第伍拾参話 あやめ祭り~杏汐璃の場合~
碧くんと2人であやめ園を回りながら仕事をして気づいたことがある。
そう。
碧くんが小さい子どもからお年寄りまで幅広い層の老若男女に受けが良いということだ。
いや、まぁ考えてみれば当たり前なんだけれど。
困ってる人がいたら声をかける。ただ声をかけるのではない。
碧くんは自分よりも小さい人と話すときに必ず目線を合わせる。
そして、優しく相手の話に頷き、笑顔を浮かべる。
これが何よりも安心感を与えてくれる。
さらに碧くんは自分から声をかけるだけではなくて、声をかけられることが多い。
声をかけやすい雰囲気を醸し出しているのかもしれない。
「汐璃さん」
とそんなことを考えていると碧くんが隣から話しかけてきた。
「ん? なに?」
「実はさ、俺この後澪のお墓参りに行こうと思っているんだ。だから一旦ここ任せてもいいかな」
私たちの仕事は基本的に10時から17時半までだ。その後はあやめ園のライトアップが土日限定で行われるのだが、そこでは私たち
だからライトアップされたあやめ園を見て、解散という流れであった。
「もちろんただではとは言わないけど……」
碧くんはそんなことを続ける。
別に何もしなくてもいいのに。
でもせっかくそう言ってくれているならお言葉に甘えて何か買ってもらおうかな。
「クレープ食べたいな」
私はボソッと口にする。
「え?」
「古代米クレープで許す!
「え、それでいいの……?」
碧くんは拍子抜けしたような様子である。
私がクレープ1つで許すという徳の高さに驚いているのかな。
決してチョロいわけではない。
勘違いしてはいけない。
「うん。ほら! 早く行こ?」
「う、うん……」
**
「自家製あんこといちごのクレープ1つください。碧くんは何にする?」
「えーと……ビーターチョコとまるごとバナナください」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
「碧くんシ王道選んだね」
「結局は王道のチョコバナナが美味しいからね」
「お待たせしました。自家製あんこといちごのクレープとビーターチョコとまるごとバナナになります。気を付けてお持ちくださいね」
とても愛想のよい店員さんからクレープを受け取る。
「わー美味しそう! ありがとうございます!」
古代米をクレープ生地としているため、
座れそうなベンチを見つけ、腰をかける。
「ふぅ。立ちっぱなしだったから結構足にきてるなー。汐璃さんは大丈夫?」
「私も結構足痛いなー。着慣れていない衣装だから仕方ない気もするけど」
ヒールを履くと高確率で足が痛くなってしまうように綺麗になるためには痛みを伴うものだからある程度は受け入れて我慢しなくてはならない。
むしろこんな綺麗な万葉衣装・平安衣装を着させてもらって、辺り一面に色とりどりの菖蒲たちが咲き乱れてるところを歩けるなんてむしろメリットしかない。
「疲れたところにこのクレープは体力回復しちゃうね」
私はクレープを写真に収める。
「それじゃあいただきます。あーん――ん?」
全ての具材を1度に味わえるように大きくを口を開けた瞬間、小学校中学年くらいの女の子がつまずき、手に持っていたクレープを落としてしまったのだ。
女の子はその場にしゃがみ込み泣き出す。
「あー落としちゃったか――って汐璃さん!?」
私は碧くんが反応するよりも早く女の子に駆け寄っていた。
「大丈夫? あー擦りむいてるね。ちょっと待っててね」
女の子と同じ目線になるようにしゃがむ。
私はハンカチを取り出す。
あーでも水ないな……。
どうしよう。この辺自販機ないしな……。
「はい、汐璃さん。水」
その声に振り返ると碧くんが上から覗いていた。
逡巡している私に碧くんが水をくれる。
「あ、ありがと!」
私は受け取った水を傷口にかけ、ハンカチで拭きとる。
「大丈夫?」
「うぅうぅ、ふぐっ。お、お姉さん、ありがとぉ……。で、でもクレープが……」
擦り傷の応急処置をできたが、女の子が持っていたクレープは見るも無残な姿になっていた。
「じゃあこれ。お姉さんのあげるよ」
私は自分のクレープを女の子に渡す。
「いいの?」
「うん。お姉さん実はお腹いっぱいだったからさ。食べてくれると嬉しいな」
「あ、ありがと!」
女の子の顔がぱあと明るくなる。涙で目の周りが赤くなっている。
「いえいえ。今度は転んじゃだめだよ?」
「うん!」
女の子は大きく頷き、両親のもとへと歩いていった。
「汐璃さん、クレープあげてよかったの?」
「うん。私があやめ園に来るのは今日だけじゃないしね。でも、あの女の子は今日だけかもしれないしね」
碧くんが口元に手を当てて少しほほ笑む。
