第参拾伍話 水面の揺らがない凪と零哉

 水無月みなづきなぎ



「いきなり2人で帰ろうなんてどうしたんですか?」

 私は突然の姉さんから誘いに驚きが隠せない。


「うーん? いや、たまには姉妹水入らずのひと時も大事かなーって」

「別に普段仲が悪いわけじゃないですし、むしろ良いほうなのでそんなひと時必要ないのでは……」

「凪は嬉しいこと言ってくれるねー。お姉ちゃんが抱きしめてあげる!」

 姉さんがこちらを振り返り、強く抱擁を交わす。


「いや、ただ姉さんが抱きしめたいだけですよね」

「そうとも言うー はぁ……凪は本当にいい匂いするねー」

 くんくんと隙を見て私の髪や首筋の香りを楽しんでいる。


「同じシャンプーリンス、ボディーソープ使ってますから姉さんも同じ匂いするはずですよ」


 私たちが使っているのはオレンジ、ムスク、グリーンアップルの3つの香りの成分が配合されているものだ。

 使われている果実などがもう爽やかさを物語っている。

 使い古された表現になるけど清潔感漂う香りなのである。


「もう凪はわかってない!ただでさえいい匂いのシャンプーたちに凪の匂いが加わったら最強でしょ?」

 姉さんは私から離れて溜息をつき、がくりと肩を落としてそんな訳のわからないことを言う。


 このやり取りを見てわかると思うが、私と姉さん、水無月家の姉妹は仲が良いと評判で私たちはそれを自負している。


「それでどうしてあやめ園に学校帰りに来たんですか?」

 私たちの前では2週間後に控えたあやめ園に向けて菖蒲あやめ花菖蒲はなしょうぶを手入れされている人がちらほらいる。

 あやめも所々に咲いていて今年も雨が降る季節がやってきたことを感じる。


「どうしてってあやめを見るために決まってるでしょ?」

 いや、でしょ?じゃない。

(だったらアオ君が一緒でもいいじゃないですか)

