おやすみアイラブユー

軒下ツバメ

おやすみアイラブユー

 春の足音を色にするなら、淡く色づく桜色だろう。音にするなら、軽やかに響くオーボエだろう。触れられるなら、抱きしめた猫の体温のようだろう。

 人にするなら、――目の前の貴方だ。


 風が頬を撫でていく、ペダルから足を離しても回転する輪でするすると進んでいく。自転車で駆け下りる坂道を、私は毎日心待ちにしている。

 だって、その坂道の先にいるのだ。

「佑誠さん! おはようございます! 今日も良い天気ですね!」

 緑色の使い込まれたじょうろを片手に持った、私の大好きな人が今日もそこにいた。

「しおりちゃん、おはようございます。今日も元気ですね」

 ふわりと佑誠さんが笑う。その笑い方、目尻の皺、肉の薄い身体、穏やかな声、光を反射する色素を無くした髪の毛。

 うん、今日もやっぱり素敵だ。大好きだ。

 姿を見れば、声を聞けば、口の端が自然と緩んでしまう。

「元気に行ってきます」

「はい、いってらっしゃい。気をつけてね」

 学校なんてサボってこのままここで佑誠さんとお喋りしていたい。張りの失われた穏やかな声を聞くと毎日そう思うけれど、残念ながらそんなことしたら佑誠さんに怒られてしまう。

 今はもう定年退職してゆるやかな暮らしをしているけれど、数年前まで学校の先生だったのだから。

 誘惑をたちきるようにペダルを踏み込む。

 それでも未練がましく目の端で佑誠さんの姿をとらえてしまうのは、恋する乙女なのだから仕方のないことだ。

 だって片思いなのだ。少しでも良く思われたい。

 だから私は今日もちゃんと学校に行く。

 ちゃんと授業を受けて、あわよくば苦手科目の相談などを佑誠さんにするのだ。

 はたから見ればただの微笑ましい場面かもしれないが、いつも心臓が張り裂けそうなくらい佑誠さんと話すのはドキドキする。

 同世代の子と比べてちょっと年上が好きになってしまったなあとは自分のことながら思うけれど、花も恥じらうほどの乙女ざかりである私の好きな人が、半世紀も年上の人だとしても、世間の普通などは乙女の好きの前では些末ごとなのである。




 地面を歩いている蟻を目で追っていると、ローファーを登ってきた。このまま足首まで来られるのは少し不快感がある。

 払い落としてしまいたい。だが今の状況で変に動くのは躊躇われた。

「……黙ってないで何か言ってくれよ」

 これっぽっちも話に集中せずに俯いていたのに、雰囲気で分からないのだろうか。しかし察しろというのは男子高校生には無理な芸当かもしれない。仕方ない。

 ああ、佑誠さんにはやく会いたい。

「ごめん気持ちはありがたいんだけど。私、好きな人がいるんだよね」

 視線も合わせずに言うと、少し苛立ったような声が頭に降ってきた。

「そんな話聞いたことないんだけど、断るために言ってる?」

 これまでは特に嫌いでもなかった相手なのだけれど、その言い方にはひどく気分を苛つかせられた。

「誰にも言ってないからね。知らなくて当たり前だよ」

「……これっぽっちも可能性ない?」

「ごめん。少しも考えられない」

 私の返事を聞くと、言葉のような何かを彼は発したが聞き取れなかった。

 会話を続けて面倒なことになっても困るので聞き返さずにいると、彼は足早に私から離れていこうとした。しかしぴたりと動きを止めると、振り返り、またこちらへ向かってくる。

