第参拾話 水と零と碧と水と夕と璃

 千坂ちさかあおい



 春特有のぬるい風が桜の花びらを連れて俺とからももさんの隙間を埋める。

 さっき発した言葉の余韻に浸り、風によって揺れる桜の木々の音のみが辺りを包む。


「ねぇ千坂君」

 沈黙を破ったのは杏さんだった。

 杏さんは立ち上がり、手を後ろに組みながら一歩、また一歩と進み、こちらを振り返る。

「その人が千坂君にとって大切な人なら、千坂君がその夢を叶えないといけないと思う」

「でも、それは……」

 俺がそれ以上声を発するのを遮るように右手の人差し指を唇に当て、瞳で制する。


「何かに憧れたり、それに近づきたい、叶えたいと思っているのならそれはその人の夢になるって私は思う。だって夢はその人の原点だからね」


 杏さんは体育座りをしている俺の前に立つ。

 辺りがより一層暗くなるのに比例して、杏さんを月明かりが照らす。

 そのまま腰を曲げ、顔を近づける。


「千坂君はその夢叶えたい?」


 単純な問いだ。

 けれど回答次第でこれからのすべてが決まってしまいそうなほどの核心をつく問い。


 いつだってそうだ。

 単純でわかりやすいと思っている決断こそが人生の分岐点になる。


 みおなら。


 俺はいつも澪の判断基準に知らず知らずのうちに、無自覚に頼っていた。

 それなのに澪の隣にいれればいいなんて都合の良いことばっか。

 笑えるな。

“澪の隣にいることができている”

 そうやって自分を誤魔化した。

 本当はずっと後ろをついて回ってただけだった。

 きっと気づいていた。

 でも、気づかないふりをしていた。

 気づいたてしまったら隣にいれないって思ったから。

 最初から隣になんていなかったのに。


 澪は最初から見抜いていたのかもしれない。

 いつも俺の本心を聞きたがっていた。

 心からの言葉を求めていた。


 そして、澪にとってそれが初めて聞けたのが中学2年のここでのやり取りだったんだ。

 だからあんなに弾ける笑顔を見せてくれた。

 桜なんて目に入らないくらいあの時俺は澪に見惚れていた。


 俺は伝えるべき言葉を、想いを、気持ちを先に先に延ばして伝えてこなかった。

 澪と物心ついたときから一緒にいたからかな。

 皮肉だな。


“いつでも”伝えられるなんて幻想を持っていた。



 もう伝えることはできない。届くことなんてない。


 澪はもういないのだから。


 未来は現在という地点から“まだ来ない”のではなく、“ただない”


 ごめん、澪。

 こんなことにも気づけなくて。


 俺の夢は澪の夢。

 それは少し違った。

 あのとき2人で話したように。


 2人の夢だ。


「……叶えたい」

 顔を両腕の隙間にうずめ、暗く冷たい地面を見つめながらつぶやく。


 そして、立ち上がりその瑠璃色の瞳を見つめる。

「俺は叶えるよ」


 杏さんは俺の顔を見て一瞬目を見開く砕けた笑顔を見せてくれる。

「うん。そうしたほうがいいよ」


「だってあんなに楽しそうに話してくれるんだから千坂君の想いは本物だと私は思うよ」


 ――アオは本当に楽しそうに多賀城について話してくれるよね


 はは、本当に笑っちゃうくらい似てるな。


 杏さんは俺の表情を見て、クエスチョンマークを浮かべる。

「ん?なにか可笑しかった?」

「いや、昔同じようなことを言われたなって思い出してさ」

 目をぱちくりさせる。

「それってさっきの憧れてる人?」

「まぁそんなところ」


 もう辺りもすっかり暗くなってしまった。

 特にここ政庁跡付近は街灯が少ないため、月明かりが頼みである。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。

