第伍拾四話 あやめも知らぬ恋もする哉

 水無月みなづきなぎ



 またアオ君を探すことになるとは。


 私は人をかき分け足を動かしていく。

 さっき雨が降ったことで人が少なくなっている。好都合だ。

 夕立のおかげで周囲の熱気が雨と共に蒸発され、汗を風が靡かせる。

 涼しい。

 着慣れない衣装とか関係ない。

 今はただアオ君に会いたい。

 それだけが私を突き動かす。


 1ヵ月前にも同じようなことがあった気がする。

 いや、違いますね。

 小さい頃からずっと私は姉さんとアオ君のことを追いかけたり、探していたりしていた。


 あやめ園にいると姉さんとの思い出が自然と蘇る。


 どうしてだろう。

 姉さんとアオ君2人がいる場所は不思議とわかる。


 でも、私は2人のいる場所がわかってもそこに入ることはしなかった。

 できなかった。


 姉さんとアオ君は2人ですでに完成されているんだ。

 2人の空間に入り込む余地なんてあるはずなかった。


 姉さんはあらゆる分野で才能を発揮していた。そして、姉さんは努力を怠ったことはなかった。それは私が誰よりもわかっていた。

 だから私が姉さんと比べられても劣等感や嫉妬を抱くことはなかった。

 ただ一つを除いて。


 アオ君の隣を歩いているのも、隣で笑顔を浮かべているのも、隣でアオ君の視線を独り占めできるのも姉さんだと思っていた。

 だから私は自分の想いに蓋をすることに決めた。

 伝えても無駄だと思うようになった。

 姉さんとアオ君がお互いを想い合っていることなんて誰からみても明らかだったから。


 でも、姉さんが亡くなってからアオ君の隣を歩くことが自然と増えた。

 だから。

 私は知ってしまった。

 心から想っている人が隣を歩いてくれること。

 隣で笑顔を向けてくれること。

 その人の視線を自分だけが独占できること。


 それらがどんなに幸せなことかを。


 私は水無月澪に対して初めて思ってしまった。


 ――姉さんだけずるい。

 と。


 私はもう自分の想いを抑えておくことができなくなっていた。

 伝えたい。

 そんなことまで思うようになった。


 息が乱れる。

 足が痛い。靴擦れだ。

 かかとの傷口に靴がこすれるたびに痛みが響く。

 でも私が足を止めることはない。

 そんなことを気にしている暇な今はないんだ。


 私が私を急かしている。


 もう少しであやめ園がライトアップされるためまた人が多くなってきた。

 そんな雑踏を抜けたなかに見慣れた背中を見つけた。

 どんな人混みのなかであろうと私はアオ君をすぐ見つける自信がある。

 きっと好きになるってそういうことなんだと思う。


「アオ君!!!!」

 私はその背中に声をぶつけ、呼び止める。

「な、凪!?」

 アオ君は振り返り、鳩が豆鉄砲を食らったような、不意を食われたような表情を浮かべる。

「はぁはぁ……」

 ここまで足を止めることなく走ったため息が乱れる。

 汗が全身から噴きだす。

 顔もぐしゃぐしゃかもしれない。


「なんで……俺の場所が分かったんだ?」

「そんなの……当たり前……じゃない……ですか。これまで……どれだけアオ君のことを……追いかけて……探してきたと思っているんですか……」

 息を整えながら言葉を繋ぐ。


「今から姉さんのところに……行くんですよね……?」

「……あぁ」

 アオ君は真っすぐこちらを見据えて頷く。

 私もアオ君の瞳を想いを込めて見つめる。

「少し思い出話しませんか? 姉さんに会う前に」


 **


 私とアオ君はあやめ園の端のベンチに腰をかける。

 ここら一帯にもう人は見当たらない。

 ライトアップされるのは菖蒲あやめ花菖蒲はなしょうぶに囲まれている中央のため、来場者の方々はそっちに行っている。


「アオ君さっきの雨上がりの菖蒲見ましたか?」

「うん、見たよ」

 ついさっきの出来事なのにアオ君はどこか遠くを見つめて何かを懐かしんでいる。

 私には今アオ君の頭に浮かんでいるのが誰なのかがわかる。

 それが少しだけ悲しくて、悔しくて。

 隣にいるのが私でもアオ君の瞳には水無月凪わたしは映らない。


「私アオ君の言ってた意味がわかりました」

 ――雨、好きだったよな。


「姉さんはアオ君とこの景色を見ることができたからきっと雨が好きになったんです。今ならわかります」

「羨ましいです。アオ君と姉さんには2人だけの思い出や秘密が沢山あることが」

 アオ君は何も言わない。

 何も言わずにただ私の言葉を待ってくれる。

「思い出話しようと思いましたが、私とアオ君2人の思い出って全然ないですね。どんな思い出にも姉さんがいて、3人での思い出ばかりです」


 私は乾いた笑顔を浮かべる。

 でも、我慢できなくて、思わず俯いてしまう。


 私がアオ君ことが好きで好きでたまらないけど、隣にいていいのはきっと姉さんなんだ。

 それにどれだけ抗おうと無駄なのかもしれない。そんなことは昔からずっとわかってたはずなのに。わかっているのに……。