「汐璃さんってちょっと不器用だよね」
「ちょっと!? それどういうこと!?」
「でも、素敵だった。優しいね」
碧くんは柔らかい優しい笑みを浮かべる。
これが惚れた弱みってやつだろうか。
そんな表情を見せられたら何も言えなくなるじゃん。
碧くんは手に持っていたクレープを私に渡してくる。
「はい、これ。汐璃さんにあげる」
「え、いいの? 碧くんのなくなるよ」
「自分のを上げた人に言われたくないなー」
私は素直に碧くんからクレープを受け取る。
そして、半分に分ける。
「はい、これ。ありがとね、碧くん」
碧くんに半分に分けたクレープを渡す。
そして、その手に水滴が落ちた。
「ん? 雨……?」
空を見上げると灰色の雲が空を覆っていた。
「屋根ある東屋に行こう!」
碧くんは私の手を引いて小走りへ東屋へ向かった。
**
突然の雨に襲われ、小高くなっている東屋に避難した。
「天気予報当たったね」
碧くんが空を見ながら、水滴を拭きとる。
「そうだね。午前中の快晴が嘘みたい」
「まぁ梅雨入りしたから雨が降るのが当たり前みたいなところあるしね」
「確かにそれ前提であれも準備したんだもんね」
私たちの視線の先にはいくつものテントが設置されている。
多くの来場者の方たちがテントのなかに避難し、雨を凌いでいる。
「せっかく楽しんでたのに雨はちょっと悲しいな……」
梅雨だから仕方がないと割り切らなければならないのだろうが、そうは言っても悲しい。まさに水を差された気分である。
私は独り言のようにつぶやき、碧くんの表情を盗み見る。
「碧くんは悲しくなさそうだけど?」
「天気予報だとこの雨はすぐ止むらしいからね」
碧くんは悲しむどころか少しワクワクしているような気がする。
まるでこれから何かが起こることを確信しているようだ。
「本当だ……」
碧くんの言う通り雨が止み、雲間から太陽光が線のように降り注ぐ。
「汐璃さん」
碧くんはそんな雨上がりの空を見つめがら私に問う。
「
私が何かを答える前にその答えがわかってしまった。
なぜなら――今その瞬間が眼前に広がっているから。
菖蒲の花弁が雨によって濡れ、雨粒が付着している。
そこに灰色の雲の
まるで海のさざ波の煌めきとも言えるだろうか。花びらが纏った水滴に煌煌と光が弾き散ると菖蒲の花たちが色鮮やかに、艶やかに煌めきだす。
自分の周囲360度が乱反射された菖蒲の花の紫・黄色・白・桃色の光に包まれる。
「綺麗……」
生唾を飲み、思わずそう呟いていた。
碧くんがそんな私を見て、口を開く。
「菖蒲の花がどうして6月に咲くのか。それはずっと雨が似合う花だと思ってたんだ。でも、3年前この景色を見て、雨じゃなくて雨上がりが綺麗だから6月に咲くんじゃないかって思ったんだ」
碧くんもその情景に見惚れていた。
ただその瞳はどこか懐かしさをはらんでいた。
――3年前。
きっと碧くんはこの瞬間を
ずっと不思議だった。
碧くんに彼女がいないこと。そして女性の影が見えないこと(凪さんも除く)
きっと周囲の女子にとっても碧くんにとっても
澪さんはこれまでもそして今も――碧くんの心のなかの椅子に座っているんだ。
それは少し羨ましいと思う。
と同時に凄いと思うんだ。
それだけ碧くんのことを惹きつける魅力に溢れているんだから。
でも。
今だけは。
今だけはさ。
過去の記憶ではなく、私を見てほしい。
私はその目線を独り占めしたくて碧くんの左手に右手を重ねる。
無防備なのがダメなんだから……。
「ん? しお――」
碧くんがこちらを向くよりも早く碧くんの右の頬に私の左手を添える。
少し眩しい。
でも、こんなに近くにあるなら大丈夫。
その瞬間、私の唇に柔らかくも温かい頬の感触が伝う。
碧くんは左の頬を左手で抑えて、目を白黒させる。
私は何か言おうとしている碧くんの血色の良い唇に右手の人差し指をそっとあてる。
「碧くん、今は何も言わないで」
碧くんの瞳が私の心を掴んで離さない。
もっと隣にいたいけど、今日はこのくらいが限界かな。
「澪さんのところ行くんでしょ? こっちはあとライトアップだけだから私たちに任せて」
私はそれだけを言って立ち上がり、碧くんを目を逸らす。
「ほら、澪さんもきっと碧くんに会いたがっていると思うから早く行ってあげて」
「う、うん」
碧くんも立ち上がり、小走りで階段を降りていく。
足音が聞こえなくなったのを確認してもう一度ベンチに腰を下ろす。
「綺麗な瞬間を見せてくれたお礼です」
私は雲がなくなった青空を見上げてどこからか見ているであろう人に向けてつぶやいた。
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