 杏さんが前から画面を覗いてくる。


「あ、もう19時過ぎてる」

「色々付き合わせてごめん……」

「いいのいいの。元はと言えば私から言ったことだからね。それにほら後ろ見てみて」


 杏さんの言葉に従い、後ろを振り返る。

 そこには政庁跡を囲むように咲き乱れ、この紺碧の空間に浮かび上がる桜。

 風に吹かれ、月光に照らされ、この場を由緒ある神聖な場であることを示している。


「これが見れたしね。それで十分」

 そう言って、体をぐーっと伸ばす。


「さて、では帰りますか」

「送ってくよ」

 俺はお尻についた草を払いながら、立ち上がる。

「お、流石わかってるね~」

 杏さんは左目をだけを綺麗に閉じ、ウインクをする。

「からかうなら置いてくよ」

「冗談だってばー。ちょっと待ってよー」


 **


「ここまでで大丈夫だよ」

 杏さんと政庁跡を後にして、15分ほど城南地区のほうへ歩いた。

「今日は本当にありがとう。おかげで気持ちが整理できたよ」

「それならよかったよ。少しは碧くんの力になれたかな」


 ん? 何か聞き覚えの無い言葉が聞こえたような……


「え?」

「ん?」

「今、名前……あおいくんって」


 そう違和感の正体は杏さんが突然俺の名前を呼んできたからだ。

 これまでは千坂君と呼ばれていたのに。


「だって執行部のメンバーのこと皆名前で呼んでるでしょ? だから私も名前呼んでほしいなーって思って、まずは自分からと思い……」

「な、なるほど。それは確かにそうだね」


「今日、悩みを打ち明けられたってことで名前で呼ばれるくらいには距離が縮まったと思い、チャンスは今かなってー」

「うん。まぁ名前で呼ばれるの嫌いじゃないし、むしろ嬉しいよ」

「ほ、本当に? じゃあ私のことも汐璃って呼んだよ」


 まぁ杏さんだけ苗字ってなると疎外感を感じたりしてたのかな。

 でも、よく考えてみてほしい。

 出会ってすぐに異性に名前で呼ばれるのって女子的にどうなんだろうか。

 中学生の頃は女子のこと名前で呼んでたけど、高校に入学してからは何故か苗字で呼ぶことになったんだよな。


「それじゃあ改めてよろしくね、汐璃しおりさん」

「え?」

「ん?」

「普通こういうのって名前を呼ぶのに手こずったり、呼べずに苗字で呼んじゃうっていうのがお決まりじゃないの!?」

「いや、それは漫画とかアニメでの話だよ」

「えー照れて赤くなる碧くん見たかった……」

 露骨に不服そうな顔を見せる。

 クールな人だと思ったけど、仲良くなるといろんな表情を見せてくれるんだな。


「ご期待に沿えなくてごめんなさいね」


「はは、冗談冗談。それじゃあ送ってくれてありがとう。気を付けてね」

「うん。じゃあまた来週」


 手を振る汐璃さんを背に来た道を戻り、家路につく。

 ここら辺の浮島地区は街灯が少ないため、月明かりがよく照らしてくれる。

 夜空には星がはっきりと浮かびあがっている。

 そんな美しい夜空を見上げながら、心の中でつぶやく。


(澪はずっと俺の想いを気持ちを伝えてほしかったんだよな。見て見ぬふりしてた。ごめん。澪と俺の2人の夢をもう一回叶えれるように頑張るからさ、見守っててほしい)


 暖かい春風が優しく肌を撫でるように包むように吹いた。


 **

 からもも汐璃しおり


 ぼふっ

 自室のベッドに勢いをつけ、躊躇なく飛び込む。

 至福の時間……


 あおいくんと別れてから夕飯を食べて、今に至る。


 今日は碧くんの意外な一面を見ることができた。

 やっぱり一緒に帰ろうと提案したことは間違いではなかった。


 碧くんはその立場もあってか弱い部分を滅多に見せない。それは誰だって自分の弱いところは見せたくはないものだけど、碧くんはそれが人一倍強い。


 そこを隠すように見抜かれないように何層にも壁を張り巡らせて、破られるごとにすぐに新しく張り巡らしていく。


 でも、今日はその厚い厚い壁がすでに破られていた。

 だからあそこまで踏み込んだ話をすることができた。


「はぁ……」


 私には気になることが1つある。

 それは碧くんの話にも出ていた憧れの人である。

 あの話を聞く限り今の碧くんにかなりの影響を与えた人だ。


「会ってみたいな」

「でも、碧くんのことアオって呼んでたよね」


 執行部の人たち碧くんの呼び方を整理してみる。

 時雨しぐれくんは会長

 白藍しらあいくんはあおい

 鈴望れみさんはアオイ

 なぎさんはアオ君


「ということは今の執行部のメンバーにはいないってことかな。でも、確か凪さんと碧くんって幼なじみだったから呼び名が変わったことも考えれるのかな……」


 こればっかりは考えてもわからない。


「ふぅ、今日の復習しよう」


 私はまだ知らない。

 その人がどんな人なのか。

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