「どんなやつ?」

 早口だったので、咄嗟に何を聞かれているのか分からなかった。驚いたのもあって今度は間の抜けた返事をしてしまう。

「え?」

「だからどんなやつなんだよ、加藤の好きな相手」

 彼の顔をまともに見たら、ごめんなさいと今度こそ心から言いたくなった。

 文字の羅列じゃないごめんなさいを言いたくなった。

 この人、私のこと本当に好きだったんだ。

 ひどいことに私は今更気づいたのだ。

「年上。やさしい人」

「先輩?」

「――ううん。もっと年上」

 そういえば、誰かに佑誠さんへの気持ちを話すのは初めてだ。

 盲目な恋でも、変に思われてしまうのは分かっていたから友達にだって話していなかった。

「……ロリコン? 大丈夫なのかそれ?」

「高校生でもロリコン? ……ああ、でも、もしそうなら良かったのに。相手にされてないっていうか、まったくそういう対象にされてないから」

「片思いなんだ?」

「片思いなの」

「俺と一緒だな」

「私はまだ伝えてないから砕け散ってないけどね」

 おどけるように言うと、ぷっと音をたてて告白してきた男子――木下が笑った。

「砕いたやつが言うなよ」

 頼りなさげに眉が下がっている。これを見たのが先輩などの木下より年上のお姉さんであれば庇護欲にかられるであろう表情だった。

 木下は良い奴だ。顔もそんなに不細工じゃない。木下を好きな人だってきっといるはずだ。だから不思議だった。

「ねえ、木下。どうして私のこと好きだと思ったの。私たちクラスが一緒なだけでそんなに接点ないじゃん」

「教えたら心変わりしてくれんの?」

「しないね」

 少しも考えるそぶりも見せずに即答すると、木下は今度は笑いたいのに笑えないというような、そんな顔になった。

「じゃあ教えないよ。自分がフッた相手にそんなこと聞くなよ」

「……うん、ごめん。無神経だった」

「本当にな。じゃ、明日からもこれまで通りで頼むわ」

 今度は振り返ることなく、木下は私から離れていった。

 靴の上によじ登っていた蟻は、気づけばどこかに消えていた。


 上っ面ではない好きをはじめて私は手に入れた。それは愛といえるものだ。

 もしかしたら大人からすれば、これだって子どもの思い込みではしかのような恋と大差なく、ただ盲目なだけかもしれない。

 それでもこれは私には愛だった。例え報われなくても。例え誰にも理解してもらえなくても。例えいつか来る別れを感じても。

 叶わないから愛を諦めるなんて愚かなことだと思う。

 だって献身こそが、愛だ。

 恋とは違い、愛は諦めるものでも失うものでもない。

 永遠を形に出来るのが、愛だ。

 同級生と付き合えば手軽に楽しい毎日が訪れるだろうことは友達を見ていれば分かる。それでも私の好きはそこにない。一時だけの快楽よりもどうしようもない嵐が私を捕らえて離さない。


 太陽が山に沈む姿を、子どもの頃ひどく怖く感じた。

 暗闇への恐怖だったのか、黄昏どきの特殊な怖さへのものだったのか今となっては判断出来ない。

 それともオレンジの空が妙な寂しさを私に与えたのだろうか。

 益体もない考えをめぐらせながら自転車を押し歩く道は、いつもより長く感じた。

 会いたいといつも思っているはずなのに、木下の告白から頭の中がごちゃごちゃしていた。早く会いに行きたいはずなのに、ペダルをこげない。

 木下が私に向ける感情は、恋だったのか愛だったのか。

 私が佑誠さんに抱く想いは本当に愛なのか。

 いつか私も佑誠さんに想いを伝えたくなる日が来るのだろうか。

 例え、拒絶されると分かっていてもそれでも言わずにはいられなくなる日が来るのだろうか。

 自分を優先して行動してしまった瞬間に愛は壊れてしまうんじゃないか。それは身勝手な恋なんじゃないのか。そんなことを考えてしまう。

 佑誠さんに会うのが、少し、怖い。

「具合でも悪いの?」

 少し遠くから呼びかけられた声。息が、止まるかと思った。

「しおりちゃん? お帰りなさい、大丈夫ですか?」

 影を引きずる様にとぼとぼと歩いていたのに、気づかない内に佑誠さんの家の前まで来ていた。

 顔を、あげられない。怖い。だけど不審に思われてしまう。笑顔を作らなければ。それでいつも通りにしなければ。

「ただいまです佑誠さん」

 作れているだろうか、笑顔を。いつも通りだろうか、私は。

 佑誠さんの視線を受け止められない。

 目を、そらしたい。

 知らず目が泳いでしまう。そんな私を見ていた佑誠さんは、ふっと柔らかに笑った。

「ちょうど良かった。おすそわけしてもらったお菓子があるんですが一人では持て余していて、急いでいないなら一緒にお茶をしませんか?」

 いつもだったらすぐに飛びつくだろう珍しい佑誠さんからのお誘いだ。

 嬉しくて仕方ないはずなのだ。普段なら。

「しおりちゃん? 無理ならいいんですよ」

 考えがぐるぐると頭の中を埋め尽くす。だけど、だけど。

「無理じゃ! ないです。嬉しいです、お邪魔します」

「そう。良かった。頂いたのが洋菓子でしたし、私なんかより女の子に食べてもらえた方が作った人も嬉しいでしょう」

 ああ、もう。本当は私を気遣っている癖にそんなことを言うんだ。この人は。

 何年も前に奥さんを亡くして長いこと男の一人暮らしなのに、佑誠さんの家は綺麗に掃除されている。

 庭だって毎日手入れしてて、朝会えるのは花の水やりをしているからだ。

 めったに家には入れないからついきょろきょろしてしまう。

 だがそのせいでお茶を入れますと申し出るのが遅れて、気づけばお茶とケーキの用意がされていた。

 こんな時こそ女の子らしさをアピールするべきだったのに! チャンスだったのに!