「そんなことないよ」


 アオ君が静かに否定する。

 でも、そこには確かに強さがある。


「澪が亡くなってからずっと俺のそばにいてくれたのは凪だよ」

 私はアオ君の顔を見る。

 相変わらず綺麗な横顔だ。


「凪だって澪が亡くなって悲しくてたまらないはずなのに凪は俺をずっと気にかけて、見てくれて、隣にいてくれた。俺は本当にそれに救われたんだよ」

 アオ君は柔らかく優しい笑顔を見せてくれる。

 その笑顔をみると不思議と安心できる。


「確かに俺と凪だけの思い出って少ないかもしれないけどさ、一緒に帰ったり、話したり、生徒会で活動したりさ、こうやって凪と何気ない時間を一緒に過ごしてきたことが、積み重ねてきたことが俺は何よりも嬉しい」


「……ぁ、あ……ぁあ……」

 全身から力が抜けていく。


 だめだ。せき止めてた想いが溢れてしまいそうになる。

 もうアオ君の顔を直視することができない。


「だから凪――これからもそばにいてくれると嬉しい」


 耐えきれなくて伸ばしていた背筋を丸めてしまう。

 涙だけは出したくなかったのに、何も遮るものがなくなって頬を涙が伝ってく。

 握りしめてた両手に止めどなく涙が降り注ぐ。


「はは……凪は昔から泣き虫だな。ほんとうに」

 アオ君は私の背中を赤ん坊をあやすように優しく丁寧にさすってくれる。


「ふぐ……うぅ……う……ぅう……」

 私はしゃくりをあげる。

 周りに人がいなくて本当によかった。


「ほら、凪。そろそろ顔上げな。良いものが見れるよ」

「え……?」

 私はアオ君に促されて顔をゆっくりとあげる。


 そこには見たことにない景色が一面に広がっていた。


 あやめ園ではない別のどこかへ来てしまったと錯覚してしまうほどの幻想的で神秘的な空間。


 あやめ園の花々が光で照らされている。


 それは決して明るいものではない。主役はあくまで光ではなく菖蒲の花。

 それを心得ているように光は控えめで菖蒲の美しさを限界まで引き上げる。


 まるで夏の夜空に輝く蛍のようにそこら中に菖蒲の花の色が反射した光が浮かび上がる。


 息をのむほどの美しさ。

 アオ君は文字通り目を輝かせてその景色を目に焼き付ける。

 綺麗な横顔が薄っすらと耽美な天色の光に照らされ、一層目が離せない。

 私はそのアオ君の横顔に釘付けになった。


 ――凪! とっても素敵な和歌見つけたんだ!

 いつの日か姉さんが私に1つの和歌を教えてくれた。


郭公ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ恋もするかな』


 ほととぎすが鳴いている。5月に飾るあやめ草ではないが、あやめ物事の道理を見失うぐらいの恋をしている。


 あやめ。それは菖蒲の花と綾目の2つの意味があるのだろう。

 姉さんは自分のアオ君への気持ちを表す和歌として私に教えてくれたんだと思う。


 今になって思えばそれは違うのかもしれない。

 これは私の恋心を表してもいる。


 姉さんはアオ君のことを想っている。

 アオ君は姉さんのことを想っている。


 だから姉さんとアオ君が結ばれること。

 それが道理だと思いきっていた。


 でも、姉さん。

 私は道理それを見失ってしまうぐらいアオ君に恋をしています。


「アオ君」

 私はこの雰囲気を壊さないように小さく静かにその名前を呼ぶ。

 アオ君が右に振り向く。


 もう涙は枯らした。

 でも声が震える。

 今、この瞬間だけは……。


「私、アオ君のことがどうしようもなく好きです。だからこれからもそばにいてほしいし、いたいです」


 私は間髪いれずにアオ君の両頬に両手を重ね、固定する。

 さっきまでは暗かったけど、今は照らされているおかげでよく見える。


 顔を左に傾ける。

 生クリームとバナナ、チョコの味がした。


 ゆっくりと離れる。

 視野にアオ君の顔がだんだん入ってくる。


「凪――」

「返事は今しなくて大丈夫です。私は伝えたいことを伝えただけです。だから――大丈夫です」

 私は立ち上がり、アオ君に背を向ける。

「ほら、早くしないとライトアップ終わってしまいますよ。姉さんもアオ君と見たいに決まってますから」

「で、でも凪……」

「もう私は十分時間もらいましたし、今から鈴望れみさんたちと合流するので心配ありません」

 私は精一杯の笑顔を浮かべる。

 強がりでもなんでもいいから今は笑顔でいさせて。


「わかった……」

 アオ君は立ち上がり、歩き始める。

「アオ君」

 私はその背中に声をかける。


「姉さんによろしく言っておいてください」

 アオ君は頷き、やがてその後ろ姿は小さくなり、見えなくなった。


「姉さん怒ってますか?」

 星がはっきりと見える夜空を見上げてつぶやく。


 ――凪が素直に想いを伝えてくれて私は嬉しいよ。


 きっと姉さんならそう言ってくれる。

 そう聞こえた気がした。

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