 そんな言葉が無意識のうちに口内まで上がってきて寸でのところで留める。


「アオも一緒が良かった?」

 姉さんはこちらを振り返り、笑顔を浮かべる。

 今私が飲み込んだと思った言葉は空気中を振動して姉さんに伝わってしまっていたのだろうか。


 不意打ちすぎて何も答えることができない。

 答えることができない。

 それは肯定を意味してしまう。


 姉さんは何も言えずに目線を落とした私を見つめながら

「少し座って話そっか。そうだ!久々にあそこの東屋あずまやに行こう!」

 姉さんは私たちの左上にある東屋を指さして、階段を登り始めてしまった。

 私は姉さんの後ろをついていくことにした。


 私たちが今いる東屋はあやめ園一帯で1番高いところにある。

 しかし、周囲を大きな木が埋め尽くしているためあまり下の景色を楽しむことに向いていない。


 木製のテーブルにベンチが2つ。

 ゆっくり休憩するのがこの東屋にはおあつらえ向きだ。


「小学生のときよくあやめ園にピックニックしに来てはここで3人でお弁当食べたよね」


 姉さんは東屋を見渡し、懐かしさを浸っている。

「あれってピックニックだったんですかね」

「外で自然のなかお昼ご飯食べたらピクニックになる気しない?」

 それがピクニックの定義だったら大体がピクニックになる気が。

 まぁいっか、そんなこと。


「初めてここで弁当食べたときは2人で一緒にお弁当作ったよねー」

「あーありましたね。たしかその時アオ君も私たちの分の弁当を作ってきたんですよね」

「そうそう!しかもアオの弁当すごい美味しくてびっくりしちゃったよ。料理できることにも驚いたしね」


 姉さんも当時の出来事を思い出すために上を向いて考えたり、思い出すとそれをとても嬉しそうに話す。


 澪と凪ふたりの思い出には必ずと言っていいほど碧がいる。

 それくらい小さいときから気づけば一緒にいて自然と同じ時間を共有してきた。



「それからアオに負けないように2人で料理練習したけど、凪のほうが私よりうまくなってさー姉の威厳がないよ」

「でも、私が姉さんに勝てるところなんて料理くらいですよ」


 きっと姉さんはそんなことないって言ってくれる。

 でもこれは謙遜でも何でもないんです。


 私は本当に姉さんに劣っている。

 運動も学力も何もかも。

 比べる必要なんてない。

 私は私で姉さんは姉さん。

 そんなことは百も承知。

 でも

 それでも


 私はどうしても水無月凪と水無月みおを比べてしまう。


 姉さんは何も言わずに少し俯く私を物憂げに見つめている。


「ねぇ凪」

 季節外れで予報違いな強い風が吹き、姉さんの紫黒の髪をなびかせる。

 私の髪の毛も煽られ、思わず目を細めてしまう。


「凪はアオのこと好き?」


 姉さんは立ち上がってベンチに座っている私を少し高いところから見る。

 その篤実な瑠璃色の瞳が射貫くのは水無月凪の心の内。


 私はアオ君が好きだ。

 その想いにはいろいろな感情が複雑に絡み合っている。

 でも、姉さんはきっと恋愛としての好きを聞いている。

 誤魔化しは通用しない。

 それは私が一番知っているから。


「私は……」


 それ以上言葉がでない。

 喉がキュッと閉まって痛く苦しい。

 これ以上言葉を紡ぐことを身体が拒んでいる。

 それとも私の心が拒んでいるのだろうか。


「凪、この質問は水無月家の仲良し姉妹としてじゃない。水無月澪と水無月凪として私は聞いてるの」


 姉さんはきっとこの話をここで2人でしたかったんだ。


「……姉さんはアオ君のこと好きなんですか」

 私は声を絞り出し、そんな答えの決まりきった問いを投げかけ回答権を姉さんに譲る。



「うん、大好きだよ」



 その声は微塵の迷いも濁りもない。

 透き通っていて真摯な想いがこもっている。


 こんな真っすぐな想いを目の前に私の気持ちなんて打ち明けられるわけがない。

 中途半端で声にもならない


「でも、私はこの想いをアオに伝えられない」

 姉さんの声はほんの少しだけ震えていて、笑顔を浮かべているがその表情は虚しさを感じる。


「どういうことですか……?」

 私はその言葉の真意がわからず思わず意味を追及する。


「凪はあやめの花言葉知ってる?」

「花言葉はわからないです」

 私の声を聴き、一呼吸置いてから続ける。


「希望・メッセージ」

「これがあやめの花言葉だよ」


 姉さんはさらに呼吸を深くしてゆっくり語る。

「私の夢はねこのあやめ園でたくさんの人が自分の想いを伝えられて、みんなの希望が集まるそんな場所にしたい」

 姉さんは眼前に見頃を控えるあやめをその瞳に収めながら自分の夢を語ってくれた。


 さきほど吹いた強い風とは違う優しい風にハーフアップで結んでいる髪の束とおろしてある髪が一本一本が緩やかかつしなやかに揺れるその綺麗な横顔に見惚れてしまった。


 アオ君が見惚れてしまう理由が手に取るようにわかる。


「私はいろんな人たちの想いに後押しされないと気持ちを伝えることができない。ね、卑怯でしょ?」


 姉さんは私の返答を待たない。

「だから凪は姉に、いやに遠慮する必要はどこにもない。ただそれだけだよ」


「いやでも――」


「澪、凪こんなところで何やってるんだよ」


 聞き慣れた低く響く声が階段から聞こえる。

 聞き慣れた声の正体はちょうど階段を登ってきたアオ君だった。

 私の言葉はアオ君によってせき止められた。


「何って男子禁制の女・子・会」

「いや男子禁制って言っときながら澪が俺に位置情報送ったんだろ」

 アオ君は姉さんとのトーク履歴をこちらに見せる。

 姉さんはテーブルの上に置いてたスクールバックを手に取る。


「さっ!お迎えも来たことだし帰ろっか」

 そう言って姉さんは足早に階段を下っていく。

 アオ君も続こうとしたがその前にこちらに振り返る。


「ん?どうかしたか凪?」

「あ、いえなんでもないです」

「……そっか。疲れたならバック持つけど」

「お気遣いありがとうございます。アオ君がそんな優しいこと言うの珍しいですね」

「俺はいつも優しくしてるつもりなんだけど」

「ふふ、冗談です。それはわかってますし、十分伝わってますよ。ほら早く行かないと姉さんに置いていかれてしまいます」


 想いを形に言葉にできなくてもその想いは身体の内側で少しずつ膨張を続け、いつか溢れてしまいそうで怖くなる。

 こうした他愛のない、くだらないやり取りだけで心が躍ってしまうんだ。

 そんな感情に背を向けるように西日に照らされ、大きくなった自分の影を見ながら家路についた。

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