 心の中で先程までの悩みと乙女の打算の葛藤に悶えてしまう。しかしそれを表には出せない。

「頂き物で悪いけど、どうぞ」

「ありがとうございます」

 すすめられるままに一口分をフォークで口に運ぶ。……美味しい。多分これデパートとかで売ってる有名なお店のチーズケーキだ。甘すぎない上品な味。いつもコンビニとかで買って食べているようなものとは味が違う。

「美味しい?」

「はい。とっても美味しいです」

「そう、それなら良かった。なんなら私の分も食べたっていいんですよ」

「そんなに食べたら私太っちゃいますよ」

「気にする必要ないですよ。……といっても君たちは気にしますよねえ」

 しみじみと言う姿には実感がこもっていた、きっといつの時代も女子は見た目や体重を気にしているのだ。

「女の子はいつだって可愛くなるために必死なんですよ」

「充分可愛いのに、それ以上可愛くなってどうするんでしょう?」

 私だけに向けられた言葉じゃない。でも、可愛いって。佑誠さんが、可愛いって言った。

 赤くなる顔を見られないように、顔をそむける。ちょうど視線の先には庭が見えたのでこれ幸いとばかりに話を移した。

「もう少ししたら、花壇にぎやかになりますね」

「そうですね、来月には咲き始めるかな」

 いつだって庭を見る佑誠さんの眼差しはひどく優しい。

 それを見てしまえば、勝手に言葉が口から飛び出た。

「今も、ハル子さんのこと好きですか?」

「そうですねえ、好きという感情でいいのかは分かりませんが。私は自分の命が尽きたその先でも、妻と呼ぶ人はハル子さん一人だと思っていますよ。亡くなった人をいつまでもと、昔言われたこともありますが、愛は自由ですから」

 とても穏やかな眼差しで佑誠さんは言った。

 どうして疑ったのだろう、この愛を。悩みなんて吹き飛んだ。

 私は、この人が好きだ。

 どうしようもなく好きだ。

 叶うとか叶わないとか報われたいとかじゃない。そんなのじゃない。

 喉が熱くなった。死んだ人には勝てない。もともと勝ち目なんてない。私の好きは最初から終わりが見えてる。私はハル子さんへと向けられる佑誠さんの眼差しを美しいと思う。愛しいと、思ってしまう。

 私はこの眼差しを愛してしまったんだ。


 とても楽しそうに毎朝庭の手入れをしている姿が、ずっと気になっていた。

「綺麗ですね」

 珍しく余裕をもって家を出た日、きまぐれに声をかけた。元々たまに挨拶くらいはしていたけど、自分から話しかけるのははじめてだった。

「――ありがとう。妻の作った庭なんです」

 唐突に話しかけられたことに佑誠さんは少し驚いた様子だったが、すぐにその表情は崩れるように和らいだ。

「あれ? そうなんですか? 私まだ奥さんお見かけしたことなくて、てっきり……」

「ああ、ハル子さん……妻の、形見の庭なんですよ」

 形見。という言葉は馴染みがなくてすぐには頭に浸透しなかった。やっと言葉を理解すると、聞いてはいけないことだったのではないかということに気づき狼狽する。

「気にしないでください随分昔のことですから」

「すみません……」

「謝らないでください。庭を褒められて嬉しかったんですから。ほらこれとか自慢なんです。今年もきちんと咲いたんですよ。これはあの人の、花なんです。綺麗でしょう?」

 その瞬間、私の心はストンと落ちた。

 思いもよらないことだった。

 頭の片隅でこんなのおかしいと数秒前の自分が叫んでいる。

 だけど、それでも。

 ああ、駄目だ。私この人を好きになってしまった。

 壊れ物でも扱うように丁寧に花に触れる手が、あの人という時に温度を感じる声が、花を通して誰かを見ようとしている優しすぎる眼差しが、とても優しくて、綺麗で、眩しかった。

