればいくらでもそうする、それが大人と言う物なのかもしれない。







「最近光江さ、ちょっと変わったんじゃない?」

「そう、久美こそ変わったよ。随分とてきぱきとしてさ」


 もちろん、急に別人になる事など無理だ。私はあくまでも恩人である武川さんに尽くす一人のホステス、そこから動く事はできないし、そのつもりもない。

(私の人生か……考えた事もなかったな)

 私の置かれた環境は確かに特異であった、だが誰もが同じように特異な環境の中で生きている。

 確かに殺人事件の加害者であり被害者である父親を持つと言う点においては、私は特異な存在であった。だがホステスと言う点においてはさほど特異ではないし、二十六歳の女性と言う点においては全くありふれた存在である。


「久美、いい男がいたら紹介してくれない?」

「光江からそんなセリフを聞くなんて、明日は雪かな」

「久美、それあんまり面白くないよ。だって明日の最低気温氷点下らしいから」

「もう光江ったら本当にきっちり屋なんだから」


 今まで意図的に排斥して来た恋愛についても、触れようと思っている。八年以上恋愛から離れて来た人間にまともな恋愛ができるかどうかわからないが、とりあえず出会わない事には始まらないのだ。


「ママこんにちは」

「あらいらっしゃい、今日も臨戦態勢は完璧ね」


 これからはもっと深い付き合いをすべきだと思っていた久美と一緒に123に入ると、いつもの派手派手しい装飾の中に薄赤い筒が一本立っていた。


「武川さん、あれは」

「あら光江ちゃん気が付いちゃった?これはこの前もらった万華鏡なの。もちろん覗いて回してもいいけど、外の模様だけでも結構絵になってるでしょ?それで光江、久美。来月は三月、査定の時期よ。その辺は覚悟しておいてね。この店にいる以上、逃れられない宿命なんだから」

「はい……」

「返事がはっきりしないわよ、逃れられないなら受け止める事が大事よ、わかってるでしょねえ」

「はい!」

「そうよ、そうやって真摯にお客様と向き合っているのならば私は正当に評価してあげるから、安心して頑張ってね」


 ―――――――あの万華鏡は父の遺品だ、私はそう確信した。どうやって武川さんが三村さんからあの万華鏡をもらったのか、それは知る由もない。

 だけどその父の万華鏡を私の職場に置く事によって、私に運命と向き合えと言っているだろう事は分かる。そしてその上で正しく進めば必ずや評価されると言っているのだ。


(あるいはあの文書も武川さんが何らかの手を回して市川さんに……いや、今はそんな事を考えるのはやめよう。今の私がすべき事、それは未来の私にとって利益になるかならないかを見極め、そして利益になる方へ動いて行く事。それが贖罪って言う甘い蜜に吸い付いていた子どもの私から、大人の私への脱皮)


「よろしくお願いします」


 今度の日曜日は父の墓参りに行こう、そう決意しながら私は今日最初の客を迎えた。

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醜い万華鏡 @wizard-T

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