 亡くなった人にはどうやったって勝てないのに、勝ち目なんてないのに、好きになってしまった。

 孫ほども年下で、それだけでもどうしようもないのに。どうしてこの人なんだ、どうしてこんなにも呼吸すらままならないほどに愛しくなるんだ。

 ねえ、ハル子さん。

 どうしてこんなにも愛情深い人を置いていってしまったんですか。

 あなたの欠片を抱きしめて今も生きるこの人をどうして置いていってしまったんですか。

 何年も前に亡くなった人を、今も当然のように慈しむ。その眼差しを愛するなんて不毛でしかないのに、なんで、私は。

 花はこんなにも鮮やかだっただろうか。風はこんなにも柔らかだっただろうか。世界は、こんなにも美しかった、だろうか。

 佑誠さんを通した世界は私が見ていた世界よりずっとずっと綺麗に思える。彼と一緒にいれば優しい人になれる気がする。だからなんだろうか、一緒に、いたい。

 この人の特別になりたい。

 だけどきっと、叶った瞬間に壊れてしまう。だって、私、想う心を愛してしまった。

 矛盾している。どうしようもない感情だ。底無し沼みたいなものだこんなのは。私の好きは報われない。そんなの気づいた瞬間から分かってる。

 それでも、ねえ、許してください。

 見返りを求めないことを戒めに愛することを許して欲しい。

 ごめんなさい、こんな子どもが今更あなたの大事な人に近づいてしまって。でもどうか想うことだけは許してください。

 あなたのもとへ彼がいってしまうその日まで、どうかそれだけは許してください。

 あなたを愛するこの人を私は愛してしまったのです。


 思い返してみれば、悩む必要のないことだった。私が佑誠さんに身勝手に自分の気持ちを伝える日が来ることはない。それはハル子さんへの裏切りだ。

 会ったこともない相手に義理を立てる必要はないのかもしれないけど、それでも出来ない。

 私を見る佑誠さんを好きになったのではないから、私が佑誠さんに想いを伝える日は永遠にこない。

 美しさを愛した私はそのために捧げる愛しか持たないのだから。

 それからはもう悩むことなどなく。穏やかに日々は過ぎていった。そして気づけば終業式を迎えた。

 春はもうすぐそこだ。

 私は高校二年生になる。

 春が来る。――私が佑誠さんを好きになった季節が。

 春が来る。――佑誠さんの愛する人の季節が。

 きっと今年もあの庭はとても美しいだろう。

 いつもより早く下校すると、帰り道に佑誠さんの姿を見ることが出来なかった。

 残念だと思うけれど必ず会えるのは普段だって朝だけだ。佑誠さんの家の前を通り過ぎ、先月よりも身軽になった身体で坂道を駆け上がる。

「ただいま」

 玄関で靴を脱いでいるとバタバタとせわしない足音が聞こえた。多分母だ。何か壊したりでもしたのだろうか。

「お帰り、しおりちゃん。ねえしおりちゃん。坂の下の先生と仲良かったよね?」

 佑誠さん? どうして母が? 頂き物でもあったのか? それとも私の話でもしたのだろうか?

「うん。先生がどうかしたの?」

「聞いた話なんだけど、お昼頃に倒れたって……」

 喉の、奥から、音にならないような、何かが潰れたような声が聞こえた。

 後ろから母親の戸惑ったような声が聞こえる。手に持っていたはずの鞄はどこかに消えていた。もつれそうな足をどうにか前に進める。喉が痛い。熱い。もう周りの音も聞こえない。進むのを邪魔するような風がわずらわしい。転げ落ちてしまいそうに坂を下る。

 ごめんなさい、ごめんなさいハル子さん。お願いします、まだ、まだ待ってください。

 どうかまだ連れていかないでください。見返りなんて求めません。今もこれからも求めません。だからまだ、もう少しだけ彼を想って生きたいのです。彼に朝の挨拶をする毎日をどうかまだ奪わないで。

 お願いします。まだ、まだ。もう少しだけ。もう少しだけでいいから。望まないから奪わないで。


 もし本当に倒れたのなら家にはいないはずだ。冷静に考えれば分かるだろうに、私はそんなことを考える余裕もなかった。ただまだここにいてくれる事実をどうか確かめたかった。

 インターホンを押す手が震える。どうしよう、もう会えなかったら。どうしよう。

 明るい音が鳴り響くが――返事がない。

 いちかばちかで扉に手をかけてみる。すると、抵抗なく開いた。家に、いるのだろうか。母の勘違いだったのだろうか。それならいい。そうだったならいい。

「佑誠さん。しおりです、入りますよ。お邪魔します」

 靴も揃えずに家にあがる。今日だけは許してほしい。

「佑誠さん、いないんですか?」

 呼ぶ声に答える声はない。どうしてだろう。鍵を開けたまま出かけるなんて、やはり何かあったのか。

 ――嫌だ。

 そんなの嫌だ。そんなことがあっていいはずがない。

 駄目。まだ駄目。ここにいて。お願いだから。

 ふいに泣きそうになる衝動を抑えながら佑誠さんを探す。居間にも台所にも勿論庭に姿がない。

 まだ探していないのは、佑誠さんの部屋くらいだ。そこにすらいなかったらどうしよう。

 祈る様にふすまを開ける。と、佑誠さんはそこにいた。ぴくりとも動かずに、布団に横たわって、眠って……いる……?

 おそるおそる手を握ってみると、低い体温を感じた。ああ、良かった。いる。ここにいる。まだちゃんとここに。

 安堵しすぎて身体中がびりびりと痺れている。座りこんだまま動けない。佑誠さんの手をとったまま、動けない。

 触れた体温だけが、まだ佑誠さんがここにいることを教えてくれる。

 眠るその顔が、まるでここにはもういないかのように見えてしまうから余計にそう思えてしまう。

 触れている手の頼りなさに泣いてしまいたくなる。

 とても細い。

 あんなにも頼りがいのある人の手がこんなにも消えてしまいそうなんて。

 いつも見ている同年代の男の子は、頼りなくても身体から溢れるほどのエネルギーを宿しているというのに。

 これが、私と佑誠さんの間にある、時間というとてもとても高い越えられない壁であり果てしない溝なのだ。

 どうしたって、私が思っているよりずっとずっと早く佑誠さんはハル子さんのもとへ逝く。

 それはどうしようもないことだ。

 誰にだって終わりはくる。

 私にだっていつかくる。でも、だから、遠くない未来にくるそれを、少しでも――。

 酸素を求めて、目一杯、息を、吸った。

 繋ぎ止めるかのような言葉を吐き出すために。

「大好きです大好きです大好きです、………………愛して、います」

 心臓が人生で一番早く鼓動している。

 握った手が、私の言葉に反応するようにぴくりと動いた。

 閉じた瞼は開かないが、声は、聞こえている?

「私の心は貴方のものです。誰にも文句は言わせない、貴方にだって言わせない。愛は自由だ。って言ったのは佑誠さんですよ?」

 愛に年齢も生死も関係ない。自由で、いい。

「これからの人生、誰を好きになっても。愛しても。貴方への愛は失われません」

 だからお願い今だけは、隣に貴方がいなくていいから愛を抱きしめて眠らせて。

「受け入れられたいわけじゃない。想いを返してほしいわけじゃない。否定だけをしないでほしい」

 沈黙が苦しい。言ってしまった。時間を巻き戻したい。否定が怖い。関係が壊れるのが怖い。どうしよう。どうしよう。だけど言わないままではいられなかった。いつかくる終わりをただ迎えるのだけは出来なかった。

 後悔と恐怖が胸に渦巻いた時、先程の私の言葉を肯定するように握っていた佑誠さんの手に力が込められた。

 それだけで、私の全ては報われた。




 春休みの間、私は佑誠さんに会わないようにした。気恥ずかしかったのと、どう接したらいいのか分からなかったから時間がほしかったのだ。

 暖かな風に背を押されながら坂道を下る。

 始業式の今日は春真っ盛りだ。

 まだ想像でしかないけれど今年もハル子さんの庭はとても色鮮やかに咲き誇っているだろう。

 私は、あの庭が嫌いじゃない。むしろとても好きだ。だってハル子さんが作って佑誠さんが大切に育ててきた庭だ。

 あの日、倒れたんじゃなくて佑誠さんはただのぎっくり腰だった。

 庭で身動きとれなくなっているところを近所の人に救出されたらしいのだが、それを倒れたと形容するのは母の完全な伝達ミスとしかいえない。

 きっと佑誠さんは途中から目が覚めていても、私のただならぬ様子に起きるに起きれなかったのだろう。

 家に帰って母に「どうだった? 起き上がるのも大変そうだった? 辛いわよねえ、ぎっくり腰」と言われ、深い深い穴があれば隠れたいほどだった。

 けれど私は言ってしまったことを決して後悔はしない。

 多分今日からまた変わらない毎日が続く。佑誠さんから何かを言ってくることはきっとない。私もこれ以上を求める気はない。

 ただ、伝えている。それだけ。

 それでも、変わりないように在り続けるというだけ。

 もう少しで坂が終わる。愛しい人はそこにいる。春の香りのする人が、今日もここにいてくれる。

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